第20話 あなたの神に聞きましょう
白い外套の内側で、黒い短筒が揺れていた。
歩くたび、冷たい重みが肋骨の横を叩く。
聖女の衣の下にあるには、あまりに物騒だった。
破式短筒《聖句殺し》。
読みは、スティグマ。
聞かなければよかった名だ。
「お姉さま」
ラヴィニアは、胸の前で両手を重ねた。
目が潤んでいる。
どう見ても、ろくなことを考えていない顔だった。
「白い聖女の外套の内に、スティグマ……」
「言うな」
「背徳の塊ですわね」
「鐘の前にお前にぶち込むぞ」
「お姉さまからいただけるのであれば、私はいつでも歓迎ですわ」
イレイナは、外套の内側の重みを意識しないように歩いた。
職人街を抜け、貧民街へ戻る。
道が狭くなる。
石畳が欠け、乾いた土が靴の下で鳴った。
赤い粥の甘い匂いは、薄くなっていた。
代わりに、別の湯気が路地を流れている。
麦の匂い。
塩の匂い。
ただ煮ただけの、何も混ぜていない粥の匂いだった。
角を曲がったところで、子どもが二人、椀を抱えて走ってきた。
「名前、聞かれなかった!」
「お祈りもいらないって!」
「おかわりあるって、ほんとかな」
「あるって言ってた!」
子どもたちは、イレイナたちの横を駆け抜けていく。
椀の中身は赤くない。
薄い麦色の粥が、揺れていた。
ラヴィニアが、ちらりとイレイナを見る。
「効いておりますわね」
「リリアナがうまくやったみたいですね」
ラヴィニアは、少しだけ唇を尖らせた。
「お姉さまのご命令……」
「必要な時は出しますから、今は黙って付いてきなさい」
広場へ近づくほど、人の声が増えた。
赤い粥の鍋の前には、まだ白布の巡礼たちがいる。
しかし、列は短くなっていた。
子どもたちの何人かは、皿の印の木札を握ったまま、神殿側の炊き出しへ向かっている。
白布の巡礼が、声を少し高くした。
「赤い札をお持ちの方は、こちらへ」
「支度の途中の方は、離れないでください」
「食卓の刻限が近づいています」
だが、言葉の端々に焦りがにじんでいる。
鍋の前に空いた隙間へ目が行くたび、巡礼の指先が袖口を撫でていた。
「焦っていますわね」
「食卓が空きますからね。教義に反するのでしょう」
イレイナは、外套の内側へ指を入れた。
布の中で、赤い紐が小さく鳴った。
緩んでいた方の結び目が、さらにわずかに浮いている。
だが、もう一方は硬い。
札の端へ食い込むように、赤が締まっていた。
鐘の方へ引かれている。
「腹の方は緩んだようですね」
「本人の方は、まだあちらですわね」
「ええ」
広場を抜け、礼拝所へ。
白い布が、昼の光の中で揺れている。
その奥に、小さな鐘があった。
低い木組みの鐘架に吊られた、手を伸ばせば届くほどの鐘。
赤い紐が、そこから垂れている。
鐘の下に、白い衣が三つあった。
ひとつはノア。
あとの二つは、知らない子どもだった。
一人は小さな女の子で、白い衣の袖を両手で握っている。
もう一人は痩せた少年だった。背はノアより高いが、顔色は悪い。
三人とも、髪を梳かれ、手を洗われ、白い衣を着せられていた。
襟の内側と袖口に、細い赤が見える。
鐘の内側に、赤い結び目があった。
何本もの赤い紐が、そこへ集まっている。
外套の内側で、《聖句殺し》が熱を持った。
台木へ指を滑らせる。
撃てる。
鐘の核は見えている。
赤い紐が集まる場所も分かる。
だが、鐘の下には子どもがいた。
ノアが、白い衣の裾を握ったまま、こちらを見ている。
「困ったことをするのね、白い聖女様」
甘い声がした。
アグネス・グラウスが、鐘の横に立っていた。
赤い髪が、白い布の前で揺れる。
ただ、声の底だけが少し冷えていた。
「何がですか」
イレイナは聖女のとして言葉を発する。
「お腹を満たすのは、良いことよ」
アグネスは、広場の方へ視線を向けた。
「飢えた子に食べ物を与える。それは美しいこと」
「ええ」
「でも、食卓へ向かう子の椅子を引くのは、失礼でしょう?」
「椅子ではないでしょう。そんなものは」
「では、何かしら」
「首輪です」
アグネスは、目を伏せた。
白い衣の肩へ落ちる睫毛まで、穏やかだった。
「あなたは、いつも固い言葉で物事を分けるのね」
「分けているのは、あなたでしょう」
「違うわ」
アグネスは、ノアの方を見た。
ノアは、白い衣の裾を握りしめる。
「食卓へ上がれば、飢えは終わるの」
アグネスの声は優しい。
