第9話 浄税は名前で払わない
灰麦村へ向かう道は、白く乾いていた。
馬車は途中で止めた。
村の手前にある細い道は、車輪が入るには狭い。
イレイナ・ハングレイスは白いヴェールをかぶり直し、道端に降りた。
白い聖女服の裾が、乾いた土を払う。
後ろで、リリアナが小さな荷を抱えた。
そのさらに後ろで、ラヴィニア・クロウフォードが上機嫌に微笑んでいる。
外出用の落ち着いた黒のドレスに、白い手袋。
銀灰色の髪には、いつもの黒百合の髪飾り。
歩幅は上品だった。
距離は近かった。
「お姉さまとお出かけですわね」
「随行です」
イレイナは前を向いたまま言った。
声は、聖女のものだった。
「お姉さまに随行ですわね」
「呼び方が間違っていますよ、ラヴィニア」
リリアナが、二人の間を見た。
「距離が近いです」
「ええ。暑苦しいです」
イレイナは即答した。
ラヴィニアは胸に手を当てた。
「失礼いたしました。連れてきていただけたことが嬉しくて」
「嬉しさで距離を詰めないでください。犬ですか?」
「お姉さまが望むならすぐにでも、犬になりますわよ」
灰麦村は、丘の下にあった。
麦の村と聞いていた。
だが、風に乗ってくる匂いは、パンでも粥でもなかった。
乾いた土。
薄い煙。
古い布。
村の入口には、灰色の麦の印がついた木札が立っている。
その下に、白い札が何枚も吊られていた。
村の道は掃かれている。
畑も荒れていない。
家の壁も崩れていない。
戸口には、どの家にも灰色の麦印が押されていた。
薄く一つの家。
濃く一つの家。
二重に押された家。
その差だけが、やけに目についた。
イレイナが村へ入ると、井戸端にいた女たちが手を止めた。
子どもが、手に持っていた硬い麦パンを胸に隠す。
男が荷車を押す手を止める。
ただ、みんなが同じように背を正した。
「聖女様」
井戸端の女が頭を下げた。
少し遅れて、周りも頭を下げる。
イレイナは、柔らかく微笑んだ。
「急にお邪魔して申し訳ありません。灰麦村の浄税について、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
女の手が、桶の縁を握った。
「はい。清めのためでございます」
「清め、ですか」
「村の清めでございます」
別の男が、すぐ後を継いだ。
「浄税は感謝です」
もう一人。
「浄税は清めです」
さらに、井戸の向こうから。
「村の務めです」
言葉が揃っていた。
声の高さも、切る場所も、ほとんど同じだった。
イレイナは微笑んだまま、瞬きを一つした。
隣で、ラヴィニアが小さく息を吐く。
「言葉が揃いすぎておりますわ」
イレイナは、視線だけを向けた。
「どういうことですか」
「人が自分の痛みを話す時、ここまで綺麗には揃いません」
ラヴィニアの声は低い。
上機嫌の色が、少しだけ引いていた。
「教えられた言葉に聞こえますわ」
イレイナは井戸端の女へ向き直る。
「案内役の方はいらっしゃいますか」
「奉納総代様が」
女は、村の奥を指した。
その指先は、二重の灰麦印が押された家を避けていた。
村の広場に、男が立っていた。
年は五十前後。
背筋はまっすぐで、服は地味だが清潔。
首から、灰色の麦をかたどった木札を下げている。
男はイレイナを見ると、深く頭を下げた。
「聖女様、ようこそ灰麦村へ。奉納総代を務めております、バラムでございます」
「イレイナ・ハングレイスです。突然の訪問をお許しください」
「とんでもございません。聖女様に足を運んでいただけるなど、村の誉れでございます」
丁寧だった。
声も穏やかだった。
悪意のある笑みではない。
バラムは村人たちを見回し、安心させるように頷いてみせる。
何人かの肩から、わずかに力が抜けた。
イレイナは広場を見た。
掲示板には白い札が並んでいる。
家名。
浄税額。
浄役日数。
赤い線で囲われた札が一枚だけあった。
ベルク家。
戻り娘あり。
清め未了。
浄役不足。
その横にも、灰色の麦印。
他より濃い。
「ずいぶん札の多い村ですね」
イレイナが言った。
「信仰の厚い村でございますので」
バラムは穏やかに答えた。
「信仰は、札で示すものなのですか」
「目に見える形にしなければ、人は忘れてしまいます」
