第18話:ハイ・エルフ、王都の市場で未知の海鮮に出会う
ヘイスティさんが引くシンプルな馬車に揺られることしばし。私たちは王都アルグスヴルクの南西に位置する、この国最大の巨大市場へと到着した。
しかし、馬車から一歩足を踏み出した瞬間、我々『ひだまりパン亭』の三人組は、揃ってその場に硬直せざるを得なかった。
「こ、これが市場だってのかい……?」
「す、すげぇな……。サイディーンの街丸々一個分以上の土地があるんじゃないか……?」
「それに人混みが凄い……。こんなに大勢の人間と亜人が一ところにいるなんて、私、四百年の人生で一度も見たことないです……」
市場の巨大な城門の外側にいるというのに、地鳴りのような喧騒が容赦なく私たちを襲ってきた。
商人たちの激しい値段交渉の声、競り市の怒号、威勢のいい店への呼び込み、石畳を行き交う無数の馬車の車輪の音、そしてその間をすり抜けて走り回る子供たちの笑い声。それらすべてが混然一体となって、お上りさんの私たちの鼓膜を震わせる。
「ははは、隅から隅まで真面目に見て回るには、朝一番から夜の閉場まで毎日歩き回っても一週間はかかりますでしょうな。本日はお勧めポイントを私がピックアップしてありますので、順に回っていきましょう」
ヘイスティさんの頼もしすぎる言葉に、マルタさんは完全に毒気を抜かれたような顔で、「あ、ああ……頼むよ」と、ため息交じりに頷くのが精一杯だった。
優秀な案内人であるヘイスティさんがまず私たちを連れていってくれたのは、広大な食料品問屋が集まるエリアだった。問屋とは言っても、マルセークの進取の気風ゆえか、一般の買い物客も自由に入って売買することができるらしい。
馬車が止まったのは、様々なパン問屋やベーカリーが集中的に軒を連ねる一角だった。なるほど、まずは敵情視察ということか。本当に痒いところに手が届く人である。私たちはさっそく、市場に並ぶ王都のパンを一軒一軒見て回った。
「ふうん……。王都のパン屋つっても、あんまり大したことないねぇ……」
いくつか買い求めてちぎって食べたマルタさんが、拍子抜けしたような顔で呟く。
「確かに、使っている小麦はどれも上物ですし、美味しいとは思うんですけど……。私たちの店と比べると、なんだかイマイチかもしれません。ハーブブレッドとか、あのチョコチップブレッドみたいな尖ったメニューもありませんでしたし」
王都の最先端だから、もっと変わったものや、今後の参考になるような目新しいパンに出会えると思ったけれど、なんとなく空振りした気分だ。しかし、そんな私達に、ドリーが腕を組んで冷静な分析を口にした。
「だけどよマルタ、うちは一つ一つ手ごねでハーブを混ぜ込んで、あんたの絶妙な火加減で丁寧に焼き上げてるんだ。ここらの店に並んでるパンは、魔導の機械を使っている大量生産品だろ? 正直、将来的にこの王都の規模でうちの店を回せるか、いくら人を増やしたとしても俺は疑問だぜ」
「……っ」
ドリーの言葉に、マルタさんが珍しく静かに考え込んでしまった。
確かにドリーの言う通りだ。彼のような生地の声を聴ける腕利きの職人や、マルタさんのように窯の精霊と対話しているとしか思えない焼き手は、この世界でも極めて稀だろう。『ひだまりパン亭』は、あの小規模な厨房だからこそ、至高のクオリティを維持して回せているという側面は確かにある。
今後、仮に王都のホテルに大量納品するような大手の販路を開拓するにしても、質が落ちてしまっては本末転倒なのだ。
「そうだねぇ……。ドリーの言う通りさね」
マルタさんはしばらく自分の手を見つめていたが、やがて顔を上げると、決然として言った。
「人は増やすつもりだったけど、パンの質だけは絶対に落とさない。新人が入ってきても、あたしたちがじっくり丁寧に育てることにするわ。ホテルへの大量納品は、おいおい実力がついてから考えるとするよ!」
大量生産と、質の維持。その二つを天秤にかけて、マルタさんは迷わず後者の重さを選んだ。
