第11話 その願い、撤回できますか
翌朝、灰麦村の道はまた掃かれていた。
戸口の桶も、畳まれた布も、束ねられた麦わらも、昨日と同じ場所にある。
灰色の麦印も、白い清め札も、そのままだった。
ただ、井戸端の女たちは、イレイナを見る前に、ベルク家の方を見た。
荷車を押していた男は、車輪を止めたまま動かない。
子どもは麦パンを隠さず、両手で握ったまま白い聖女服を見ていた。
広場の中央には机が一つ置かれ、その上に浄税帳、祈祷名簿、配給札の控えが並んでいた。
その脇で、リリアナが封筒を抱えている。
ラヴィニアは、イレイナの半歩後ろに控えていた。
昨日より少し離れている。
黒百合の髪飾りだけが、曇った光を受けて暗く光っていた。
「距離は」
イレイナが前を向いたまま言う。
「守っておりますわ」
「では、そのままで」
ラヴィニアは、それ以上言わなかった。
ただ、白い手袋を胸元で軽く握った。
広場の奥から、白い法衣の男が歩いてくる。
痩せた男だった。
袖口まで汚れはなく、髪も髭も整えられている。
靴に泥もついていない。
巡回司祭オルド。
男はイレイナの前まで来ると、深く頭を下げた。
「聖女様。灰麦村へようこそお越しくださいました」
「巡回司祭オルド様ですね」
「はい。この村の清めを預かっております」
声は柔らかく、よく通る。
その声で、清めを語った。
イレイナは微笑んだ。
白いヴェールの奥で、目だけが細くなる。
「昨日、こちらの書類を拝見しました」
リリアナが、封筒を差し出す。
濡れも曲がりもなく、封筒の口も乱れていない。
ラヴィニアが、一瞬だけそれを見た。
イレイナは見なかったことにした。
オルドの視線が、封筒に落ちる。
「名伏せ願いでございますな」
「ええ」
イレイナは、封筒から薄い紙を取り出した。
母親の指印と、オルドの署名。
その間に、マリナ・ベルクの名がある。
広場の空気が、少しだけ重くなる。
ベルク家の母は、机から少し離れたところに立っていた。
その後ろに、マリナがいる。
神殿見習いの白い袖を、両手で握っている。
「読んでいただけますか」
イレイナが言った。
「何をでしょう」
「ご自身の署名がある紙です」
オルドは、一瞬だけ目を伏せた。
すぐに穏やかな顔へ戻る。
「もちろんでございます」
紙を受け取る。
白い指が、端を押さえた。
「清めが済むまで、娘――」
声が、そこでわずかに止まった。
イレイナは微笑んだまま言う。
「続けてください」
「娘マリナ・ベルクの名を、村帳、祈祷名簿、配給札より伏せ、戻り娘として扱うことを願い出ます」
マリナの肩が震えた。
広場の端で、誰かが息を呑む。
イレイナは、母親を見た。
「ベルク様」
母親の指が震える。
「この願い出を、撤回なさいますか」
オルドの目が、初めて止まった。
「聖女様」
「願い出、なのですよね」
イレイナは、紙を指した。
「願った方が取り下げることは、できますね」
母親は唇を開いた。
声はすぐには出なかった。
マリナは、白い袖を握ったまま母の背を見ている。
母親は、自分の指先を見た。
黒く滲んだ指印を押した指先を。
「撤回、します」
小さな声だったが、広場には届いた。
「娘の名前を、戻してください」
マリナの袖が、震えた。
イレイナはオルドへ向き直る。
「撤回なさるそうです」
オルドは静かに首を横へ振った。
「清めが済むまでは、撤回できません」
「願い出なのに?」
「清めの秩序を乱します」
「願った本人が、取り下げられないのですか」
「神殿の清めには、手順がございます」
「では」
イレイナの声は、まだ柔らかかった。
「これはベルク家の願いではありませんね」
村人たちの間に、細いざわめきが走った。
オルドは微笑みを崩さない。
「そうは申しておりません」
