↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
2章 赤髪のアグネス

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/27

第17話 結ぶな

 礼拝所の奥で、小さな鐘が揺れていた。


 赤い紐が垂れ、その下に白い衣がある。


 ノアは、その白い衣の裾を握っていた。


「鐘が鳴るまで、まだ時間はあるわ」


 アグネス・グラウスは、ノアの肩に手を置いたまま言った。


 声は甘かった。


 まるで、夕食までに帰ってくればいいと子どもへ告げるような声だった。


「焦らなくていいのよ」


 イレイナは、赤い髪の聖女を見た。


 褐色の頬。生成りの衣。金と赤の飾り。細い赤紐。


 そして、子どもの肩を撫でる手。


「お気遣い、痛み入ります」


 イレイナは聖女の顔で言った。


 アグネスは嬉しそうに微笑む。


「またいらしてね」


「必要があれば」


「ええ。必要は、誰にでもあるもの」


 アグネスは一歩近づき、イレイナの白いヴェールを見た。


「お腹が空いたら、いつでも」


 礼拝所の扉が、背後で閉まる。


 外の光が、目に刺さった。


 広場の方から、赤い粥の匂いが流れてくる。


 甘く、温かく、腹に残る匂い。


 白い外套の裾が、土埃を払う。


 そして、低く吐いた。


「気色わりぃ」


 ラヴィニアがすぐに頷いた。


「あの女、お姉さまを見る目が気に入りませんわ」


「そこではありません」


「私にとっては、そこが最重要ですわ」


「少し、空気を読みなさい」


 リリアナが振り返る。


 礼拝所の白い布が、風で少しだけ揺れていた。


「連れて帰らないのですか」


「連れて帰っても、戻るのでしょう。あの聖女の言う通り」


 イレイナは歩きながら言った。


 声はまだ低い。


「母親の腹が空く限り、あの子はまた食卓へ向かってしまう」


 ノアの声が耳に残っていた。


 俺が戻ったら、母さん、またお腹すくだろ。


 腹の底に、石みたいに残った。


「ならば、先にお腹を満たしましょう」


 イレイナは足を止めた。


 貧民街の道には、昼の光が差している。


 だが、細い路地の奥は暗い。椀を抱えた子どもが、広場の方へ走っていく。手には皿の印の木札が揺れていた。


「リリアナ」


「神殿へ戻りなさい」


 リリアナはすぐに顔を上げた。


「余っている分の麦を全部出させます」


「承知しました」


 イレイナはリリアナを見た。


「私の権限で出せる範囲は全て放出させます」


「承知しました」


「まず、ミラの家へ」


 リリアナは一度だけ頷いた。


 そのまま走り出そうとして、ふと足を止める。


「その前に、報告があります」


「言いなさい」


「ノアの白い衣です」


 リリアナは礼拝所の方を見た。


「縫い目に、赤い糸がありました」


 イレイナの指が止まる。


「どこに」


「襟の内側と、袖口に少し」


 リリアナは自分の袖を軽く示した。


「木札の紐も赤です。鐘の紐も赤です。ノアの指先にも、洗い残しの赤がありました」


「指印の赤ですか」


「分かりません」


 リリアナは短く答える。


「ただ、水では落ちにくそうでした」


 ラヴィニアが、わずかに眉を動かした。


「同じ色で揃えていますわね」


 イレイナが見る。


 ラヴィニアは礼拝所の扉ではなく、その周りにいる巡礼たちを見ていた。


 粥を配る者。


 空の椀を片づける者。


 木札を持った子どもに笑いかける者。


 路地へ袋を運んでいく者。


 白い布の端を直す者。


「食べさせて、札を持たせて、袋を置いて、紙に印を押させて、体を洗って、衣を着せる」


 ラヴィニアは、ひとつずつ指を折った。


「そして鐘を待つ」


「随分、詳しいですね」


「見れば分かりますわ。よく回っていますもの」


