第15話 売買ではありませんわ
聖堂は、磨き上げられていた。
白い石床に落ちているものは、光だけだった。
髪の一本も、残っていない。
イレイナはその床を見てから、祭壇脇で微笑んでいるラヴィニアへ目を移した。
「……余計なことは、していませんね」
「もちろんですわ」
ラヴィニアは、深紫のドレスの上に白い前掛けを掛けていた。
片手には布。もう片方の手は胸に添えられている。
掃除を終えた人間というより、勝利を報告する貴族令嬢の姿だった。
「お姉さまのお部屋も、聖堂も、隅々まで清めておきましたわ。塵も、余計なものも、一切ございません」
「余計なもの、とは?」
「お邪魔虫。と言ったらお姉さまはお喜びになりますか?」
リリアナが床から長椅子の下、祭壇の段、扉の近くへと目を走らせる。
何もない。
本当に、何も落ちていなかった。
イレイナは、ひとまず考えるのをやめた。
懐から、布に包んだ木札を取り出す。
皿の印が刻まれた札。
裏には、細い字。
神の食卓へ。
ラヴィニアの目が、すぐにそれを捉えた。
「あら」
声が甘くなる。
「私に、見せてくださいますの?」
「率直な意見を聞かせなさい」
ラヴィニアは両手で札を受け取った。
まるで聖遺物でも授けられたような顔だった。
「お姉さまから賜るものなら、何であれ」
「禄でもない品ですよ。たぶん」
「それでも光栄ですわ」
ラヴィニアは、まず札に鼻を寄せた。
イレイナの眉が動く。
「……何をしているんですか」
「匂いを」
「何のためにです」
「紙や木は、持ち主のことをよく覚えていますもの」
ラヴィニアは目を細めた。
ほんの少し、頬が緩む。
「お姉さまのかほりがしますわ」
「返しなさい」
「まだですわ。まだ調べております」
「今のは調査ではありませんよね」
「お姉さまの残り香を捨てるなんてとんでもない!」
リリアナが無言でラヴィニアを見た。
ラヴィニアは札を胸に抱きそうになり、イレイナの視線を受けて、そっと離した。
それから、皿の印を指先でなぞる。
さっきまでの蕩けた顔が、少しずつ消えていった。
黒百合の髪飾りが、朝の光を吸っている。
「……薄い木札ですわね」
「それで、何が読めますか?」
「子どもに持たせるには軽い。なくしても惜しくない。けれど、捨てるには少しだけ綺麗」
ラヴィニアは札を裏返した。
細い字を読む。
神の食卓へ。
「字が細すぎますわ」
「子どもには読みにくい、という意味ですか」
「ええ。でも、読ませる必要はありませんものね」
ラヴィニアは微笑んだ。
「大人が読めばいい。子どもは、これを持っていればいい」
イレイナの目が細くなる。
「続けなさい」
「この札を持たせて帰す。家族に見せる。食料袋を一つ置く。すると、次にその子が礼拝へ向かっても、周りは止めにくい」
「どういうことですか?」
「もう一度、もらえるかもしれませんもの」
ラヴィニアは楽しそうには笑わなかった。
そこだけ、黒百合会の女に戻っていた。
「飢えている家に、食料袋を一つ置く。子どもに札を持たせる。それだけで、家の中に小さな首輪が掛かりますわ」
リリアナが、静かに言った。
「家の中に、ですか」
「厄介ですわね。見えない首輪は外せませんから」
イレイナは、ラヴィニアから札を取り返した。
「最悪ですね」
「ええ。よく効きますもの」
イレイナは札を懐へ戻した。
「来なさい」
ラヴィニアの目が輝いた。
「お姉さまのお供ですのね!」
「紙でも札でも読むのは得意でしょう」
「私を必要としてくださるのですね」
リリアナが白い外套を持ってくる。
イレイナはそれを羽織り、もう一度、聖女の顔を作った。
神殿の門を出る。
貧民街へ向かう道には、昼の光が差していた。
朝より人が増えている。
荷を運ぶ男。水桶を抱えた女。椀を持って歩く子ども。
広場の方からは、赤い粥の匂いが流れてきた。
ラヴィニアが、ほんの少し眉を動かす。
「良い匂いですわね」
「食べたいなら並んできてもいいですよ」
「お姉さまの手ずからでなければ、そこまでは……」
「なら黙っていなさい」
「はい」
声だけが、やはり明るかった。
皿の印がある礼拝所は、広場から少し奥に入ったところにあった。
古い集会所を借り受けたような建物だった。入口には白い布が掛けられ、扉の横には皿の印が吊られている。
中からは、粥の匂いがした。
それと、乾いた木の匂い。
イレイナたちが入ると、白布の巡礼がすぐに近づいてきた。