それを見極められただけでも、この王都の敵情視察は極めて有意義だったかもしれない。もっとも、ここはあの初代国王が創った不思議の国マルセークだ。質と量を天秤にかけず、魔導技術で両立させてしまうような『技術的転換』が、いつか起こるのかもしれないけれど。ハイ・エルフの私の寿命がいつまで続くかは分からないけれど、いつかそんな未来のパン屋を見てみたいものだ。
*
次に向かったのは、この市場で今最も活発だという、巨大な『競り市』の会場だった。
建物の中に入った瞬間、何百人もの商人たちが大声を上げて数字を叫び合っており、私の過敏な長い耳は周囲の音を拾いすぎて、危うく目眩を起こしそうになった。
「ふむ、エルフのお嬢さんには少々刺激が強すぎましたかな? ですが、ここを見てもらわないことには、アルグスヴルク市場の真髄は理解できないと思いますので」
ヘイスティさんが手際よく、消音の術式が込められた耳栓を渡してくれた。それを耳に嵌めると、ようやく喧騒が遠のいて息をつくことができた。落ち着いて周りを見回した瞬間、私は自分の目を疑った。
「おっ、お魚!? マルタさん、川では見たこともないようなお魚が、元気に泳いでいます!!」
私の視線の先、レンガ造りの床に据えられた巨大な硝子の水槽の中で、見たこともないほど立派な魚たちが悠々と泳ぎ回っていたのだ。時々、屈強な半裸のオークの作業員が、巨大な網で活きのいい魚を水しぶきと共にひょいとすくい上げていく。
「ああ、あれは『生け簀』ですな。南の通商ギルド連合国の沿岸で獲れた海の魚を、専用の魔導列車を使って、海水ごと生きたままここまで運んで来てるんですよ。内陸部のこの王都で新鮮な海の魚が食べられるのも、その高度な物流のおかげです。……まぁ、少々お高いですがね」
(う゛……。そういえば、昨晩のホテルのビュッフェにも、そんなお魚料理があった気がする……。完全に肉と肉と肉の三重奏に気を取られていて、一ミリも目に入っていなかった……)
己の肉食獣っぷりを深く反省しつつ、その後も、氷漬けにされた人間より巨大な魚──ヘイスティさん曰く『マグロ』というらしい──の豪快な競りを見学したりしているうちに、お腹の虫が鳴り、ちょうどお昼ご飯の時間になった。
ヘイスティさんは「この近くにお勧めのお店がありますよ」と、市場の片隅にある『海鮮食堂・山田飯店』という、何やら聞いたこともない奇妙な異国の響きを持つ名前のお店へと私たちを誘った。
「へい、らっしゃい! おっ、ヘイスティの旦那、お久しぶり! とうとう宮仕えに飽きて、うちの手伝いにでもきてくれたのかい?」
「いや、今日はお客人のご案内だよ、大将。……それから、宮仕えと言うのはここで言うのやめていただきたい」
──あー、やっぱりヘイスティさん、アパレル業者じゃなくてガチの宮廷勤めの官僚さんなんだー……。
確信犯的なやり取りに心の中で静かに突っ込みを入れる私たちを余所に、威勢のいい大将とヘイスティさんの会話は続いていく。
「いつもの『海鮮丼』を四つ。……いや、失礼、ドリー様は採食主義者であらせられたな。大将、海鮮丼は三つで。こちらのオーク殿には、市場直送の根菜と海草のサラダを特盛で頼むよ」
「あいよっ!」
また知らない名前が出てきた。カイセンドン……一体どんな食べ物なのだろうか。
「おっと、まずはこれ、小腹満たしの『突き出し』ね!」
大将が手早く、美しい陶器製の小鉢に入った、これまた見たこともない食べ物を私たちの前に出してきた。
……さりげなく高級品の陶器の器を出してくるあたり、このお店はもしや隠れた高級料亭なのでは? と思ったけれど、周りを見回すと、競り市の仕事を終えたばかりの魚臭いオーガやコボルトの労働者たちが、平然と飯をかっこんでいる。うーん、マルセークの経済事情はやっぱりよく分からない。
まぁいいか。とにかく、このツキダシとやらを食べてみよう。スプーンですくって、口に運んだ。
「……っ!?」
美味い!!
