第16話 赤い髪の聖女
ノアの名の横で、小さな指印だけが赤く乾いていた。
イレイナは、誓約書から目を離さなかった。
私は、飢えより救われたことに感謝し、
神の食卓へ上がることを望みます。
読み違えようのない、まっすぐで、丁寧で、冷たい字だった。
「この子に会わせなさい」
イレイナは言った。
巡礼は胸に手を当てたまま、微笑んでいる。
「ノア様は、支度の最中ですので」
「子どもに、何の支度を」
「恐れることはありません。とても名誉なことです」
イレイナの指が、白い外套の端を握った。
「名誉かどうかは聞いていません」
巡礼はまぶたを一度だけ伏せた。
口は、もう開かなかった。
リリアナが、低い椅子の横へ目を向ける。
「怖がらせなくていいのよ」
奥から声がした。
甘い声だった。
咎めるでもなく、急がせるでもない。
白い幕の向こうから、一人の女が現れた。
赤い髪。
褐色の肌。
生成りの衣に、金と赤の飾り。腰には細い赤紐が結ばれ、胸元には皿とも杯とも見える聖印が下がっていた。
朝の広場で、子どもの頬についた粥を拭っていた女だ。
赤い髪の女は、巡礼の肩に軽く手を置いた。
「ごめんなさいね。この子たち、手続きの話になると少し固くなるの」
「アグネス様」
巡礼が頭を下げる。
女は笑った。
「いいのよ。聖女様が心配なさるのは、当然だもの」
それから、イレイナへ向き直る。
「アグネス・グラウスよ」
赤い髪が、肩の上でゆっくり揺れた。
「あなたが、イレイナ・ハングレイスね。白い聖女様」
「神殿の聖女です」
「ええ。白い神殿の聖女様」
アグネスは同じ言葉を、少しだけ甘く繰り返した。
イレイナは眉を動かさなかった。
「ノアに会わせてください」
「もちろん」
アグネスは、まるで茶を勧めるように頷いた。
「隠しているわけではないもの。おいでなさい」
奥の白い幕が上げられた。
その向こうに、小さな部屋があった。
広い部屋ではない。
だが、白い布が壁に掛けられ、低い台と椅子が置かれている。水差し。櫛。畳まれた白い衣。小さな木桶。
赤い粥の匂いは薄い。
代わりに、甘い果実のような匂いがした。
椅子に、少年が座っていた。
白い衣を着せられている。
髪は梳かれ、頬には水の跡が残っていた。手は膝の上に揃えられている。爪の間まで、きれいに洗われていた。
その手は小さかった。
誓約書の赤い指印と、同じくらいに。
リリアナが一歩だけ前へ出た。
「ノアですか」
少年はびくりと肩を揺らした。
それから、リリアナを見て、白い衣の裾を握る。
「……誰」
「あなたと一緒に粥を食べていた子から、話を聞きました」
ノアの目が少し動いた。
「井戸のところの子?」
「今日、あなたがいないと言っていました」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「そっか」
イレイナは、すぐには近づかなかった。
白いヴェールに気づいた途端、ノアの指が衣の裾をつまんだ。
「お母さんが待っています」
リリアナが言った。
ノアは椅子から少し身を乗り出した。
「母さん、ごはん食べられた?」
最初に出た言葉は、それだった。
リリアナの口が、少しだけ閉じる。
「食料は、家にありました」
「そっか」
ノアはほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ、大丈夫だ」
「大丈夫ではありません」
リリアナの声は低かった。
ノアは首を傾げる。
「だって、俺、役に立つんだ」
白い衣の裾を、小さな指が握る。
「俺が食卓に上がったら、神様が喜ぶって。母さんも、また袋をもらえるかもしれないって」
「誰が言ったのです」
イレイナが聞いた。
ノアは少し迷って、アグネスを見た。
アグネスはノアの横に膝をつき、肩に手を添えた。
「偉いわね、ノア」