「褒めているのですか」


「感心はしますわ。軽蔑もしておりますけれど」


 ラヴィニアの声は、甘くなかった。


 黒百合の髪飾りが、昼の光の中で黒く沈んでいる。


「粥を配る者は、粥を配っているだけ。袋を運ぶ者は、袋を運んでいるだけ。髪を梳く者は、髪を梳いているだけ。鐘を見る者は、鐘を見ているだけ」


 ラヴィニアは微笑まなかった。


「誰も、自分が子どもを食卓へ上げているとは思わずに済みます」


 イレイナは、礼拝所を見た。


 白い布。


 皿の印。


 赤い紐。


 昼の光の中で、そこだけ妙に綺麗だった。


「全部を見る役は、上に一人いれば足りますわ」


「アグネス・グラウス」


 ラヴィニアは静かに頷いた。


「あの女は、全員に善いことをさせていますわ」


「……善いこと」


「粥を配る。袋を届ける。子どもの髪を梳く。怖がらせない。名誉だと教える」


 ラヴィニアは、ようやく薄く笑った。


「ひとつずつなら、とても美しいですわね」


 美しいものを並べて、最後に子どもを食卓へ上げる。


 喉の奥に、吐き気に似たものが残った。


「リリアナ」


「承知しています」


 リリアナは駆け出した。


 人混みに紛れるのがうまかった。


 白い外套の裾を押さえ、椀を持った子どもを避け、水桶を抱えた女の横をすり抜ける。


 あっという間に、細い道の向こうへ消えた。


 ラヴィニアが、その背を見送る。


 そして、ぱっと顔を輝かせた。


「つまり、ここからは」


「違います」


「まだ何も言っておりませんわ」


「どうせろくなことではありません」


「お姉さまと二人きりですわね」


「違います」


「ですが、見たところ二人ですわ」


「周りに人がいます」


「私の目には、お姉さましか映っておりませんもの」


「目を潰されたいのですか」


「お姉さまのお手ずからなら」


 イレイナはいつの間にか構えていた二本の指をゆっくりと握りこむ。


 そのまま行き場のなくなった手を懐へ手を入れた。


 布に包んでいた木札を取り出す。


 皿の印。


 細い字。


 神の食卓へ。


 そして、赤い紐。


 さっき礼拝所で見た鐘の紐と、よく似た色だった。


 ラヴィニアの目が、札ではなく紐へ行く。


「お姉さま」


「その結び目、最初からありました?」


 イレイナは赤い紐を見た。


 木札の端に通された紐。


 持ち帰った時には、ただの輪だった。


 今は、小さな結び目ができている。


 ひとつ。


 硬く、札の端に食い込むように。


「あなたが触りましたか」


「お姉さまの物に、許可なく触れるほど節度がない女ではありませんわ」


「匂いは嗅いだでしょう」


「あれは必要な工程ですわ」


 イレイナは、赤い紐に指を伸ばした。


 ほどこうとしたわけではない。


 ただ、触れようとしただけだった。


 その瞬間。


『結ぶな』


 声がした。


 頭の内側で、乾いた鐘のように。


 イレイナの指が止まる。


 昼の広場の音が、一拍だけ遠くなった。


 椀のぶつかる音。


 子どもの笑い声。


 粥をよそう杓子の音。


 すべてが薄くなり、その一語だけが残った。


 結ぶな。


「……今、言いましたね」


 イレイナは低く呟いた。


 返事はない。


 神の声は、それきり黙っていた。


 ラヴィニアが、イレイナの顔を見る。


「お姉さま?」


「触らないでください」


「その札に、ですか」


「札に、です」


 イレイナは木札を地面に落とさないよう、布の上に置いた。


 赤い紐を見る。


 結び目が、もうひとつ増えていた。


 ふたつ。


 小さく、硬い結び目。


 誰も触れていない。


 風もない。


 礼拝所の奥の鐘は、まだ鳴っていない。


 それでも木札の赤い紐は、少しずつ締まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。