「撤回できない願いを、願いとは呼びません」
母親が顔を上げる。
バラムが胸の灰麦札を握った。
オルドは、ゆっくり息を吐いた。
「聖女様。村には村の信仰がございます」
「信仰」
「ええ。戻された者の名をそのまま帳面へ置けば、不浄が広がります。村は不安に包まれます。ゆえに、清めが済むまで名を伏せる。それは罰ではありません。慈悲でございます」
ラヴィニアの白い手袋が、胸元でわずかに軋んだ。
イレイナは振り返らない。
「慈悲ですか」
「はい」
「配給札から外すことも」
「不浄を広げぬためです」
「祈祷名簿から削ることも」
「清めの間だけでございます」
「浄役だけは、家に加えることも」
「村全体で信仰を支えるためです」
イレイナは、名伏せ願いを机に置いた。
隣に、祈祷名簿を開く。
ベルク家の欄には、母と弟の名だけが残り、その下の削られた一行はまだ紙が毛羽立っている。
「では、誰の定めですか」
「神殿の定めでございます」
「神殿の誰が」
オルドは、ほんの少し黙った。
「巡回司祭として、私が預かっております」
「あなたの定めですか」
「神の御心に沿うものです」
「では、書いてください」
イレイナは、名伏せ願いの下を指した。
「マリナ・ベルクの名を伏せ、戻り娘として扱うことは、神の御心である、と」
オルドの指が止まる。
「巡回司祭オルド様の名で」
広場が静まり、井戸端の水音だけが遠くで一度鳴った。
「神の御心を、紙に縛るものではありません」
オルドは言った。
イレイナは、ゆっくり瞬きをした。
「人の名前は、紙から消したのに?」
オルドの口元が、わずかに引きつった。
バラムが、木札を握り直す。
村人たちの視線が、机の紙へ集まっていく。
机の上の紙は違っても、空いた穴は一つだった。
削られ、伏せられ、外されているのは、マリナ・ベルクの名だけだ。
「聖女様」
オルドの声が低くなる。
「清めを乱すおつもりですか」
「撤回された願い出を、撤回できないと言っているだけです」
「それは神の御心に反します」
「神の御心」
「はい」
オルドは、今度ははっきりと言った。
「神が清めを望まれているのです」
その瞬間、イレイナの頭の奥で声がした。
『違う』
短い声が、広場の真ん中に落ちた石みたいに、ただ一つそこにあった。
イレイナは、白いヴェールの奥でオルドを見た。
「違う、と仰っています」
広場が凍った。
バラムが息を止める。
母親が、口元を押さえる。
マリナは、白い袖を握ったまま動かない。
オルドの顔に、初めて笑みではないものが浮かんだ。
「聖女様。お戯れを」
「戯れではありません」
「神の御心は、神殿が地へ伝えるものです」
「その神殿の方が、今、紙に書けませんでした」
「言葉を慎まれよ。清めを否定すれば、この村の信仰が乱れます」
「もう乱れています」
イレイナは言った。
声は大きくない。
それでも、広場の端まで届いた。
「人の名を伏せ、祈りから外し、配給から外し、浄役だけを残す。母親に指印を押させて、願い出と呼ぶ」
白いヴェールは外さなかった。
手も震えていない。
イレイナは、聖女の姿のまま、机の上の紙を押さえた。
「神に連なる者として、神の名を騙る者を、私は認めません」
ラヴィニアが、ほんのわずかに息を呑んだ。
それだけだった。
イレイナは見ない。
「この名伏せ願いは、撤回されました」
オルドが口を開く。
「聖女様、それは」
「戻り娘ではありません」
イレイナは、祈祷名簿の削られた一行を指した。
「マリナ・ベルクです」
その名前が、また広場に落ちた。
さっきよりも、少し重く。
「祈祷名簿を改めなさい」
バラムが顔を上げる。
「配給札を戻しなさい」
井戸端の女が、手元の桶を握った。
「清め札を外しなさい」