何かの魚の身を蒸して細かくほぐしたものを、濃厚なオリーブオイルに漬け込んで、さらに高温高圧で完全に熟成させたような旨味の塊。そこに、サラダのドレッシングの筈の、あの酸味のある濃厚なホワイトソース――マヨネーズが完璧に絡み合っている。
私は衝撃のあまり、身を乗り出して大将に詰め寄っていた。
「大将! これ、一体どうやって作るんですか!? どんな秘伝の魔法を使えばこんな濃厚な味になるんですか!?」
「いや、どうやってもなにも……。そこらの店で売ってる、通商ギルド連合製の缶詰の『ツナフレーク』に、市販のマヨネーズを和えただけだよ……。恥ずかしいからそんな大声で聞かんでくれよ、お嬢ちゃん」
大将に苦笑いされ、私は恥ずかしくなって長い耳を真っ赤にして席に座り直した。
しかし、私の脳内では、パン職人としての目利きがマッハの速度で火を噴いていた。私は隣に座るマルタさんの耳元へ顔を寄せ、低く耳打ちした。
「マルタさん、マルタさん。この『ツナフレークのマヨネーズ和え』、うちの自慢の『パセリとカシューナッツ』のパンの真ん中にナイフで切れ目を入れて、レタスと一緒に挟んだら、信じられないくらい美味しくて売れそうですけど、どうでしょうか!?」
「……悪魔的発想だねぇ、あんた……」
マルタさんの栗色の目が、商売人の光を帯びてギラリと輝く。
「でも、悪くないよ。その缶詰の仕入れ値にもよるけどさ、今晩のレンタルキッチンでの仕込みで、さっそく試作してみようじゃないかい!」
私たちが早くも王都の市場で悪だくみを完成させている所へ、大将が両手に大きなどんぶりを抱えて戻ってきた。
「はいよ、お待ち遠さま! 特上『海鮮丼』だ!」
目の前に置かれた陶器製の丼の中には、未知の世界が広がっていた。
酢の利いた白米の上を埋め尽くすように敷き詰められた、艶やかに光る生の魚の切り身の数々。そして、魚卵と思しき、まるでルビーの宝石のように赤くきらめく小さな粒。さらには、何に例えていいのかすら分からない、ドロリとした黄色い不思議な物体。全体的に、さっきの魚の競り市で嗅いだ、あの濃厚な海の匂いが漂っている。
私は深く考えもせず、丼の中央にトッピングされていた、何やら鮮やかな緑色のペーストを、ハーブか何かだと思ってスプーンでひょいとすくってそのまま口に運んだ。
「――っ!!! か、かかか辛いっ!! 鼻がツーンって! 脳みそまでツーンって突き抜けるぅぅぅ!!」
私は涙目を通り越して大号泣しながら、カウンターの椅子の上でのたうち回った。長い耳が恐怖でピンと直立する。
「ははは! お嬢さん、生の『ワサビ』は初めてかい?」
大将がガハハと笑いながら、キンキンに冷えた緑茶のカップを出してくれた。一気に飲み干して、ようやく鼻の火事(?)が収まる。大将は手際よく、私が食べてしまった分のワサビの塊を、再び丼の端っこにちょんと乗せ直してくれた。
「そいつはな、その脂の乗った生の切り身――『トロ』にちょっとずつ付けて食べるんだよ。で、この大豆ベースのしょっぱい黒いソース、『醤油』を丼の上から適当に回しがけしてさ……。そう、それくらいだ」
私は大将に教えられた通りに、ショーユとやらを回しかけ、恐る恐るワサビをトロの切り身に少しだけ塗りつけた。そして、スプーンで下のご飯もろとも、一気に口の中へと放り込んでみた。
――……こ、これは……ッ!!!
