第13話 赤い粥は腹に残る
朝の聖堂には、まだ夜明けの匂いが残っていた。
白い石床に、細い光が落ちている。祭壇の燭台には火が残り、清水の器には、窓の形が揺れていた。
その前で、イレイナ・ハングレイスは白いヴェールを整えていた。
今日は、貧民街の配給所を見て回ることになっている。
神殿の救恤麦が余る。
それだけなら、喜ばしい話のはずだった。
「イレイナ様、外套です」
リリアナが、畳んだ外套を差し出した。
「ありがとう」
イレイナが袖を通す。
その横で、深紫のドレスが音もなく近づいてきた。
「お姉さま。私もお供いたしますわ」
ラヴィニア・クロウフォードは、当然のような顔でそう言った。
銀灰色の巻き髪。黒百合の髪飾り。朝の聖堂に立っているのに、なぜか夜会の招待を待つ令嬢みたいだった。
イレイナは半眼で見た。
「あなたは留守番です」
「まあ」
ラヴィニアは胸に手を当てた。
「お姉さまが、私に神殿を任せてくださるのですね」
「任せてませんよ。じっとしてなさい」
「では、お部屋を守ればよろしいのですね」
「守らなくていいです。掃除でもしてなさい」
「掃除っ!」
ラヴィニアの目が、妙に輝いた。
「お姉さまのお部屋を、隅々まで清めておきますわ」
「余計なことをしたら、外に放り出しますからね」
「ええ、もちろんですわ。お姉さまに恥じぬ働きをいたします」
「別に私は掃除は専門では……いえ、やめておきましょう」
ラヴィニアは深紫の裾を摘まみ、優雅に一礼した。
掃除道具を持っているだけなのに、なぜか儀式へ向かう貴族令嬢のようだった。
イレイナは少しだけ嫌な予感を覚えた。
「リリアナ」
「見張っていなくて大丈夫ですかね?」
「神殿内なら、逃げても追えますよ」
「逃げる前提ですか」
「信頼はしていませんので」
イレイナは白いヴェールを指先で押さえ、聖女としての顔を作った。
外へ出る時は、聖女でなければならない。
面倒だが、そういう皮を被っていた方が都合のいいこともある。
神殿の門を出ると、朝の光が石畳の上に落ちていた。
リリアナは一歩後ろを歩いている。
小柄な足取りは軽い。音も少ない。こちらが振り返る前に、必要な距離へ収まっている。
勝手に動くが、邪魔にはならない。
そういう子だった。
貧民街へ向かう途中、神殿の配給所に寄った。
いつもなら、朝の配給には細い列ができている。痩せた子ども、腰の曲がった老人、布を頭に巻いた女たち。麦粥の鍋を目当てに、早くから並ぶ者も多かった。
だが、その日は列が短かった。
鍋の前にいる神官が、困ったようにこちらを見た。
「聖女様」
「どうしました」
「配給の粥が、残るようになりまして」
「残る?」
「はい。麦は帳簿通りに出ています。鍋もいつも通り炊いております。ただ、受け取りに来る者が減っているのです」
イレイナは鍋を見た。
薄い麦粥が、湯気を立てている。
少しだけ冷めかけていた。
「それで、飢える者が増えているのですか」
「いえ、それが……」
神官は言いにくそうに、通りの奥を見た。
「別の炊き出しが、始まっております」
イレイナは、神官の視線を追った。
通りの向こうから、白い湯気が上がっている。
人の声もした。
並ぶ人々の、低いざわめきだった。
「行きましょう」
リリアナが、すぐ横についた。
通りを抜けると、広場に出た。
大きな鍋が三つ並んでいた。
白い布をまとった巡礼たちが、木椀に粥をよそっている。腕には赤い紐が巻かれていた。胸元には、皿のような印が縫い取られている。
粥は赤かった。
煮込んだ野菜の色にも、香辛料の色にも見える。湯気には、少し甘い匂いが混じっていた。
「これは、炊き出しですか」
リリアナが言った。
「そのようですね。赤い粥というのは、初めて見ましたが」
イレイナは、白いヴェールの端を指で押さえた。
通りの真ん中で顔をしかめれば、列の者たちがこちらを見る。
鍋の前には人が並んでいた。
子どもには膝を折って椀を渡す。老人には持ちやすいよう両手で支える。咳をしている女には、先に座る場所を空けてやる。
手際は悪くない。
むしろ、神殿の配給所よりずっと静かだった。
リリアナが一歩前に出た。
「では、行ってきます」
「え?」
返事を待たず、リリアナは列へ入った。
人の隙間にするりと入り込む。押しのけるわけではない。けれど遠慮もしない。気づけば、鍋の前へ進んでいた。
白布の巡礼が、リリアナに椀を渡す。
リリアナは小さく頭を下げ、赤い粥を受け取った。
木椀の中で、赤い粥がゆっくり揺れている。
「リリアナ、あなた……」
「調査です」
リリアナは匙で粥をすくった。
息を吹きかけてから、口に運ぶ。
一口、二口、三口。
イレイナは黙って見た。
「……どうですか」
「美味しいです」
「そうですか」
「ですが、私は普通の方が好みですね。粥は薄味にしてほしいです」
「食べ物を貰った側の台詞とは思えませんね」
「調査ですから」
そう言いながら、リリアナはしっかり匙を動かしていた。
粥の赤い膜が、木匙の背に薄く残る。
イレイナは広場へ目を戻した。
鍋の前で、子どもが椀を受け取っている。
頬がこけた小さな男の子だった。椀を抱え、湯気に目を細めている。白布の巡礼が、木匙をそっと渡した。
「熱いから、少しずつね」
声はやわらかかった。
子どもは頷き、粥を口に運んだ。
すぐに、目を丸くする。
「うまい」
