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神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
1章 黒百合のラヴィニア

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第12話 聖女様はありがたがりません


 灰麦村を出る前に、書き直すものは多かった。


 祈祷名簿、配給札、浄税帳、清め札の控え。


 バラムは広場の机の前で何度も筆を持ち直し、そのたびに墨を少し滲ませた。


 ベルク家の欄へ、削られていた名前がもう一度書き戻される。


 マリナ・ベルク。


 字はバラムのものだった。


 その横にだけ、マリナ本人の震えた字が小さく添えられている。


 イレイナ・ハングレイスは、それを見届けた。


 白いヴェールをかぶったまま。


 聖女の顔で。


「清めの指示は、当面停止します」


 イレイナが言うと、オルドは何かを言いかけた。


 だが、広場の視線が机の上へ落ちていることに気づき、口を閉じた。


 名伏せ願いの指印。


 署名。


 削られた一行。


 昨日までなら通ったはずの言葉が、今日は薄い紙に負けていた。


「巡回司祭オルド様の件は、神殿へ報告します」


 イレイナは柔らかく微笑んだ。


「こちらで勝手に燃やしたりはいたしませんので、ご安心ください」


 リリアナが、写しを畳んだ。


 ラヴィニアが、机の端に置かれた清め札の控えを見ている。


 白い手袋の指が、ほんの少しだけ動いた。


「ラヴィニア」


「はい」


「触らない」


「まだ何もしておりませんわ」


「目がしていました」


「残念ですわ」


「残念がるな」


 バラムが、胸の灰麦札を握ったまま頭を下げた。


「聖女様」


「はい」


「村は、どうすれば」


 イレイナは、ベルク家の戸口を見た。


 白い清め札はない。


 灰色の麦印は、まだ薄く残っている。


 マリナは濡れ布を握ったまま、母親の隣に立っていた。


「名前を間違えないでください」


 イレイナは言った。


「まずは、それだけです」


 バラムは、深く頭を下げた。


 その背は、昨日より少し小さく見えた。


 村の入口まで歩く間、誰も大きな声を出さなかった。


 井戸端の女は、桶を持ったまま頭を下げる。


 荷車の男は、マリナのいる方を一度見てから、イレイナへ頭を下げた。


 子どもは、麦パンを半分に割っていた。


 渡す相手を探しているように少し迷っていたが、イレイナは見なかったことにした。


 灰麦村の木札を過ぎたところで、馬車が待っていた。


 村からは、まだ白い家並みが見える。


 ベルク家は見えない。


 けれど、あの戸口に貼られていた札がもうないことだけは、イレイナの頭に残っていた。


 馬車に乗り込む。


 リリアナが荷を置く。


 ラヴィニアは最後に乗り、扉のそばで一礼した。


 御者が手綱を鳴らす。


 車輪がゆっくり回り出した。


 灰麦村の木札が、窓の向こうで後ろへ流れていく。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 白い道の揺れに合わせて、イレイナも黙っていた。


