第19話 聖句殺し
「ノアという子供だけなら、まだましだ」
エルネスタは、そう言った。
黒い石板の上で、赤い紐がかすかに軋んでいる。
結び目は、ふたつ。
片方は木札の皿の印へ。
もう片方は、工房の壁を抜けて、見えない先へ伸びていた。
イレイナは、赤い紐から目を離さない。
「他にもいる、という意味ですか」
「同じ支度をされた者がいればな」
エルネスタは銀の鉗子で木札の端を押さえた。
素手では触れない。
「家が歩いてくるわけじゃない。札は腹の結び目だ。印は本人の結び目。衣は器。鐘は合図」
「随分、嫌な分け方をしますね」
「私が分けたわけじゃない。術式がそうなっているだけだ」
エルネスタは魔晶灯の光を細くした。
赤い紐の周りに浮いた光が、少しだけ濃くなる。
「赤い粥を食わせる。木札を持たせる。指で印を押させる。白い衣に赤を通す。最後に鐘で呼ぶ」
「食わせることも、術ですか」
「半分はな。それだけではない様だが」
エルネスタは、赤い紐を見下ろした。
「餌、だな」
イレイナの指が、黒い石板の端にかかった。
石板が、かすかに鳴る。
ラヴィニアが横からそっと見た。
「お姉さま、石が割れますわ」
「割ってません」
「そのうち割れますわよ?」
エルネスタは片眼鏡の奥で目を細めた。
「聖女様にしては随分感情が豊かだな」
「別に怒ってはいません」
「なら、石板から指を離せ。結構高いんだ」
イレイナは、ゆっくり指を離した。
腹。
餌。
食わせて、縛る。
アグネスの甘い声が耳の奥に残っている。
食卓は、奪う場所ではないわ。分け合う場所でしょう?
イレイナは息を吐いた。
「気色わりぃ」
「それには同意する」
エルネスタは淡々と言った。
「よく組んである。嫌になるほどな。腹が空いている者には食わせる。食わせた恩を札に結ぶ。役に立ちたいという感情を印に結ぶ。最後に鐘でまとめて引く」
「どこまで分かるのです」
「見えている範囲だけだ。だが、作った奴の性格は分かる」
「性格?」
「丁寧で、親切で、悪趣味だ」
ラヴィニアが小さく頷いた。
「とてもよく分かりますわ」
「お前に同意されるとは、術師は不幸だな」
「光栄ですわ」
「どう曲解すれば誉め言葉になる」
その時だった。
黒い石板の上で、赤い紐が小さく震えた。
ぴんと張っていた糸のような光が、わずかに揺れる。
ふたつある結び目のうち、ひとつ。
木札の皿の印へ向かっていた方が、ほんの少しだけ緩んだ。
札の端へ食い込んでいた赤が、爪の先ほど浮く。
エルネスタの目が動いた。
「……何をした」
「私は、何も」
イレイナは答えた。
実際、何もしていない。
ラヴィニアが、ふふ、と小さく笑う。
「リリアナ様ですわね」
「ああ、そういうことですか」
イレイナは石板の上の赤い紐を見る。
「別の飯を入れたのか」
エルネスタが聞く。
「ええ。大急ぎなので、祝福も何もありませんけど」
「そりゃ効く」
「効くんですか?」
「赤い粥で作った腹の結び目を、上書きしたんだ。そりゃ、効きもするだろう」
エルネスタは、緩んだ結び目を見て、少しだけ口元を歪めた。
「流石聖女様、というところか。いい読みだったな」
「読んだわけじゃありません」
イレイナは、黒い石板の上の赤い紐を見た。
ふたつある結び目のうち、ひとつだけがわずかに緩んでいる。
「腹が立ったので、同じ手で返して差し上げただけです」
「飯でか」
「ええ」
「およそ聖女のやり口ではないな」
ラヴィニアが、胸の前で両手を握った。
「お姉さま……!」
「うるさい」
エルネスタは、ラヴィニアを横目で見た。
「あの悪辣だった黒百合が、ここまで懐くとはな」
「懐くなどと。私はただ、お姉さまを心よりお慕いしているだけですわ」
「何が違うのか言ってみろ」
エルネスタは鼻で笑った。
「聖女様の命なら、腕の一本くらい簡単に差し出しそうだな」
ラヴィニアは、少し考えた。
それから真顔でイレイナを見る。
「お姉さま、欲しいです?」
「要りません」
「そうですか」
ラヴィニアは、心底残念そうな顔をした。
エルネスタの目が細くなる。
「……どうやってここまで調教したんだ」
「あら、お聞きになりますか?」
ラヴィニアが微笑む。
「二晩ほどお時間をいただきますけれど」
「結構だ」
「残念ですわ」
イレイナは、深く息を吸った。
吸って、吐く。
工房の空気は薬草と焦げた金属の匂いがして、あまり肺に入れたいものではなかった。
「遊んでいる場合ですか」
「先に遊んだのはお前たちだ」
エルネスタは銀の針を取り上げた。
緩んだ結び目ではなく、もう一つの結び目へ近づける。
赤い紐が、先ほどより強く張った。
ぴん、と音がする。
「飯の結びは綻んだ。だが、こっちは残っている」
「印の結びですか」
「印、衣、鐘。そこまで進んだ分だな」
イレイナはノアの指先を思い出した。
洗っても残っていた赤。
白い衣の襟と袖口に入っていた赤。
鐘の紐。
アグネスの手。
