第3話:ハイ・エルフと魔導の箱と初めてのお客さん
翌朝、私は支給された『ひだまりパン亭』の清潔な制服を身にまとい、ついに憧れのカウンターへと立っていた。
開店前の静かな店内。焼き立てのパンの匂いが充満する売り場は、昨日までの行き倒れ生活が嘘のように居心地が良い。どんくさい私に接客なんて大役が務まるのかという不安はあるけれど、まずは気合を入れ直して売り場の確認を始める。
と、その時、カウンターの奥の壁際に並んだ『妙な代物』が私の目に留まった。
「……マルタさん、これ……なんですか?」
それは、四角い形をした扉付きの小さな箱が三つ、横に並んだものだった。故郷の森はおろか、今までクビになってきた人間のどんな職場でも見たことがない謎の家具だ。
私が長い耳をパタパタさせながら覗き込んでいると、『OPEN』の看板を抱えたマルタさんが呆れたように笑った。
「なんだいユウ、ミークロヴェレを知らないのかい?」
「みーくろ、ゔぇれ……?」
「そうさ。魔導石の力で箱の中を熱して、冷めたパンをあっという間に温め直すことができる便利なもんだよ。焼き立てを買い逃したお客さんには、これでお好みの温かさにして出してあげるのさ」
魔導石の力で中だけを熱する箱。なんという文明の利器だろうか。
四百年生きているハイ・エルフの私をして「外の世界の技術の進歩は凄まじい」と戦慄せざるを得ない。しかし、そんな私の驚きを余所に、マルタさんは腰に手を当てて首を傾げた。
「しかし、魔導石を使ってるくせに、陶器のお皿一枚よりこれ一台の方が安いってのは、商人の私から見ても本当に謎だけどねぇ」
「陶器より安いんですか、これ!?」
「何言ってるんだい。この国はね、国内にいくつも魔鉱山があって魔導石がゴロゴロ採れるから、信じられないくらい安価なんだよ。逆に、陶器の原料になるまともな粘土はなぜかめちゃくちゃ少なくて希少なんだ。お皿一枚焼くのだって大層な高級品になっちまうのさ。だからこういう機械仕掛けの方が安上がりなんだよ」
なるほど、鉱山資源の偏りが生んだ、マルセーク特有の経済事情というわけだ。
魔導石が安くて粘土が貴重。エルフの魔法論では『高位の触媒』とされる魔導石が、この国では陶器の皿以下の価値として扱われ、パンを温めるためだけに大量生産されている。外の世界の経済原理、恐るべしである。
「まぁ、安く手に入るんだから細かいことはいいのさ。さあ、そろそろ開店の時間だよ!」
マルタさんが店の表の鍵を開け、勢いよくドアを開け放つ。
そういえば、以前から少し気になっていたことがあった。『ひだまりパン亭』の正面入り口のドアは、大衆店にしては妙に横幅も高さもある大柄な造りをしているのだ。オークのドリーですら、かがむことなく余裕で通れるほどの大きさである。
その理由が、記念すべき本日最初のお客さんの姿を見て、私はすぐに理解できた。
カランカラン、とドアベルが涼やかな音を立てる。
朝一番の爽やかな光を背に受けて店内に滑り込んできたのは、私の身長を遥かに超える、見上げるような巨躯の影だった。
灰色の美しい毛並みに、強靭な四肢。鋭い爪と牙。獣人の中でも最高位と言っていい膂力と魔力を持っている種族――『巨狼族』だ。
「……っ」
一瞬だけ肩が強張った。けれど、恐怖は感じなかった。
彼らは一流の戦士であり、その見た目は肉食獣その目で獰猛な顔つきをしている。けれど、彼らは見た目に反して非常に理性的だ。私の故郷であるハイ・エルフの間でも、彼らは『森の賢人』と呼ばれるほど賢く、その性格は穏やかであると教わってきた。エルフにとっては善き隣人というわけだ。
何より、私には彼らに対する温かい思い出がある。
今からおよそ三百年前――私がまだ百歳くらいの、エルフとしては子供だった頃の話だ。外の世界への好奇心が抑えきれず、黄金樹の森の境界線付近で迷子になり、泣きべそをかいていた私を、偶然通りかかった巨狼族の旅戦士が、優しく抱え上げて里の近くまで送り届けてくれたことがあったのだ。
「おや、マルタ。見慣れない尖り耳のお嬢さんがいるな」
巨狼族の男性は、地鳴りのような、けれど酷く落ち着いた声音でそう言った。その琥珀色の瞳には、確かな知性の光が宿っている。
「おはよう、ヴォルフさん! そうなんだよ、昨日からうちで引き取ったユウさ。どんくさいけど、鼻だけは一流のエルフだよ。ユウ、こちら常連のヴォルフさん。市場の警備隊長さんさ」
「あ、お、おはようございます、ヴォルフ様! ユウ・カーマインと申します!」
私は慌ててペコリと頭を下げた。長い耳が緊張でピコピコと跳ねる。
ヴォルフさんはフンス、と鼻を鳴らし、私の顔をじっと見つめた。それから、どこか懐かしむようにふっと目を細める。
「ユウ、か。……いや、気にするな。マルタ、今日もいつもの堅焼きパンを……と、言いたいところだが、何やら厨房の方から、嗅ぎ慣れない美味そうな香りが漂ってくるな?」
「さすがはヴォルフさん、鼻が良いですね! 実は昨日、新しい小麦を使って試作したパンが三種類あるんです」
