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神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
1章 黒百合のラヴィニア

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第10話 マリナの名はどこへ消えた


「その名前、預かります」


 イレイナがそう言ったあと、戸の奥でマリナ・ベルクが息を止めた。


 灰麦村の空気も、同じように止まった。


 灰色の麦印が、ベルク家の戸口に残っている。


 白い清め札が三枚。


 戻り娘あり。


 清め未了。


 浄役不足。


 墨はまだ濃かった。


 貼ったばかりみたいに、戸口に張りついている。


「聖女様」


 奉納総代バラムが、困ったように眉を下げた。


「それはできません」


 イレイナは、灰で汚れた手袋を下ろす。


 まだ聖女の顔だった。


「何がですか」


「名を戻すには、手順がございます」


「手順」


「はい。名伏せは、ベルク家からの願い出でございますので」


 マリナの母の肩が跳ねた。


 戸の奥で、白い布切れが震える。


 イレイナは、ゆっくり母親を見た。


 母親は何も言わない。


 唇を噛んでいる。


「願い出」


 ラヴィニアの声が、少し低くなった。


 先ほどまで、イレイナの半歩後ろにいた女だった。


 黒いドレス。


 白い手袋。


 銀灰色の髪に、黒百合の髪飾り。


 その目が、細くなる。


「では、控えがございますわね」


 バラムの視線が、ラヴィニアへ移る。


「控え、でございますか」


「ええ」


 ラヴィニアは、微笑んだ。


「人の名を消す紙は、必ず残しますもの」


 村人たちの中で、誰かが小さく息を呑んだ。


 バラムは、まだ穏やかな顔を保っている。


「浄税帳ならば、先ほどお見せしました。すべて正しく記録しております」


「あら」


 ラヴィニアは、ひどく楽しそうに目を細めた。


「そちらの帳面に興味はございませんわ」


 バラムの眉が、わずかに動いた。


「……どういう意味でしょう」


「整った帳面は、いくらでも作れますもの」


 イレイナが、横目でラヴィニアを見る。


 ラヴィニアは気にしない。


「都合の悪い写しなど、表の帳面に挟みません。少なくとも、私なら」


「都合の悪い写しなど、ございません」


「まあ」


 ラヴィニアは、声を少し弾ませた。


「今、写し、とは否定なさいませんでしたわね」


 バラムの手が、胸の灰麦札を押さえた。


 イレイナは、リリアナへ小さく身を寄せる。


「なあ、あいつ、えげつねぇぞ」


「はい」


 イレイナは、さらに声を落とした。


「今は頼もしいのが腹立たしいですね」


「あら」


 ラヴィニアが振り返った。


「お姉さま。仕事は続けても?」


「続けてください」


「はい。お姉さまのために」


「マリナさんのためです」


「いえ、お姉さまのためですわ」


 ラヴィニアは、バラムへ向き直る。


 笑みの温度が変わった。


 さっきまでイレイナへ向けていた熱が、ぴたりと消える。


 残ったのは、黒百合会の主宰だった女の目だった。


「では、奉納小屋へ戻りましょうか」


「なぜです」


「願い出の控えを見るためですわ」


「控えは、村の内々の記録でございます」


「内々ですか」


 ラヴィニアは白い手袋の指で、口元を隠した。


「人目に触れたくないものを隠すには便利な表現ですわね」


 バラムはイレイナを見た。


「聖女様。村には村の手順がございます」


「では、その手順を」


 イレイナは微笑んだ。


「拝見します」


 奉納小屋へ戻る道で、村人たちは道の端へ寄った。


 誰も止めない。


 誰も賛成もしない。


 ただ、ベルク家の戸口から、マリナの母がついてきた。


 足取りはおぼつかない。


 戸の奥から、白い袖だけが少し覗いている。


 奉納小屋の中は、先ほどと同じだった。


 棚には白い布。


 机の上に浄税帳。


 祈祷名簿。


 配給札の束。


 綺麗なものが、綺麗に並んでいる。


 バラムは浄税帳の前に立った。


「こちらが正式な記録でございます」


「ですから、そちらに興味はございませんわ」


 ラヴィニアは、浄税帳を見もしなかった。


 棚へ向かう。


 バラムが一歩動いた。


「そちらは清め札の控えでございます」


「ええ。ですから、見ますの」


「聖女様」


 バラムはイレイナへ訴えるように言った。


「清め札の控えは、村の実務上の記録でして」


 ラヴィニアが、くすりと笑う。


「表の帳面に置けないものは、いつも実務に入りますわ」


 イレイナは眉を寄せた。


「嫌な経験則ですね」


「役に立ちますでしょう?」


「思い出したくないことを思い出しそう」


 ラヴィニアは、棚の札束に手を伸ばした。


 白い札。


 清め済。


 清め未了。


 浄役不足。


 戻り娘あり。


 札の束を一つ持ち上げる。


 その下には何もない。


 もう一つ。


 その下にもない。


 バラムの喉が、小さく動く。


 ラヴィニアはそれを見て、微笑んだ。


「違いますのね」


「……何がでございますか」


「今、安心なさいましたわ」


 バラムの顔が固まる。


「では、こちら」


 ラヴィニアは、棚の奥へ手を伸ばした。


 灰麦印の木版。


 その隣に、細い木箱がある。


 埃はほとんどない。


 だが、箱の縁だけ、指の跡が残っていた。


「私なら、そうですわね。こちらなどいかがでしょう?」


「そ、そちらは」