私の四百年のエルフの味覚に、本日最大の天変地異が巻き起こった。
口の中に入れた瞬間に、体温だけで文字通りトロリと蕩けていく極上の切り身。そこに絡み合う、大豆の香ばしさと塩気の利いた完璧なソース。切り身のわずかな生臭さを一瞬で爽快に中和する、先ほど私を泣かせたワサビの気高い香り。そして、それらすべての味の暴力を優しく受け止める、ほんのりビネガーの利いた、未体験の味のする白いご飯。
それらすべてが完璧に調和して、口の中で一体となって溶け合っていくのだ。
さらに、赤い魚卵が口の中でプチプチと弾けるたびに濃厚な旨味が溢れて楽しい。あの得体の知れない黄色い半ペースト状の物体も、口に含めば芳醇な磯の香りとクリームのような濃厚な味わいが広がる。
気が付くと私は、ハイ・エルフの気品もクソもなく、丼に顔を突っ込まんばかりの勢いで、夢中になって海鮮丼をがっついていた。
「いい食いっぷりだねぇ、お嬢ちゃん。その赤いのは『イクラ』。通商ギルド連合の海で獲れるサーモンの卵を、醤油漬けにしたもんだ。黄色い『ウニ』は、海岸の岩場にいる、森で言う栗のトゲトゲみたいな殻で身体を覆っている変な生き物の中身さ。どうだい、美味いだろ?」
私は顔を上げる暇すら惜しく、スプーンを高速で動かしながら、大将の言葉にコクコクと激しく首を縦に振り続けた。
そして、瞬く間に私とマルタさん、そして特盛の異国風サラダをたらふく平らげたドリーの器は、一滴のソースすら残さず綺麗に空っぽになったのだった。
「ふぅ……。生き返りました……」
一息ついて、冷たい緑茶をずずっと飲んでいると、隣のテーブルに座っていた商人たちの会話が、私の長い耳に自然と入ってきた。
「おい、例の『蒸気帆船』の件、どう思う? 郷里の通商ギルドの連中と、ここの開発連中がわちゃわちゃやってる新型の奴さ」
「うーん、風に左右されないのは便利そうではあるけど、どうだろうなぁ……。あんな重たい鉄の機械を船に載せるくらいなら、その分、一品でも多くの貨物を積んだ方が商売としては良さそうなもんだけどな。どっちみち帆は張るんだし」
「だけどよ、風が全くない無風の海域でも、魔導石の力だけでガシガシ航行できるってのは、ちょっと凄くないか?」
「それはそうだけどさぁ、船の両舷にデカい水車みたいなのをつけるんだろ? 見た目がちょっと格好悪いよなぁ」
──あ、やっぱり……。魔導列車のあの巨大な蒸気機関の技術を、今度は外洋の巨大な交易船に組み込む国家プロジェクトが進んでいるんだ……
話しているのは、南の国境からやってきた通商ギルド連合国の商人たちのようだった。
海上交易を生業としている彼らにとって、新しい動力システムを搭載した船というのは、まさに国運を賭けた最大の関心事なのだろう。こんな大衆食堂の真ん中でオープンに話していい情報なのかは分からないけれど、それだけこの王都の人々の間では、新しい技術への関心が高いということだ。
「おっと、皆様、そろそろ次の場所に行きましょう。確か、先ほどの商品計画のために、その『ツナの缶詰』を大量に買い込まなくてはならないのでしょう?」
ヘイスティさんが懐中時計を取り出しながら、ニヤリと笑った。
どうやら、さっきの私とマルタさんの悪だくみ──ツナマヨサンドの計画──がバッチリ聞こえていたらしい。
「あはは、さすがヘイスティさん! 買い付けの問屋へ案内をお願いします!」
本当に痒いところに手が届く優秀な案内人に感謝しながら、私たちは魔法のカードをポケットに忍ばせ、極上チョコパン、そして新しくひらめいた悪魔のツナマヨパンの材料を仕入れるべく、再び市場の喧騒へと元気よく繰り出すのだった。