「ようこそおいでくださいました」
若い男だった。
声は穏やかで、深く頭を下げる。
「神殿の聖女様ですね」
「イレイナ・ハングレイスです」
「存じております。私どもは、飢える方々に食事と祈りをお届けしております」
巡礼は笑った。
丁寧な笑みだった。
後ろには、白い布を掛けた机が並んでいる。
壁際には食料袋が積まれていた。
椅子もある。
大人用の椅子。子ども用の低い椅子。
どちらも、きれいに並べられていた。
リリアナの視線が、その低い椅子で止まった。
「ノアという子を探しています」
イレイナは言った。
巡礼はすぐに頷いた。
「ノア様ですね」
その一音で、イレイナの指が白い外套の端を握った。
「どこにいますか」
「ノア様は、神の食卓へ上がることを望まれました」
「居場所を聞いています」
「私どもは、誰も無理にお連れしておりません」
巡礼は、穏やかなままだった。
「すべて、ご本人のお心です」
ラヴィニアが、少しだけ笑った。
イレイナが横目で見る。
「何がおかしいのです」
「無理に連れていく必要なんてありませんものね。よくできた仕組みですわね」
ラヴィニアは、礼拝所の中を眺めていた。
机。椅子。食料袋。皿の印。
「ここまで並べてあれば」
巡礼の笑みは崩れない。
「誤解があるようでしたら、ご説明いたします」
「説明より、証を見せなさい」
イレイナは言った。
「本人が望んだと言うなら、その証を」
「もちろんです」
巡礼は、少しもためらわなかった。
白い布を掛けた机へ向かい、薄い紙束を持って戻ってくる。
差し出された紙には、皿の印が押されていた。
きれいな筆跡。
私は、飢えより救われたことに感謝し、
神の食卓へ上がることを望みます。
イレイナは、紙を見た。
署名欄には、ノアの名がある。
だが、その字も同じ筆跡だった。
横に、小さな赤い指印が押されている。
リリアナが言った。
「字は、大人のものです」
巡礼は微笑んだ。
「幼い方には、代筆をしております。ご本人には、印をいただいておりますので」
「指の跡が小さいです」
「幼い方ですから」
巡礼は、当たり前のことのように答えた。
リリアナはもう何も言わなかった。
ラヴィニアが、紙の端を軽く押さえる。
「触れても?」
「どうぞ」
巡礼は快く頷いた。
ラヴィニアは誓約書を見下ろした。
紙の厚さを見る。印の位置を見る。署名欄を見る。子ども用の低い椅子を見る。
それから、静かに言った。
「売買ではありませんわ」
イレイナは、ラヴィニアを見た。
「では、何です」
「同意ですわ」
礼拝所の中で、粥の匂いが湯気になって揺れていた。
巡礼は穏やかに微笑んでいる。
ラヴィニアもまた、綺麗に微笑んでいた。
「空腹の者に食事を与える。家族には袋を渡す。感謝させる。安心させる。そのあとで、本人に印を押させる」
ラヴィニアの声は、淡々としていた。
「あとから見れば、本人が選んだように残りますわ」
「十の子どもに」
イレイナの声は低かった。
「子どもだからですわ」
ラヴィニアは紙から目を離さない。
「空腹と恩を、別々に考えられませんもの」
イレイナは、奥歯を噛んだ。
「経験者の言葉は重いですね」
「ですから、分かりますの」
ラヴィニアは顔を上げた。
黒百合の髪飾りが、白い礼拝所の中で黒く見えた。
「私なら、もう少し綺麗に縛りました」
巡礼の眉が、そこで初めて少しだけ動いた。
だが、すぐに穏やかな顔へ戻る。
「私どもは、縛ってなどおりません」
「ええ。そう言うための、保身のための証ですから」
ラヴィニアは微笑んだ。
「よくできていますわ」
イレイナは誓約書から目を離さなかった。
「この子は、どこにいます」
「神の食卓へ上がるための支度をしております」
「子どもに、何の支度を」
「恐れることはありません。とても名誉なことです」
巡礼は胸に手を当てた。
「飢えより救われた方が、今度は神の恵みに応える。美しい循環です」
イレイナの白いヴェールが、指の中で小さく軋んだ。
「腹を満たしたところへ、その紙を差し出すのですね」
「満たされた時こそ、人は神に感謝できます」
巡礼は答えた。
迷いは微塵もない。
リリアナが低い椅子を見ていた。
子どもが座れば、机の上の紙に手が届く高さだった。
『私は、飢えより救われたことに感謝し、
神の食卓へ上がることを望みます』
ノアの名の横で、小さな指印だけが赤く乾いていた。