 やがて村が見えなくなったあたりで、白いヴェールに指をかける。


「あー……かったりぃ」


 ヴェールを外した。


 金の髪が、肩へ落ちる。


 聖女の顔が、音もなく崩れた。


 向かいに座っていたラヴィニアが、息を止めた。


 泣きそうで笑いそうな、妙に忙しい顔をしている。


 イレイナは眉をひそめる。


「お前、何て顔してんだ」


「いえ」


「いや、してるだろ。今、だいぶ混ざってただろ」


「お姉さまの御尊顔を拝見できる喜びと、先ほどの聖女としてのお姿が終わってしまった寂しさと」


 ラヴィニアはそこで一息入れた。


「まだ続くのかよ」


「しかし素顔を拝見できる幸福と、もう一度ヴェールをお被りいただきたい願望と、今すぐ外していただきたい欲が」


 リリアナが、静かに身を引いた。


「複雑ですね」


 ラヴィニアは、胸元で白い手袋を握った。


「お姉さま」


「その呼び方、直す気は」


「直す気持ちはございますが、体は正直なんですの」


「要するに直す気はないんだな」


「神に連なる者として、のところをもう一度」


「言わねぇ」


 ラヴィニアは本当に残念そうに目を伏せた。


 イレイナは頭を抱えたくなった。


「ありがたがるな。使えるから使っただけだ」


「使える、ですか」


「聖女の肩書きも、神の名前も。使える時に使う。それだけだ」


 リリアナが、少しだけ首を傾げた。


「神の名を、道具としてお使いに?」


「道具じゃねぇ。あたしにとっての武器だ」


 馬車の中が、少し静かになった。


 ラヴィニアは、なぜか胸元の手袋をさらに強く握った。


「やめろ。今のをいい話みたいに受け取るな」


「無理です。神をも従える、お姉さまのお力、とくと拝見しました!」


「従えてねぇ。あいつが勝手に喋るだけだ」


 その時、頭の奥で声がした。


『今日の君は、ちゃんと聖女だった』


 イレイナは、窓の外を見たまま顔をしかめる。


「気色悪いこと言うな」


 リリアナが瞬きをした。


「神のお声ですか」


「ああ」


「何と」


「ろくでもねぇこと」


『褒めたんだけどね』


「頼んでねぇ」


 ラヴィニアが身を乗り出しかける。


「今、神とお話を?」


「近い。くっつくな」


「申し訳ございません」


「せめて顔と言葉は一致させろよ」


 イレイナはヴェールを丸めて膝に置いた。


 白い布に、指を沈める。


「名前は戻った」


 小さく言う。


 誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。


 リリアナが頷く。


「はい」


 ラヴィニアも、珍しく黙っていた。


 灰麦村の灰色の印は、すぐには消えない。


 マリナ・ベルクという名前も、明日から簡単に馴染むわけではない。


 それでも、祈祷名簿と配給札には戻った。


 母親は、もう一度呼んだ。


 十分かどうかは分からない。


 たぶん、十分ではない。


 それでも、ゼロではなかった。


『それで?』


 神の声が言った。


『私は少しは感謝されてもいいと思うけれど』


「調子乗るな」


 イレイナは即答した。


「ありがたがる気はねぇ」


『つれないね』


「頭の中で勝手に喋るやつに、礼を尽くす気はねぇよ」


 リリアナが、向かいで静かに言った。


「罰当たりですね」


「今さらだ」


「神の名を武器にし、神に文句を言い、最後には殴る予定」


「まとめるな」


 ラヴィニアが、そこで小さく息を吸った。


 さっきまでの妙な熱は、少しだけ引いている。


 その代わり、今度は見捨てられた犬みたいな顔をしていた。


「お姉さま」


「何だよ」


「私、役に立ちましたか?」


 イレイナは、顔をしかめた。


 見たくないものを見た顔だった。


 リリアナが、何も言わずに視線を外す。


 馬車の外で、車輪が石を踏んだ。


 がたん、と揺れる。


 ラヴィニアは、揺れに合わせて少しだけ身を縮めた。


 本当に捨てられると思っている犬みたいな顔だった。


「あー……もう」


 イレイナは、膝の上のヴェールを握った。


「分かったよ。役には立った」


 ラヴィニアの目が、ぱっと揺れた。


「だから、そんな顔するんじゃねぇよ」


「でしたら?」


「分かったよ。流れとはいえ、約束は約束だ」


 イレイナは、馬車の背もたれに沈んだ。


「追い出さないでいてやるよ」


 ラヴィニアが、両手を胸の前で組んだ。


「やりましたわ!」


「声」


「これで、名実共に、お姉さまが責任を取ってくださるということですわね!」


「いや、そこまでは言って……」


 向かいで、リリアナが静かに言った。


「本当に、重いですね」


「お前も乗るな」


「漬物石にはぴったりかと」


 イレイナはリリアナを見た。


「お前、だんだん口悪くなってきたな」


「イレイナ様のそばにおりますので」


「それ、あたしのせいって言ってる?」


「他の解釈がありますか?」


 ラヴィニアは、重いと言われても、漬物石と言われても、まるで褒められたみたいに目を輝かせていた。


 イレイナは、深く息を吐く。


「採用じゃねぇからな」


「はい」


「赦したわけでもねぇ」


「はい」


「追い出さないだけだ」


「はい」


「何で全部嬉しそうなんだよ」


「お姉さまのおそばにいられますので」


「重い」


「漬物石ですから」


「お前が言うな」


 リリアナが、荷物の中から帳面を出した。


「神殿へ戻りましたら、灰麦村の報告書をまとめます」


「頼む」


「ラヴィニア様の扱いは」


「保留」


「試用延長、でしょうか」


「その言い方も腹立つな」


 ラヴィニアが、ぱっと顔を上げる。


「試用延長!」


「喜ぶな」


「お姉さま」


「頼むから、話きいてくれよ」


「末永く、延長していただけますよう励みますわ」


「いや、試用期間終わらせろよ。努力の仕方間違ってんだろ」


「本妻採用ということですわね!」


「ん?なんか今余計な言葉が挟まってなかったか」


 馬車は白い道を進む。


 灰麦村は、もう見えない。


 白い清め札も、灰色の麦印も、窓の外にはない。


 けれど、イレイナの膝の上には、丸めた白いヴェールがある。


 リリアナの荷には、名伏せ願いの写しがある。


 ラヴィニアの手には、剥がした清め札の一枚がある。


「ラヴィニア」


「はい」


「それ、神殿に戻ったら提出な」


「……はい」


「今、ほんの少し迷いましたね」


「思い出として」


「提出だ」


「はい」


 ラヴィニアは札を胸元へ近づけかけ、リリアナの視線に気づいて手を止めた。


 リリアナは何も言わない。


 ただ、じっと見ていた。


「リリアナさんの視線も、だんだん鋭くなってまいりましたわね」


「イレイナ様のそばにおりますので」


「お前、本当にそれ便利に使い始めたな」


 頭の奥で、神が小さく笑った気がした。


 イレイナは、丸めたヴェールを膝の上で押さえつける。


「笑ってんじゃねぇぞ」


 返事はなかった。


 馬車の中で、ラヴィニアがまだ嬉しそうにしている。


 馬車が、神殿へ続く道へ入る。


 空は白く曇っていた。


 遠くで鐘が鳴った。


 灰麦村には、マリナ・ベルクという名が戻った。


 代わりに、イレイナの馬車には黒百合が一輪残った。


 捨て損ねた、というには少しばかり重すぎる黒百合だった。


ここまでお付き合いくださりありがとうございます。


これにて第一章、完結です。


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第二章は現在執筆中です。

しばらくお待ちいただけると幸いです。

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