その手は、子を寝かしつける時みたいに静かだった。
「誰かを満たしたいと思えるのは、とても綺麗なことよ」
「十の子どもに、言わせる言葉ではありませんね」
イレイナの声は静かだった。
アグネスは、ゆっくり顔を上げる。
「年は関係ないわ」
「あります」
「飢えを知っている子は、満たすことの尊さを知っているもの」
アグネスはノアの髪を指で整えた。
「ねぇ、ノア。お腹が空くのは、つらいでしょう?」
「うん」
「満たされると、ほっとするでしょう?」
「うん」
「だったら、誰かを満たしてあげたいと思うのは、悪いことではないわ」
ノアは小さく頷いた。
「神の食卓へ上がるとは、何をすることです」
イレイナが聞いた。
アグネスは立ち上がった。
ゆっくりと、衣の裾を整える。
「神を満たすことよ」
言葉は、あまりにも柔らかかった。
リリアナが、ノアの手を見た。
ラヴィニアが、アグネスを見る。
「神を満たすために、人間を使うのですか」
「使うだなんて、冷たい言い方ね」
アグネスは少しだけ首を傾けた。
「食卓は、奪う場所ではないわ。分け合う場所でしょう?」
「その子は、何を分けるというのですか」
「飢えを知る者だけが持っているもの」
アグネスは慈愛に満ちた表情で続ける。
「空っぽだったお腹が、あたたかくなる喜びよ」
白い幕の向こうでは、低い椅子と机が並んでいる。
食料袋もある。
ここで声を荒げれば、先に肩をすくめるのはノアだ。
白いヴェールの端が、指の中で歪む。
「あなた、とても飢えているわ」
「は?」
イレイナの声が、少しだけ素に戻った。
アグネスは微笑む。
「怒りで、お腹を満たしているのね」
「……何を言っているんです」
「だめよ。そんなものばかり食べていたら、いつか壊れてしまうわ」
ラヴィニアの目が細くなった。
「お姉さまを見る目が、不愉快ですわね」
アグネスはラヴィニアを見た。
「あなたは、たくさん欲しがる子ね」
「ええ。欲しいものは決まっておりますので」
アグネスは、また微笑んだ。
「でも、今は少し静かにしていてね」
ラヴィニアの口元から、笑みが消えた。
リリアナが低く言う。
「距離が近いです」
「ごめんなさい」
アグネスは素直に一歩下がった。
衣の裾だけが、遅れて揺れた。
イレイナはノアを見る。
「ノア」
少年の肩が跳ねる。
イレイナは、声を少し落とした。
「あなたの母親は、あなたを待っています」
「うん」
「戻りなさい」
ノアは白い衣の裾を握った。
「でも」
その一言で、イレイナは止まった。
「俺が戻ったら、母さん、またお腹すくだろ」
リリアナが、目を伏せた。
アグネスがノアの肩に手を置く。
「優しい子ね」
それから、乱れてもいない髪をそっと撫でた。
「無理に連れて帰っても、この子はまた来るわ」
赤い髪が、ノアの頬へ影を落とす。
「お母様のために」
イレイナは、その手を見た。
歪んだ優しさを纏った手は、いやに暖かだった。
「その手で、子どもの頭を撫でるな」
アグネスは悲しそうに目を細めた。
「怖がらなくていいのよ、白い聖女様」
「私が怖がっているように見えますか」
「ええ。とても」
イレイナは笑わなかった。
ラヴィニアも、リリアナも黙っていた。
礼拝所の奥で、小さな鐘が揺れ、赤い紐がそこから垂れている。
アグネスはノアの肩に手を置いたまま、鐘を見た。
「安心して。今すぐではないわ」
「何がです」
「食卓には、準備がいるもの」
アグネスの声は甘かった。
「今夜、鐘が鳴るまで、この子はここにいるわ」
ノアは白い衣の裾を握っていた。
アグネスは、彼の肩を撫でる。
「怖がらなくていいのよ。食卓へ上がる子は、きれいに満たされるの」
イレイナは、礼拝所の奥に吊られた小さな鐘を見た。
赤い紐が垂れ、その下に白い衣があった。
紐は、粥の色によく似ていた。