周りの大人が笑った。
白布の巡礼も笑った。
イレイナは、その子に声を掛けようと足を向けた。
「イレイナ様」
リリアナが匙を止めた。
「お待ちください」
「飛び込むのは待ってください」
「いきなり聖女様に声を掛けられれば、流石に固まります」
「そ、そんなことはないでしょう?」
リリアナは無言で首を振った。
少しだけ間が空いた。
「……そんなこと、ありますか」
リリアナはもう一度、首を振った。
イレイナは白いヴェールの下で、ほんの少しだけ目を伏せた。
「私は別に、子どもを取って食うわけではありませんよ」
「そういう顔をした聖女様に見られると、子どもは固まります」
「そういう顔とは」
「無駄に清らかな顔です」
「褒めていますか、それ」
リリアナは椀の中身を最後まで食べ、空になった木椀を近くの箱へ返した。
それから、何事もなかったように子どもの方へ歩いていく。
イレイナはその場に残った。
赤い粥の鍋から、湯気が上がっている。
白布の巡礼たちは、変わらず粥を配っていた。
子どもは椀を抱えたまま、リリアナを見上げる。
「美味しいですよね。このお粥」
「うまいよ」
そう言って、子供は匙を口に運ぶ。
「神殿のは、すぐ腹減っちゃうんだ」
「でしょうね。薄いので」
「姉ちゃん、神殿の人?」
「今は違います」
「今は?」
「あなたと一緒です。お粥をいただいた人です」
子どもは少し考えたあと、納得したように頷いた。
「赤い方が、腹に残るんだ」
「そうですか」
「夜も寝られる」
「それは良いことですね」
リリアナの声は淡々としていた。
子どもの椀はもう半分ほど空いている。
食べ終わる頃、白布の巡礼が近づいてきた。
「よく食べたね」
巡礼はそう言って、小さな札を子どもに渡した。
木の札だった。
表には、皿の印。
子どもはそれを大事そうに握った。
「それは?」
リリアナが聞く。
「お話を聞きに行く札」
「お話ですか?」
「神様の食卓の話。行ったら、袋をくれるんだって。昨日、ノアが袋をもらってた」
「ノア?」
「井戸んとこの。いつも一緒に並ぶやつ」
子どもは椀の底を匙でこすった。
「その、ノアは今日は居ないのですか?」
「うん。でもなんでかは知らない。昨日、お話聞きに行ったのは知ってるけど」
リリアナは少しだけ顔を上げた。
遠くにいるイレイナと目が合う。
続けろと。視線が語っていた。
リリアナは子どもに視線を戻した。
「ノアの家は、どちらですか」
「向こう。壊れた井戸の近く」
「案内できますか」
「粥、もう一杯もらってからでいい?」
「いいですよ」
子どもは嬉しそうに立ち上がった。
リリアナも立つ。
その時、鍋の向こうで、赤い髪が揺れた。
白布の巡礼たちの奥に、一人の女がいた。
褐色の肌に赤い髪。生成りの衣には、金と赤の飾り。
女は幼い子の前に膝をつき、頬についた粥を親指で拭っていた。
距離があって、声は聞こえない。
けれど、子どもは笑っていた。
女も笑っていた。
イレイナはその姿を一度だけ見た。
赤い粥。赤い髪。皿の印。
リリアナが戻ってきた。
「ノアという子が、昨日、礼拝へ行ったそうです」
「戻っていないのですか」
「今日の配給には来ていません」
「家族は」
「これから、確認します」
リリアナは、すでに歩き出していた。
子どもが先に立って、細い路地へ入る。
イレイナは後を追った。
貧民街の奥は、湿った土と古い木の匂いがした。
家と家の間に、洗濯物が斜めに渡されている。壁の隙間から風が入り、布がゆっくり揺れていた。
壊れた井戸の近くに、小さな家があった。
戸口には、古い布が掛けられている。
「ここ」
子どもはそう言って、すぐに走って戻っていった。
たぶん、三杯目の粥をもらいに行ったのだろう。
リリアナが布をめくる。
「失礼します」
中に、人の気配はなかった。
狭い部屋だった。寝台が一つ、古い毛布が二枚。床には木箱、壁際には欠けた椀がいくつか置かれている。
壁には、女物の古い外套が掛かっていた。
そして、机の上に食料袋があった。
リリアナが袋の口を開く。
「麦。豆。干し肉。塩」
「普通の食料ですね」
「はい。普通です」
リリアナは袋の中身を一つずつ見ていく。
袋の口は閉じなかった。
盗品ではなさそうだった。腐ってもいない。
麦は片手では持ち上がらないほど入っていた。豆もある。干し肉もある。塩まである。
数日は、飢えずに済む。
イレイナは机の上に視線を移した。
木椀が一つ置かれている。
底に、赤いものが乾いていた。
リリアナが椀を持ち上げる。
「洗っていませんね」
「急いで出たのでしょうか」
「食べてから出たのは、確かです」
リリアナは椀の縁を指でなぞった。
赤い跡が、ほんの少しだけ指先につく。
「落ちにくそうです」
机の隅には、小さな木札があった。
表には皿の印。
リリアナが裏返す。
細い字が刻まれていた。
神の食卓へ。
部屋の隅には、丸められた毛布があった。
ノアという子どもの姿は、どこにもない。
「……食わせてから、呼んだのか」
声は小さかった。
リリアナは札を持ったまま、黙っていた。
外では、遠くから鍋を叩く音がした。
配給の合図だろう。
赤い粥の匂いが、路地の奥まで流れてきていた。
第二章スタートです。
第二章も12話構成。
ラストまで執筆済みですので、お付き合いいただければ幸いです。
毎日19時頃更新予定です