「寒い夜も、ひとりで眠る朝も、役に立てないと泣くことも、全部終わる」
小さな女の子が、アグネスを見上げた。
アグネスはその子の髪を撫でる。
「神の一部になれば、もう捨てられない。忘れられない。空っぽのまま、朝を待たなくていい」
アグネスの声に、ためらいはなかった。
「それを救いと呼ばずに、何と呼ぶの?」
「ただの贄でしょう。そんなものは」
「違うわ」
アグネスの声が、わずかに強くなった。
「満たされるのよ」
喉の奥に、赤い粥の匂いが戻った気がした。
甘く、温かく、腹に残る匂い。
「ノア」
イレイナは、鐘の下の少年を見た。
ノアの肩が小さく跳ねる。
「お母さんは食べましたよ」
「……母さんが?」
「ええ。ただの麦粥ですけどね」
ノアの目が揺れた。
白い衣の袖を握る指が、少し緩む。
「でも」
アグネスが、静かに言った。
「よかったわね、ノア」
「何がです」
イレイナの声が、少しだけ低くなる。
「お母様のお腹が満たされたのなら、もう心配しなくていいわ」
アグネスは、ノアの肩に手を置いた。
「安心して、食卓へ上がれるわね」
ノアの顔から、色が少し抜けた。
イレイナは一歩進もうとして、止まる。
鐘の赤い紐が、かすかに揺れた。
外套の内側で、《聖句殺し》が熱を持つ。
しかし、今はまだ。
鐘の下に、子どもがいる。
イレイナは、ゆっくり息を吸った。
「主よ」
その一語に、アグネスの目が動いた。
イレイナは鐘ではなく、自分の内側へ声を向ける。
「あれは、本当に救いですか」
広場の音が、遠くなった。
椀の音。
子どもの声。
巡礼の呼び声。
麦粥の湯気。
すべてが少しだけ薄くなる。
そして、声がした。
『残念だが、アグネス・グラウス』
鐘の下で、アグネスが息を呑んだ。
『君の信じる神の本質は違う』
「な、何を」
アグネスの目が見開かれる。
その声は、イレイナの内側だけではなかった。
鐘の下にいるアグネスにも、確かに届いていた。
「この声は……」
『君も神に連なる者なら、聞こえるだろう』
アグネスは、胸元の皿とも杯とも見える聖印を押さえた。
唇が、かすかに震えている。
『詳しく言えば――』
「結構です」
イレイナは即座に言った。
神の声が止まる。
知らない。
「そこまでで十分です」
イレイナはアグネスを見た。
アグネスの顔から、余裕が一枚剥がれている。
「詳しいことは、あなたの信じる神に聞きましょう?」
「私の主を、試すつもり?」
「いいえ。聞くだけです」
イレイナは即答した。
「神の名で子どもを食卓へ上げるなら、神に説明してもらうのが一番でしょう」
「やめなさい」
アグネスの声が、初めて硬くなった。
彼女は鐘へ向かって一歩動こうとした。
イレイナは、ラヴィニアを見た。
ほんの瞬きの間。
それだけで、ラヴィニアの目が細くなる。
黒百合の髪飾りが、昼の光を吸った。
ラヴィニアの袖から、黒い細紐が落ちる。
アグネスが鐘の方へ動こうとした。
その足元に、影が入った。
「失礼します」
いつの間に戻っていたのか、リリアナがそこにいた。
リリアナの手が、アグネスの袖口を押さえる。
ラヴィニアの黒い紐が、手首へ絡む。
アグネスの動きが、そこで止まった。
「あら」
ラヴィニアが、少しだけ目を細める。
「私一人でも十分ですのに」
「まだ、信頼はしていませんので」
リリアナは無表情で言った。
「お姉さまの目配せを受けたのは私です」
「私は、その前から動いていましたけど」
「かわいげがありませんわね」
「毒があるよりましでしょう」
アグネスの手首を、黒い紐が締める。
その肘を、リリアナの手が押さえていた。
「離してちょうだい」
アグネスは言った。
甘さは残っている。
だが、声の奥で何かが軋んでいた。
「嫌ですわ」
ラヴィニアが微笑む。
「あなたはこれ以上お姉さまに近づけてはいけない気がしますもの」
「珍しく同意見です」
リリアナが短く返した。
イレイナは二人を見た。
「喧嘩してる場合ですか」
「しておりませんわ」
「していません」
声が重なった。
イレイナは息を吐く。
鐘の赤い紐が、頭上で揺れている。
白い衣の子どもたちが、息を潜めていた。
ノアが、こちらを見ている。
イレイナは外套の内側へ手を入れた。
《聖句殺し》の台木が、指に触れる。
「では」
イレイナは、鐘を見上げた。
「あなたの神に、聞いてみましょう」
外套の内側で、《聖句殺し》の銀が、ひやりと鳴った。




