第18話 黒百合の伝手
木札の赤い紐は、布の上で締まっていた。
結び目は、ふたつ。
小さく、硬い。
誰も触れていない。
風もない。
それでも、紐は札の端へ食い込むように締まっている。
イレイナは、指を伸ばさなかった。
頭の奥に、まだ声が残っていた。
結ぶな。
神の声はそれきり黙っている。
相変わらず、必要なことだけ言って黙る。
気に入らない。
「触るな、ではなく、結ぶな、なのですね」
ラヴィニアが言った。
珍しく、木札へ手を伸ばそうとはしなかった。
その視線は、皿の印でも細い字でもなく、赤い紐の結び目へ向いている。
「それがどうかしましたか?」
「ええ。動作そのものに意味がある、ということでしょう」
「その手順に、ですか」
「結ぶ。ほどく。締める。鳴らす。そういう手順に意味を持たせるものは、儀式か術の類ですわ」
イレイナは赤い紐を見る。
魔術。
儀式。
呪術。
ただ、イレイナはそちらの専門ではない。神の声は聞こえても、式は読めない。
「なるほど。しかし、私は専門外ですね」
「あら、お姉さま。ご心配なさらずとも、私も術の類はさっぱりですわ」
「……」
イレイナはラヴィニアを見た。
ラヴィニアは、両手を胸の前で重ねる。
「そんなに見つめられると照れますわ?」
「呆れてんだよ」
「素のお姉さまも素敵ですわ」
イレイナは布の端をつまみ、木札を包み直す。
赤い紐には触れない。
触れなくても、近くにあるだけで気持ちが悪い。
懐へしまうのも嫌だった。
「で、どうするんですか」
「私が分かるとは、申し上げておりませんでしょう?」
ラヴィニアは得意げに微笑んだ。
「分かる者に見せればよろしいのですわ」
「魔術師の知り合いでも?」
「ええ。腕は良いのですよ?」
「その言い方、腕以外に問題がありますね」
「少し、好奇心に素直なお方なだけですわ」
「具体的には何をしたのです?」
「魔術の実験と称して、野盗の集団を根絶やしにした程度ですわ」
「なら、大したことしてないですね」
「お姉さま!」
ラヴィニアの目が輝いた。
まるで、褒美をもらった犬だった。
ラヴィニアは口元を押さえ、肩を震わせている。
イレイナは少しだけ目を逸らした。
「私が言うのもなんですけど、あまり黒いつながりは感心できませんね」
「それをお姉さまが仰るの、なかなか味わい深いですわね」
言い返せなかった。
バルド司祭を締め上げた。
黒百合会を潰した。
灰麦村で神の名を使って村をひっくり返した。
清廉な聖女です、と胸を張るには、少しばかり手口が悪い。
少しばかり。
「その魔術師はどこに」
「職人街の外れですわ。もっとも、現在はギルドには属しておりません」
「追放されたからですか」
「ええ、その通りですわ」
「全然安心できないのですが……」
「腕は良いですわよ。腕は」
ラヴィニアは嬉しそうに肩を揺らした。
二人は貧民街を抜け、職人街へ向かった。
広場から離れるほど、赤い粥の匂いは薄くなる。
代わりに、木屑と油と焼けた鉄の匂いが増えていく。
鍛冶屋の槌音。
染物屋の桶の音。
荷車の軋む音。
昼の街は、人の手で動いていた。
ラヴィニアはイレイナの半歩後ろを歩く。
時々、距離を詰めようとしてくる。
「近い」
「お姉さま、赤い紐が危険なら、私が代わりに持ちますわ」
「いりません」
「では、せめてお手を」
「いりません」
「袖でも」
「いりません」
「影だけでも」
「影は勝手についてくるでしょう」
「つまり許可を」
「していません」
ラヴィニアは、心底残念そうに息を吐いた。
その顔のまま、ふと路地の先を見る。
「こちらですわ」
職人街の端。
石畳が途切れ、古い煉瓦の建物が並ぶあたりに、その工房はあった。
看板は出ている。
魔術工房ヴァイル。
鑑定、修復、契約術式相談。
ギルド認可なし。
イレイナは看板を見上げた。
「堂々と書くことですか」
「隠さないところは誠実ですわ」
「誠実の意味を考え直してください」
扉の前には、割れた魔晶灯が三つ吊られていた。
ひとつは青く、ひとつは緑に、ひとつは何色ともつかない濁った光を弱く漏らしている。
窓には黒い布が掛けられていた。
中からは、薬草と焦げた金属の匂いがする。
ラヴィニアが扉を叩いた。
「先生。いらっしゃいますか」
返事はない。
もう一度叩く。
「先生」
中で何かが落ちる音がした。
続いて、低い声。
「帰れ」
「まだ名乗っておりませんわ」
「その叩き方で分かる。帰れ、黒百合の小娘」
ラヴィニアはにこりと笑った。
「まあ。お久しぶりですわ、エルネスタ先生」
扉が内側から開いた。
痩せた人影が立っていた。
年齢は読みにくい。灰色の髪は短く、雑に跳ねている。目の下には濃いくま。片目には黒い硝子片のような片眼鏡が掛かっていた。白衣は薬液と焦げ跡で汚れている。