「多少綻んだとはいえ、やはり術式は根本から断つしかあるまい」
エルネスタは言った。
「根本と言うと、鐘ですか」
「そう見ていいだろう」
エルネスタは赤い紐の先を、銀の鉗子で押さえた。
「鐘を鳴らさせないこと。正確には、刻限に鳴らさせないことだ」
「刻限を過ぎれば?」
「術式の形が崩れる。少なくとも、この紐が今見せている呼応は使えなくなる」
「なら、急ぎましょう」
「そうするといい」
エルネスタは、そこで作業台の下へ手を伸ばした。
がた、と重い音がした。
「ところで聖女様。多少は腕が立つのだろう?」
「多少は」
「では、お近づきの印に」
黒い布に包まれたものが、作業台の上へ置かれた。
短い筒だった。
長筒を乱暴に切り詰めたような形をしている。黒い台木に、銀の枠。太い筒身には、細い術式文字がびっしり刻まれていた。
片手で持てる。
だが、決して軽くはない。
白い外套の内側に吊るすには、ちょうどいい。
先端には、針のような銀が覗いていた。
少なくとも聖女に持たせていいような形ではない。
「……何ですか、これ」
「破式短筒。銘は《聖句殺し》」
「聖女に渡す名前ですか、それは」
「読みはスティグマだ」
「聞かなければよかったです」
エルネスタはそれでもどこか楽しそうだ。
「聖句、祈祷、祝詞。言葉で組まれた術式を撃ち抜くためのものだ」
「そんなものを作ったから追放されたのでは?」
「追放理由のひとつだな」
「複数あるんですね……」
「私は好奇心の赴くままに作るだけだね」
イレイナは黒い短筒を見る。
筒身の術式文字は、細かすぎて読めない。
ただ、ところどころに銀の線が走り、淡く光っていた。
「弾は一発だ」
「込め直しは利かない、と」
「込め直しはここでしかできん。鐘の核に撃ち込め」
「核というのは」
「赤い紐が一番集まっているところだ。見れば分かる」
「外したら?」
「鐘が鳴る。その後は言うまでもないだろう?」
エルネスタは短筒の横に、小さな銀の弾を置いた。
弾というより、針を丸めたような形だった。
細い文字が、その表面に刻まれている。
「もう一つ忠告だ。人には向けるなよ」
「向けたら?」
「祈るしかないだろうな」
「まるで神官のようなことを言いますね」
「祈るのは相手だがな」
イレイナは黙った。
エルネスタは片眼鏡の奥で薄く笑う。
「肉に当たれば、何が砕けるか分からん。術式を砕く道具だ。人間に使うものではない」
「そんなものを聖女に渡すな」
「神官には渡せなかったからな」
ラヴィニアが、うっとりと息を吐いた。
「聖女様にスティグマ……」
目も心なしか潤んでいる。
「背徳的ですわ」
「黙れ」
「お前も持つなよ、黒百合の小娘」
エルネスタが言った。
ラヴィニアは心外そうに目を丸くする。
「私が、お姉さまから賜ったものでもない短筒に触れるとでも?」
「触れるだろう」
しばらく考えた後、ラヴィニアはコクリと頷く。
「触れますわね。むしろ、それでは満足できませんわ」
「認めるな」
イレイナは短筒を持ち上げた。
重い。
冷たい。
指に馴染むように作られているのが手に取ればわかる。
白い外套の内側に吊るすと、布の下で黒い重みが沈んだ。
聖女の衣の中に、聖句殺し。
ラヴィニアの目がきらきらしている。
「お姉さま」
「黙れ」
「まだ何も言ってませんわ」
「顔に全部書いてんだよ」
「失礼いたしましたわ」
エルネスタは黒い石板の上の木札を布で包み直した。
赤い紐は、緩んだ結び目をひとつ、硬く締まった結び目をひとつ残している。
「持っていけ。ただし、紐には触れるな。あくまで導として使え」
「あまり触りたいものではないですが、役には立ちそうですね」
イレイナが扉へ向かおうとしたところで、エルネスタが呼び止めた。
「何でしょう」
「術式を組んだ奴は、相当丁寧だ」
工房の空気が少しだけ冷えた。
「赤い粥も、木札も、指印も、衣も、鐘も、全部意味がある」
「でしょうね」
「つまり、鐘のそばには、全部を見ている奴がいる」
アグネス・グラウス。
赤い髪。
褐色の肌。
甘い声。
子どもの肩を撫でる手。
イレイナは、外套の内側の重みを確かめた。
「好都合です」
「どこがだ」
「探す手間が省けます」
エルネスタは一瞬だけ黙った。
それから、短く笑った。
「やはり神殿の聖女ではないな」
「これでも聖女の仕事はちゃんとやってるんですけどね?」
イレイナは工房の扉を開けた。
外の光が差し込む。
薬草と焦げた金属の匂いが、昼の街の匂いに薄まった。
職人街の向こうから、風が来る。
赤い粥の匂いは、もうほとんどしない。
こつん。
イレイナの外套の内側で、《聖句殺し》の筒身がかすかに熱を持つ。
まだ間に合う。
そう言うように。
イレイナは、白いヴェールを指で直した。
「行きますよ」
「はい、お姉さま」
ラヴィニアが嬉しそうに続く。
背後で、エルネスタが言った。
「外すなよ、聖女様」
イレイナは振り返らなかった。
「外しません」




