第14話 神の食卓へ招かれた子
赤い粥の匂いは、ノアの家の中にまで残っていた。
木椀の底には乾いた赤が残り、机には食料袋と皿の印の木札が置かれていた。
神の食卓へ。
イレイナは札を見下ろした。
子どもが持ち歩くには、字が細すぎた。
「近所に聞きましょう」
イレイナは言った。
「この家に誰が住んでいるのか。ノアという子がどこへ行ったのか」
リリアナは木札を布に包んみ、二人は外へ出た。
路地には湿った土の匂いがある。壁の隙間を風が通り、吊るされた洗濯物がゆっくり揺れていた。
広場の方からは、まだ鍋を叩く音が聞こえている。
赤い粥は、まだ配られているらしい。
リリアナは、壊れた井戸のそばに座っていた老人の前で止まった。
「すみません」
老人は顔を上げた。
「何だい」
「ノアという子を探しています」
「そこの家だろう」
「家にはいませんでした」
「ああ、今日は見てないね」
老人は、皺だらけの手で膝を叩いた。
「昨日は、袋を抱えて帰ってきたよ。ずいぶん嬉しそうだった」
「赤い粥の人たちを、どう思いますか」
リリアナが聞くと、老人の目がイレイナの白いヴェールへ流れた。
イレイナは一歩下がったまま、口を挟まなかった。
「ありがたいよ」
老人は言った。
「あれは腹に残る。薄い粥じゃ、夜中に腹が鳴るからな」
「礼拝へ行くように言われますか」
「話を聞きに来いとは言われる。けど、行かなくても粥はくれる。来たけりゃ来い、来たら袋をやるってな」
「そりゃ、行くだろう」
老人は乾いた声で笑った。
「腹が減ってりゃ、話ぐらい聞く」
リリアナは小さく頷いた。
次に、井戸の裏手で洗濯物を絞っていた女たちへ声を掛けた。
ここではイレイナが前に出ると、手が止まった。
女たちは濡れた布を抱えたまま、目を伏せる。
白いヴェールが、路地の中で目立っていた。
リリアナが、イレイナの袖を軽く引いた。
「私が聞きます」
「……お願いします」
イレイナは半歩下がった。
女たちの肩から、少しだけ力が抜ける。
リリアナは、桶の横にしゃがんだ。
「ノアの母親を探しています」
「ミラなら、川沿いの洗い場だよ」
女の一人が言った。
「朝から仕事に出てる。ノアがいないって話かい」
「知っていますか」
「あの子、昨日、変な札を持ってたからね。神様の食卓だとか何とか」
女は濡れた布を絞った。
水が桶に落ちる。
「でも、袋も持ってた。麦も、豆も。あれだけ持って帰ったなら、ミラも少しは眠れたんじゃないかね」
「ノアは、自分で行ったのですか」
「さあ」
女は肩をすくめた。
「少なくとも、泣きながら連れて行かれたわけじゃないよ。あの子、自分の足で向かったんだからね」
その言葉が、濡れた布の水音に混じった。
イレイナは何も言わなかった。
川沿いの洗い場へ向かう途中にも、似た話を何度か聞いた。
どの話にも、怒鳴り声はなかった。泣き声もなかった。残っているのは、湯気と、袋と、眠れた夜の話ばかりだった。
だから、足元に小さな釘が落ちているように、ひとつずつ引っかかった。
川沿いの洗い場には、女たちが並んでいた。
濁った水に布を浸し、石に打ちつけ、絞る。
指先は赤く荒れている。
その端に、痩せた女が一人いた。
他の女より若い。けれど、背中は曲がっていた。濡れた布を抱える腕は細い。
リリアナが近づく。
「ミラさんですか」
女は顔を上げた。
目の下に、濃い影があった。
「……はい。そうですが」
「ノアのことで、お話を聞きたいです」
女の手から、布が滑り落ちた。
水が跳ねる。
「ノアが、何か」
イレイナは前に出た。
女の顔が、白いヴェールを見てこわばる。
「怖がらせるつもりはありません」
イレイナは声を抑えた。
「あなたを責めに来たのでもありません。ノアという子が、昨日どこへ行ったのか知りたいのです」
ミラは濡れた手を前掛けで拭いた。
けれど、水は落ち切らない。
荒れた指先が、何度も布を掴み直していた。
「昨日、帰ってきました」
「いつ頃ですか」
「夕方です。赤い粥を食べたって。すごく、お腹がいっぱいだって言って」
ミラは、少しだけ笑おうとした。
口元だけが動く。
「あの子、いつも夜に起きるんです。お腹が空いたって。昨日は、起きませんでした」
「食料袋は、その時に?」
ミラは頷いた。
「朝には、もう置かれていました。麦と豆と、干し肉まで。塩も。あんなに、ちゃんとした袋をもらったのは初めてで」