「何を忘れるというのです?」
「清めを」
バラムは、赤い線の札を見た。
それから、すぐ視線を戻す。
「村全体で支え合うためでございます」
イレイナは、まだ微笑んでいた。
「浄税帳を拝見できますか」
「もちろんでございます」
バラムは広場の端にある小屋へ案内した。
奉納小屋と呼ばれているらしい。
棚には白い布。
紐で束ねられた札。
バラムは誇らしげに帳面を開いた。
「すべて正しく記録しております」
イレイナは帳面を覗き込む。
小麦、布、清め料、浄役、奉仕日数。
家名の横には、清め済と清め未了、戻り娘加算の印が並んでいた。
帳面は妙に綺麗だった。
ラヴィニアが一歩前へ出た。
近い。
イレイナは小さく言う。
「近いです」
「失礼いたしました」
ラヴィニアは半歩下がる。
それでも、目は帳面から離れない。
白い手袋の指は、紙に触れない。
ただ、視線だけが行を追っている。
ゆっくり。
上から下へ。
家名から日数へ。
日数から印へ。
印から、赤い線へ。
「見えましたわ」
ラヴィニアが言った。
「何がですか」
「どの家に負担を寄せているのか」
イレイナは眉を寄せた。
「言ってください」
ラヴィニアは、赤い線で囲われた家名を見た。
「ベルク家ですわ」
小さく言ってから、声を戻す。
「誰かが盗んでいる帳面ではありませんわ」
イレイナの目が、帳面へ戻る。
「どういう意味ですか」
「小麦も布も銀貨も、記録上は消えておりません。奉納先も書かれています。清め料も、浄役も、帳尻は合っています」
バラムが頷いた。
「その通りでございます。我々は、何一つ隠しておりません」
「ええ」
ラヴィニアは微笑んだ。
ひどく静かな笑みだった。
「だからこそ、嫌ですわね」
バラムの眉が動く。
「どういう意味でしょう」
「同じ家が、何度も削られています」
ラヴィニアの指が、紙には触れずに動く。
「清め料。浄役。戻り娘加算。奉仕日数不足。村全体の清め未了分。全部、別の名目ですわ」
「それぞれ意味のある務めでございます」
「ええ。意味はありますわ」
ラヴィニアは、赤い線で囲われた家名を見た。
「削るための意味が」
小屋の中が静かになった。
イレイナは帳面を見た。
ベルク家。
戻り娘あり。
清め未了。
浄役不足。
追加清め。
村分負担。
日数の列には、細い線が何本も引かれている。
バラムは、声を荒げなかった。
ただ、困ったように眉を下げた。
「ベルク家には、村に不安を広げぬため、少し多めに清めを負っていただいております」
「少し」
イレイナは繰り返した。
「はい。村全体の信仰を守るためです」
「あの家が負えば、他家へ回る清め札も浄役も薄くなりますので」
「戻り娘とは」
「神殿見習いとして出した娘が、戻ってきた者です」
「名前は」
バラムは、一瞬だけ口を閉じた。
「村では、戻り娘と呼ばれております」
「名前を聞いております」
イレイナの声は、まだ丁寧だった。
だが、小屋の空気が細くなる。
バラムは、帳面の端に視線を落とした。
「……マリナ・ベルクです」
戸の外で、誰かが息を呑んだ。
イレイナは振り返らない。
「なぜ、帳面にその名がないのですか」
「清めの途中ですので」
「清めが済むまで、名前は記さない」
「人数には数えます。村の割り当てがございますので」
「ですが、名のある者への配分には入れません」
「不浄を広げないための慣例でございます」
ラヴィニアの視線が、イレイナに向いた。
何も言わない。
イレイナは、ヴェールの下で目を細めた。
「その慣例は、神殿から」
「はい。巡回司祭オルド様より、清めの定めとして」
「そうですか」
イレイナは帳面を閉じなかった。
指先で、戻り娘、の文字だけを押さえた。
「ベルク家へ案内してください」
バラムは、静かに頷いた。
灰麦村の道は綺麗だった。
綺麗すぎた。
戸口の前に置かれた桶。
畳まれた布。
束ねられた麦わら。
どれも揃っている。
だが、人の声が少ない。
井戸端の女たちは、こちらを見てすぐ目を伏せる。
子どもたちは、家の陰へ下がる。
誰もマリナの家を指ささない。
誰も名前を出さない。
ただ、その家だけを避けて歩いている。
道の途中で、老人が杖をついて立っていた。
バラムが軽く頭を下げる。