胸も腰も白衣の下に埋もれていて、ぱっと見では男か女か分からない。
寝ていない、というより、寝る気がない顔だった。
声は男にしては高かった。
そこで女だと分かる。
指には幾つもの銀の指輪。爪先には、まだ乾いていない青い液体がついていた。
女はラヴィニアを見た。
それからイレイナを見た。
眉間に皺が寄る。
「黒百合の小娘と、神殿の聖女」
「イレイナ・ハングレイスです」
「見れば分かる。白い」
「白い?」
「神殿の人間は大体白い。服も顔も話も」
「話は黒い方だと思いますけど」
エルネスタは片眉を上げた。
ラヴィニアが横から嬉しそうに言う。
「こちらのお姉さまに、私の黒百合会を潰していただきましたの」
「なぜ嬉しそうなんだ」
「愛ですわ」
「帰れ」
「先生、赤い紐を見ていただきたいのです」
エルネスタの目が、そこで初めてラヴィニアから外れた。
「赤い紐だと?」
「勝手に結び目が増えますの」
「帰れと言った」
「腕は良いのですよね?」
イレイナが言った。
エルネスタはイレイナを見る。
「誰から聞いた」
「この女から」
「そう簡単に信用していい相手ではないだろう?」
「同感です」
「お姉さま?」
ラヴィニアが傷ついた顔をした。
エルネスタは小さく鼻を鳴らす。
「入れ。だが、紐はそのまま持ち込むな」
「なぜです」
「勝手に結ぶ紐を工房に入れる馬鹿があるか」
「正論ですね」
「聖女が正論を理解できるとは驚いた」
「神殿に何か恨みでもあるんですか?」
エルネスタは少しだけ笑った。
工房の中は、狭かった。
壁一面に棚があり、瓶、石、骨、金属片、乾いた草、魔晶片、丸められた羊皮紙が詰め込まれている。
床には白い線で簡易の魔法陣が描かれていた。
中央の作業台だけは、妙に片づいている。
そこに黒い石板と、銀の鉗子と、細い針が置かれていた。
「布ごと置け」
エルネスタが言う。
イレイナは木札を包んだ布を、黒い石板の上へ置いた。
エルネスタは素手で触らない。
銀の鉗子で布を少し開く。
皿の印。
細い字。
赤い紐。
ふたつの結び目。
エルネスタの表情が消えた。
「触ったか」
「触ろうとしたら、神に止められました」
「誰に止められたって?」
「神に、です」
工房の中が、一瞬静かになった。
エルネスタは片眼鏡の奥で目を細める。
「……面倒な客が来たな」
「多少、自覚はあります」
「自覚してるのに、治す気がないのは余計に厄介だな」
エルネスタは舌打ちし、黒い石板の周りに白い粉を撒いた。
粉が石板の縁で薄く光る。
彼女は銀の針を取り、赤い紐の結び目に近づけた。
赤い紐が、ぴんと張った。
作業台の上で、木札がかすかに鳴る。
「呼応しているな」
「合図に反応してるのですか?」
イレイナが聞く。
「同じ色、同じ印、同じ動作で揃えたものを、合図に噛ませる。古い手だ」
エルネスタは赤い紐を見る。
「ただ、これは嫌に丁寧だな」
ラヴィニアが口元に指を添えた。
「結び目はどういう意味がございますの?」
「段階だな」
「契約のですか?」
「呼び名は何でもいい。契約でも、誘導でも、呼び寄せでもな。結び目が増えるほど、引きは強くなる」
イレイナの指が動いた。
「鐘が合図ですか」
「だろうな」
エルネスタは石板の横に置いた小さな魔晶灯を点けた。
赤い紐の周りに、薄い光が浮く。
糸のような光が、ふたつの結び目から伸びている。
一本は木札の皿の印へ。
もう一本は、どこか遠くへ。
工房の壁を抜け、見えない先へ向かっている。
「礼拝所の方ですわね」
ラヴィニアが言った。
「見えるのか」
「見えませんわ。けれど、そういう顔をされていますもの」
「相変わらず、嫌な小娘だな」
エルネスタは舌打ちした。
「切ればいいというものではないぞ」
イレイナは顔を上げる。
「切れないのですか」
「雑に切れば、引きだけ残る。何に呼ばれているかも分からんままな」
エルネスタは針を置いた。
「戻すなら、結ばれた順に剥がす。無理なら、鳴る前に合図ごと潰せ」
「潰すなら、鐘ですか」
「鐘だろうな」
イレイナは息を吐いた。
鐘。
赤い紐。
白い衣。
ノアの小さな指。
「今、結び目はいくつだ」
「二つです」
「最初からか」
「いいえ。増えました」
「なら、まだ途中だ」
エルネスタは赤い紐を見下ろした。
「鐘が鳴るまでに、いくつ増えるかだな」
ラヴィニアの目が細くなる。
「全部結ばれると?」
「合図の方へ引かれる」
「札だけですか。人もですか」
イレイナが聞いた。
エルネスタは、銀の鉗子で木札を軽く押さえた。
赤い紐が、布の上でかすかに軋む。
「札を持った家と、印を押した者だ」
イレイナの喉が動いた。
「ノアですか」