オルドが一歩前へ出た。
「聖女様。それは神殿の札です」
「ですから、外します」
イレイナは、リリアナを見た。
リリアナが細い筆を差し出す。
迷いはない。
「マリナ・ベルクさん」
マリナの肩が跳ねた。
「自分で書けますか」
マリナは動かなかった。
母親が振り返る。
唇が震える。
また、止まりかける。
灰麦印も、村人たちも、清め札も見た上で、それでも母親は声を出した。
「マリナ」
最初に呼んだのは、母親だった。
声は小さかったが、誰も言い直させなかった。
マリナの目から、涙が一粒落ちた。
白い袖を握っていた指が、ゆっくり離れる。
マリナは一歩前へ出た。
リリアナから筆を受け取る。
指先は震えていた。
削られた一行の上に落ちた墨は少し滲んだが、それでも字は残った。
マリナ・ベルク。
祈祷名簿の空いた場所に、名前が戻った。
ラヴィニアは何も言わず、胸元で白い手袋を握っている。
イレイナは、オルドを見た。
「続けます」
「何を」
「札を外します」
ベルク家の戸口へ向かう。
村人たちは道を空けた。
誰も指図せず、誰も止めない。
足音だけが灰色の道に落ちる。
白い清め札が、風に揺れていた。
イレイナは、その三枚を見上げた。
「リリアナ。ラヴィニア」
「はい」
「承りましたわ」
「外しなさい」
リリアナが、一歩前へ出た。
ラヴィニアも、白い手袋の指を揃えて並ぶ。
「ラヴィニア」
「はい」
「余計なことはしないでください」
「努力しますわ」
「守ってください」
「……守りますわ」
リリアナが、戻り娘あり、と書かれた札に指をかけた。
ためらいなく、紙が裂けた。
ラヴィニアは、清め未了の札をつまんだ。
白い手袋の指先で、端を丁寧に持つ。
「あら。よく貼ってありますこと」
「感想はいりません」
「失礼いたしました」
札が剥がれ、最後の一枚もリリアナが剥がす。
オルドが後ろで声を上げた。
「聖女様、その札は正式な清めの」
「撤回された願いに基づく札です」
イレイナは振り返らない。
「無効です」
リリアナが、剥がした札を折る。
ラヴィニアは、札の文字を一度だけ見下ろした。
何か言いたそうに唇を開きかける。
「ラヴィニア」
「はい」
「黙って持っていてください」
「はい」
ラヴィニアは、白い手袋の中で札を握った。
戸口には、灰色の麦印だけが残る。
すぐには消えない。
リリアナが、濡らした布を差し出した。
イレイナは受け取らなかった。
「マリナさん」
マリナは涙を拭かないまま、顔を上げた。
「消しますか」
マリナは、少しだけ迷った。
それから、母親を見る。
母親は、泣きそうな顔で頷いた。
マリナは濡れ布を受け取る。
戸口の灰麦印を、一度、二度と擦り、三度目でようやく少し薄くなる。
灰色の跡は、まだ木に染みている。
それでも、白い清め札はもうなかった。
広場の方で、老人が杖を握り直した。
「……マリナ」
その声は、清めの言葉よりずっと下手だった。
井戸端の女が、口元を押さえる。
子どもが、小さく同じ名を口にした。
「マリナ」
揃ってはいない。
声の高さも、切る場所も、ばらばらだった。
リリアナが、折った札を差し出した。
ラヴィニアも、白い手袋の中の札を差し出す。
イレイナは、それを受け取った。
イレイナは、破れた札を握りしめる。
白いヴェールの奥で、目を閉じた。
それから、静かに言った。
「祈るなら、名前くらい間違えないでください」
聖女の声だった。
だが、リリアナが少しだけ顔を上げた。
ラヴィニアも、黙って目を伏せた。
オルドは、何も言わなかった。
灰麦村の道は、まだ綺麗だった。
戸口の灰色の印も、まだ薄く残っている。
それでも、ベルク家の前で、母親はもう一度呼んだ。
「マリナ」
少女は、濡れ布を握ったまま泣いた。