「お疲れ様です」
「いえ。清めのためですから」
老人はそう言った。
その言葉も、井戸端と同じだった。
イレイナは足を止める。
「ベルク家の清めについて、どうお考えですか」
老人は困った顔をした。
「責めているわけではありません」
すぐに出た。
「ただ、早く終わってほしいだけで」
誰かが家の中で、戸を閉めた。
老人はその音に肩を揺らす。
「村も、不安ですから」
「不安」
「はい。あの家が清まれば、村も落ち着きます」
「戻り娘が一人おりますと、札も浄役も、まずあの家へ回ります」
「名のない者は配給札にも入りませんので、皆もどうにかやっていけます」
老人は悪人の顔をしていなかった。
イレイナは何も言わず、歩き出した。
ラヴィニアが、半歩後ろをついてくる。
足音は軽い。
だが、顔から上機嫌は消えていた。
「イレイナ様」
「何ですか」
「さっきから、みな同じ言葉を使いますわ」
「ええ」
イレイナは答えなかった。
ベルク家は、村の外れにあった。
壁は崩れていない。
屋根も落ちていない。
戸口には、灰色の麦印が二重に押されている。
その上から、白い清め札が貼られていた。
戻り娘あり。
清め未了。
浄役不足。
札の文字は綺麗だった。
バラムが戸の前に立つ。
「ベルク家。聖女様がお越しです」
中で、何かが落ちる音がした。
しばらくして、戸が細く開く。
出てきたのは、痩せた女だった。
年は四十前後。
目の下に濃い影がある。
女はイレイナの白い聖女服を見るなり、膝をつきかけた。
イレイナは、先に手を出した。
「そのままで結構です」
女の肩が震える。
「うちには、もう出せるものはありません」
最初の言葉が、それだった。
イレイナは、出した手を止めた。
「何を取りに来たと思っているのですか」
女は目を伏せた。
「神殿の方は、いつもそう仰います」
リリアナが、荷を持つ手に少し力を入れた。
ラヴィニアは、戸口の札を見ている。
バラムが、困ったように口を開いた。
「ベルク家は清めの途中でして、少し気が立っております」
「お母様ですか」
イレイナは女へ聞いた。
女は、迷ってから頷いた。
「はい」
「マリナ・ベルクさんに、お会いできますか」
女の顔が変わった。
名を呼ばれた瞬間だった。
「マリ――」
女の唇が、そこで止まった。
戸口の灰色の麦印を見る。
井戸端からこちらを見ている村人たちを見る。
それから、喉の奥へ言葉を押し戻した。
「……この子は、まだ清めの途中です」
戸の奥で、かすかに息を呑む音がした。
女は後ろを振り返る。
暗い部屋の奥。
布の影。
細い肩。
誰かが、そこにいる。
バラムが声を落とした。
「聖女様。戻り娘は、まだ清めの途中です。外の方にお目にかけるのは」
「名前は、マリナ・ベルクさんですね」
「はい。しかし村では」
「村では、ではありません」
イレイナの声は、静かだった。
バラムが口を閉じる。
戸の奥から、細い指が出た。
白い布切れを握っている。
神殿見習いの袖だった。
古く、端がほつれている。
「返して」
小さな声だった。
イレイナは、膝を折った。
見下ろさない。
戸の隙間と同じ高さまで、ゆっくり下がる。
「何をですか」
戸の奥で、少女の息が震えた。
「名前を」
イレイナは、浄税帳を見た。
リリアナが抱えていた帳面を開く。
そこには、戻り娘、と書かれていた。
不浄家。
清め未了。
浄役不足。
追加清め。
どこにも、マリナ・ベルクの名はなかった。
ラヴィニアが、帳面の空いた欄へ指を寄せた。
「本来なら、ここに書かれるはずでしたのに」
イレイナは答えない。
白いヴェールの下で、目だけが細くなる。
バラムは、困った顔で立っていた。
マリナの母は、袖を握りしめている。
井戸端から、村人たちがこちらを見ていた。
誰も笑っていない。
誰も怒鳴っていない。
誰も刃物を持っていない。
ただ、灰色の麦印だけが、戸口で濃く残っている。
イレイナは、指でその印に触れた。
灰が、白い手袋についた。
「分かりました」
聖女の声だった。
だが、リリアナが少しだけ顔を上げた。
ラヴィニアも、黙ってイレイナを見た。
イレイナは、灰色に汚れた指を握る。
「その名前、預かります」
戸の奥で、マリナ・ベルクが息を止めた。