私はカウンターに並んだ、昨日私たちが試作したばかりの新メニューを指さした。ヴォルフさんは「ほう」と琥珀色の瞳を輝かせ、どれがおすすめだい、と私を促す。
「ええと、お肉料理には『ローズマリーとくるみ』、お酒と合わせるなら『オレガノとローストアーモンド』がいいかと思います。『パセリとカシューナッツ』も新しい食感でお勧めできますね。……あ、どれもお勧めになっちゃいました……」
自分で言っていて恥ずかしくなり、私は長い耳を真っ赤にしてペコペコと頭を下げた。これじゃあおすすめになっていない。やっぱり私は接客に向いていないんだ、と落ち込みかけたその時。
「ハハハハハ! いい接客だ。どれも本当に自信作なのだな」
ヴォルフさんは地鳴りのような低い声で、けれどとても愉快そうにひとしきり笑った。その温かい笑い声に、私の緊張がふっと解けていく。
「では、一つずつ試食させてくれ。できるか?」
「えっ……」
試食。切り分けて出すにしても、もう冷めてしまっている。私は自分だけでは判断がつかなくて、助けを求めるように厨房のマルタさんを見た。
マルタさんは大きく頷き、カウンターの奥を指さした。
「いいよ、やっておやり! ユウ、さっき教えたミークロヴェレを使ってみな。なに、箱のドアを開いて入れるだけで、そいつが食材の質を判断して適温に温めてくれるからさ」
「えっ、入れるだけで自動なんですか!?」
ボタンを押すとか、魔力を細かく調節するとか、そういうどんくさい私に最も向いていない作業は一切必要ないらしい。高価な魔導石を贅沢にぶち込んでいるからこその超親切設計だ。やっぱり陶器のお皿より安い理由がわからない。
「わ、分かりました! ヴォルフ様、少々お待ちください!」
私はドリーが切り分けてくれた三種類のパンの塊を、それぞれ小さな木皿に載せると、緊張で手を震わせながらミークロヴェレの扉を開いた。
中にパンを入れ、パタン、と扉を閉める。
――ウィィィン……。
静かな駆動音とともに、箱の内部に仕込まれた魔導石が淡い青色の光を放ち始めた。箱が勝手にパンの水分量や最適な温度を『判断』しているのだ。箱の中で雷精が、物凄い速さで震えているのを感じた。
そしてわずか数秒後、チン、と小気味良い音が響いた。
「できた……!」
恐る恐る扉を開けると、そこから溢れ出してきたのは、昨日厨房で嗅いだあの焼き立ての瞬間の、爆発的なハーブとナッツの香ばしい匂いだった。
「さあ、どうぞ! 温かいうちに召し上がってください!」
焼き立ての香りをまとって完全に『復活』した三種類のパンを、ヴォルフさんは大きな爪のついた指先で器用に摘み、一切れずつ口へと運んでいく。
咀嚼するたびに、彼の立派な耳がピクリと動き、琥珀色の瞳が驚きに丸くなった。
「……素晴らしいな。ローズマリーは小麦の力強さを引き立て、オレガノは深いコクを生んでいる。そしてこのパセリとカシューナッツの絶妙な甘みの変化……。甲乙つけがたいほど、どれも美味い」
「本当ですか……! 良かったぁ……!」
私は胸に手を当ててホッと息を吐いた。
そんな私を見て、ヴォルフさんはフッと口元を緩めると、懐からずっしりとした革の財布を取り出した。
「選べん。全部一斤ずつ包んでくれ。今日の警備隊の朝食にする」
「えっ! 三種類とも全部ですか!? ありがとうございます!」
朝一番から大口の注文だ。私は大喜びで、ドリーが焼き上げてくれた大きなパンを三つ、丁寧に紙袋へと包んでヴォルフさんへと手渡した。
たくさん売れて嬉しい! とニコニコしている私の背後から、厨房のマルタさんとドリーがガクッと肩を落とす気配がした。
「おいおいヴォルフさん、ありがたいけどさぁ……」
ドリーが苦笑いしながら厨房から顔を出す。
「それじゃあ、どのパンが一番売れるかっていう売上競争の勝負が、初っ端からつかないじゃないか」
「ハハ、それは悪かったな。だが、美味いものはすべて手に入れたいのが狼の性でね」
ヴォルフさんは楽しそうに笑いながら大きな紙袋を受け取り、店を後にしようと振り返った。
そして、ドアに手をかけたところで足を止め、私の方を振り返らずに、けれど心底愛おしそうにぽつりと言い残した。
「ユウ。お前がハーブに詳しい『変わり者』のままでいてくれて、本当に良かった」
「え……?」
カランカラン、と涼やかな音を残して、巨狼族の背中が朝の街へと消えていく。
「今、私の名前を……。それに、変わり者って……」
私は自分の長い耳をピンと立てたまま、ハッと息を呑んだ。
マルタさんは私の名前を呼んだけれど、私が『黄金樹の森の変わり者』だったことまでは、さっきの会話では一言も話していない。
「まさか……あの時の、迷子を助けてくれた、おおかみさん……?」
三百年という、人間にとっては果てしない、けれどエルフにとっては確かに繋がっている記憶の糸が、一本のパンを通じて手繰り寄せられたような気がした。
「ちょっと、ユウ! ぼさっとしてる暇はないよ、次のお客さんだ!」
「あ、はいっ! いらっしゃいませ!」
胸の中にじんわりと広がった温かい余韻を抱き締めながら、私は次なる多種族のお客さんを迎えるべく、元気よく声を張り上げたのだった。