言葉の途中で、ミラは唇を噛んだ。
「嬉しかったんです。正直に言えば、とてもありがたかった」
誰も、すぐには答えなかった。
川の水が、石の間を流れている。
「ノアは何と言っていましたか」
イレイナが聞く。
「神様の食卓へ招かれたって」
ミラの声は小さかった。
「良いことだって。お話を聞いて、役に立てるなら、また袋がもらえるかもしれないって」
「誰かに、連れて行かれたのですか」
ミラは首を振った。
「いいえ」
濡れた髪が頬に張りつく。
「連れて行かれたんじゃ、ないと思います」
「では」
「あの子、自分で行くって言ったんです」
ミラは、荒れた手を握った。
爪の間に、洗い場の泥が入り込んでいる。
「神様の食卓に呼ばれたから行くって。母さんは待っててって。袋もあるから大丈夫だって」
「あなたは、止めなかったのですか」
言ってから、イレイナは自分の声が少し冷えたことに気づいた。
ミラの肩が震える。
リリアナが、イレイナを見た。
「責めているのではありません」
ミラは首を横に振った。
「いいえ。止めればよかったんです」
水音が続く。
「でも、あの人たちは親切でした。粥もくれた。袋もくれた。ノアも、嬉しそうで」
ミラは顔を伏せた。
「それに、私も」
声が詰まる。
「私も、少し眠れると思ってしまったんです」
イレイナは何も言えなかった。
「ノアは、怖がっていましたか」
リリアナが聞いた。
ミラは少し考えた。
「怖がっていた、というより」
濡れた前掛けを握る手に、力がこもる。
「役に立てると、喜んでいました」
「誰の役に」
「私の、です」
ミラは、濡れた手を握りしめた。
「自分が行けば、母さんが食べられるって。だから、役に立つんだって」
水が、石の隙間を流れていく。
リリアナの顔から表情が消えた。
「何歳ですか」
「十です」
リリアナは、それだけで口を閉じた。
イレイナは、ミラの手を見た。
荒れて、ひび割れて、赤くなった手。
その手が、濡れた布を握っている。
「ミラさん」
「ノアが戻ってきたら、どんな言葉を掛けるべきか。考えて置いてください」
ミラは顔を上げた。
「戻って、くるんですか」
「戻します」
イレイナは、聖女の声で言った。
けれど、指先は白いヴェールの端を握っていた。
「だから、戻ってきた時に何と言うか、決めておいてください」
ミラの唇が震えた。
「……叱ります」
「でも、先に抱きしめさせてください。せめてそれだけは」
「それでいいです」
イレイナは頷いた。
ミラは両手で顔を覆った。
ただ水の音だけが続いていた。
帰り道、リリアナは黙っていた。
イレイナの半歩後ろを、静かに歩いている。
「リリアナ」
「言いたいことがあるなら、言いなさい」
「ありません」
イレイナは目だけで横を見る。
リリアナは表情を変えなかった。
「十歳は、幼いですね」
「ええ。小さい子供です」
「お腹が空いていては、碌な考えは浮かびません」
イレイナは足を止めなかった。
路地の向こうで、赤い粥の鍋から湯気が上がっている。
椀を持った子どもが笑っていた。
白布の巡礼が、その子の頭を撫でている。
「飢えとは、そういうものです」
「……そうですね」
イレイナは言った。
「飢えを食いものにするなど、冗談ではありません」
神殿へ戻る頃には、日は高くなっていた。
白い石壁に光が当たり、聖堂の影は短くなっている。
門をくぐると、いつもの香の匂いがした。
それでも、鼻の奥にはまだ赤い粥の甘い匂いが残っている気がした。
リリアナが扉を開ける。
聖堂の中は、朝よりも白かった。
石床は磨かれ、窓から落ちる光をそのまま返している。燭台の足元にも、長椅子の下にも、祭壇の段にも、埃は見えない。
ラヴィニア・クロウフォードは、祭壇脇に立っていた。
深紫のドレスの上に白い前掛けを掛け、片手に布を持っている。
掃除道具を持っていても、なぜか勝ち誇った貴族令嬢のようだった。
「お帰りなさいませ、お姉さま」
ラヴィニアは恍惚とした笑みを浮かべ、優雅に一礼した。
「お部屋も、聖堂も、隅々まで清めておきましたわ」
イレイナは目を細めた。
「……余計なことはしていませんね」
「もちろんですわ」
ラヴィニアは微笑んだ。
リリアナが床から長椅子の下、祭壇の端へと目を走らせる。
塵も、落ちた糸くずも残っていない。
聖堂は、磨き上げられていた。
白い石床に落ちているものは、光だけだった。
髪の一本も、残っていない。