「あら」


 ラヴィニアの笑みが深くなる。


「図星でしょうか?」


 小屋の中が、ひやりとした。


 バラムは口を閉じた。


 ラヴィニアは木箱を開ける。


 中には、折り畳まれた薄い紙が数枚入っていた。


 端に、灰色の麦印。


 下には、黒く滲んだ指印。


 ラヴィニアは一枚をつまみ上げた。


「名伏せ願い」


 声に出して読んだ瞬間、戸口に立っていたマリナの母が膝をついた。


「読まないでください」


 声が、ひび割れていた。


 ラヴィニアは母親を見た。


 同情ではなかった。


 紙と人の間にある傷を、逃がさない目だった。


「ラヴィニア」


 イレイナの声が低くなる。


「仕事を続けてください」


「していますわ」


「言い方にも気を配ってくださいね」


 ラヴィニアは紙を広げた。


 薄い紙が、机の上に置かれる。



 清めが済むまで、娘マリナ・ベルクの名を村帳、祈祷名簿、配給札より伏せ、戻り娘として扱うことを願い出ます。


 下に、指印。


 黒く滲んでいる。


 マリナの母が、手を握った。


 指先を隠すように。


 イレイナはその手を見た。


「押したんですね」


 母親は頷けなかった。


 ただ、肩を震わせた。


 戸の外で、白い袖が揺れる。


 マリナが、小屋の戸口まで来ていた。


 顔はまだ見えない。


 袖だけが、母親の背後で揺れている。


 ラヴィニアは、次の紙を横へ並べた。


「配給札控え。ベルク家、三名」


 その下へ、もう一枚滑らせる。


「配給対象、二名。戻り娘は除外」


 小屋の外で、村人たちが息を潜めていた。


「押せば、母と弟の配給札は残る」


「押さなければ、ベルク家全体が清め未了。浄役は家単位へ加算」


 母親の喉から、細い音が漏れた。


「弟が」


 誰も動かない。


「熱を出していて」


 母親は、床に落ちそうなほど深く頭を垂れた。


「配給札がなくなれば、あの子も」


 声は、そこで途切れた。


 マリナの白い袖が、戸口で止まる。


「お母さんが」


 小さな声だった。


「私を、消したの」


 母親の肩が跳ねた。


 バラムは、胸の灰麦札を握る。


 イレイナは、何も言わなかった。


 ラヴィニアだけが、紙を見ている。


「母親に押させたのですわ」


 その声は、冷たかった。


 イレイナが目を向ける。


「何をですか」


「娘の名と、残った家族の配給を秤にかける。ずいぶん親切な取引ですわね」


 ラヴィニアは、名伏せ願いと配給札控えを並べた。


 白い手袋の指が、母親の指印を叩く。

 そのまま、配給より除外、の行へ滑る。


 母親が顔を上げる。


 マリナの袖が震える。


 バラムの唇が動きかけて、止まった。


 ラヴィニアは、名伏せ願いの右下へ指を寄せた。


「こちら」


 そこには、細い署名があった。


 巡回司祭オルド。


 その下に、神殿の小さな印。


 イレイナは、そこだけを見た。


 バラムは顔を伏せる。


「これは、オルド様の」


「ええ。巡回司祭様の署名ですわね」


 ラヴィニアは紙を置いた。


「私が言えた義理ではありませんが、卑劣ですわね」


 イレイナは深く息を吐く。


「気色悪いくらい、よく読めますね」


「ええ」


 ラヴィニアの声は澄んでいた。


「私なら、もう少し綺麗に隠せますもの」


 イレイナの目が細くなる。


 ラヴィニアは、そこではじめて少しだけ笑みを消した。


「だから、分かります」


 小屋の中に、薄い沈黙が落ちた。


 黒百合の髪飾りが、燭台の火を受けて暗く光る。


 戸口で、マリナが一歩だけ下がった。


 母親が振り返る。


「マリ――」


 また、唇が止まった。


 灰麦印。


 村人たち。


 清め札。


 母親の目が、それらを見てしまう。


 マリナの袖が、静かに落ちた。


 イレイナは、その一瞬を見ていた。


「バラム」


 聖女の声だった。


 バラムが顔を上げる。


「はい」


「明日、清めの巡回があると聞きました」


「……ございます」


「オルド様も、いらっしゃるのですね」


「はい」


 イレイナは、名伏せ願いを手に取った。


 破らず、折らず、母親の指印とオルドの署名、その間にあるマリナ・ベルクの名だけを見る。


「願い出、ね」


 声は、まだ聖女のものだった。


 だから、リリアナが少しだけ顔を上げた。


 ラヴィニアも、何も言わずにイレイナを見る。


「明日」


 イレイナは、紙を封筒へ戻した。


「書いた者に読ませます」


 小屋の外で、誰かが息を呑んだ。


 マリナの母は、床に両手をついたまま動けなかった。


 戸口の白い袖も、動かなかった。


 イレイナは封筒をリリアナへ渡す。


「持っていてください」


「はい」


「くれぐれも丁寧に扱うのですよ。誰にも触れさせないこと」


「承知しました」


 ラヴィニアが、わずかに手を上げかけた。


「誰にも、と言いました」


「まだ何も言っておりませんわ」


 イレイナは、奉納小屋の外へ出た。


 空は白く曇っている。


 村の道は、相変わらず掃かれていた。


 畑は荒れていない。


 家の壁も崩れていない。


 灰色の麦印だけが、どの戸口にも残っている。


 イレイナは、ベルク家の方を見た。


 白い清め札が、風に少し揺れている。


 イレイナは、白いヴェールの下で目を細める。


「明日です」


 誰にともなく、そう言った。


 その声に、村人たちは頭を下げた。


 ベルク家の戸口で、マリナ・ベルクだけが顔を上げた。


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