第21話 おもちゃではなかったのですか
外套の内側で、《聖句殺し》が鳴った。
吊られた鐘の内側。
赤い紐が何本も集まり、硬い結び目になっていた。
そこへ筒口を向ければいい。
だが、今はまだ向けない。
鐘の下に、子どもがいる。
「ノア」
イレイナは、短筒を下へ向けたまま言った。
ノアの指が、白い衣の裾を握り直す。
「お母さんのところへ帰りなさい」
ノアは、すぐには動かなかった。
広場の方から、麦粥の匂いが流れてくる。
「でも」
ノアの声はかすれていた。
「俺が行かないと」
「あなたの意思は立派です。でも、そんなこと子供が背負っていいものではないのですよ」
ノアの目が揺れる。
白い衣の袖口に通った赤が、ほんの少し鈍った。
「戻りなさい」
「……母さん」
ノアが一歩、鐘の下から離れた。
小さな女の子が、不安そうにノアを見る。
ノアは迷ったあと、その子の袖をつまむ。
「行こう」
「でも、アグネス様が」
「いいから」
痩せた少年も、顔を伏せたまま一歩動いた。
鐘の下にあった白い衣が、少しずつ外へずれる。
「待って」
アグネスの声がした。
甘さは残っていた。
だが、縁が硬い。
「まだ支度は終わっていないわ」
アグネスが手を伸ばす。
その手首を、黒い細紐が絡め取っていた。
ラヴィニアは微笑んだまま、少しだけ紐を引く。
「お姉さまが神とお話し中ですの」
逆の手を動かそうとした肘を、リリアナが押さえた。
「動かないでください」
「あなたたちには、分からないの」
「分かりたくもありません」
ラヴィニアが、ちらりとリリアナを見る。
「今の返しは、少し好きですわ」
「光栄です」
鐘の下から、子どもたちは外れていた。
完全に安全ではない。
だが、真下ではない。
筒口を上げられるだけの隙間はできた。
アグネスは、それを見ていた。
揺れる赤い髪の向こうで、褐色の頬が少しだけ強張っている。
「主は、お答えくださるわ」
アグネスは言った。
自分に言い聞かせるような声だった。
「この子たちは、救われるためにここにいるの。あなたが何を言っても、主は飢えた子を見捨てない」
「ええ」
イレイナは鐘を見上げた。
「答えていただきます」
赤い紐が、静かに震え、鐘の内側で脈打つ。
白い布が揺れた。
広場の音が一段遠くなる。
椀のぶつかる音。
巡礼の声。
子どもの足音。
麦粥の湯気。
それらの奥から、別の声が降りてきた。
『聖女風情が、我に問うか』
低い声だった。
鐘の腹から響く。
イレイナの内側に聞こえる神の声とは違う。
重く、腹の底を撫でるような声だった。
アグネスの顔に、安堵が浮かぶ。
「主よ……」
黒い紐が食い込んだ手首を、アグネスは気にも留めない。
「異教の神よ」
イレイナは聖女の声で言った。
「何故、人を喰らうのですか」
鐘の奥で、低い笑いが揺れた。
『喰らうのではない』
赤い紐が、ゆっくりと揺れる。
『迎えるのだ』
「それは、救いなのですか」
『当然である』
声は迷わない。
『飢えも、寒さも、孤独も、我が内で終わる』
アグネスが、細く息を吐いた。
「ほら」
彼女の目に、まだ光がある。
「主は、そう仰っているわ」
「そうですか」
イレイナは静かに言った。
黒い短筒を、少しだけ持ち上げる。
「では、人の子のついでに、こちらも召し上がっていただきましょう」
アグネスの顔が変わる。
「何を」
イレイナは答えなかった。
筒口を上げる。
吊られた鐘の内側。
赤い紐が集まる核へ。
スティグマの短い筒身が、昼の光を吸った。
黒い台木に、イレイナの指が沈む。
『ふはは』
鐘の奥で、異教の神が笑った。
『そのような玩具で、神に楯突くとは』
「そうでしょうか」
イレイナは、撃鉄に指を掛けた。
カチリ。
小さな音がした。
その瞬間、短筒の内部に魔力が走る。
紫の淡い光が銀の装飾を駆け、刻まれた術式を起動していく。
刻まれた印を砕き。
結ばれた線を断ち。
術式を穿つ。
破壊の気配が先端から溢れ出す。
およそ聖女とは真逆の性質がその腕の中に顕現する。
異教の神の笑いが止まる。
『……やめよ』
声が変わった。
さっきまでの重さが、一枚剥がれている。
『それを我に向けるな』
アグネスの目が見開かれた。
「主……?」
イレイナは筒口を下ろさない。
鐘の核を見据えたまま、静かに言った。
「おもちゃではなかったのですか」
赤い紐が、びくりと震える。
『人の子が、触れてよいものではない』
「私は聖女ですから」
『聖女風情がっ!!』
「人でも聖女でも構いませんが、質問をしているのはこちらです」
イレイナは一歩進んだ。
白い外套が、床を擦る。
ノアたちはさらに後ろへ下がった。
小さな女の子が泣きそうな顔をしている。
ノアが、その子の前に立った。
痩せた少年は、鐘を見上げたまま唇を噛んでいた。
「やめて」
アグネスの声が震える。
「主に、それを向けないで」
唇だけが動く。
黒い紐に押さえられた手が、鐘へ伸びようとして止まる。
『その短筒を下ろせ』
神の声が、低く響いた。
『今すぐ下ろせ』
「それは、貴方の答え次第です」
『救いだと言った』
「ええ。聞きました」
イレイナは、筒口をほんの少し近づける。
鐘の内側の聖句が、一つ剥がれた。
赤い紐が軋む。
「では、聞き方を変えます」
白い布の揺れが止まり、礼拝所の空気が凍っていく。
「何が、美味いのですか」
鐘の核が、赤く脈を打つ。
返事は、すぐだった。
『飢えたものだ』
赤い紐が揺れる。
『縋るもの。祈るもの。自ら皿へ上がるもの』
アグネスの肩が、小さく跳ねた。
「……主」
イレイナは、筒口を逸らさない。
「この子たちも、ですか」
『そうだ』
小さな女の子が、ノアの背に隠れた。
痩せた少年の唇が白くなる。
イレイナは、もう一つだけ聞いた。
「この女もですか?」
アグネスの呼吸が止まった。
鐘の奥で、ぬめるような間が落ちる。
それから、声が笑った。
『当然であろう』
アグネスの目が見開かれる。
『よく餌を集め、よく馴らし、よく太らせた』
赤い紐が、アグネスの胸元の聖印へ向かってぴんと張った。
『上等な皿だ。最後に食うに相応しい』
「……違う」
アグネスの唇が動いた。
声が、まだ小さい。
「私は、主の聖女よ」
『聖女も糧だ』
鐘の奥の声は、あまりにあっさりしていた。
『器は満ちれば割る』
アグネスの顔から色が引く。
黒い紐に締められた手首が、細く震えた。
胸元の聖印を、アグネスは見た。
皿とも、杯とも見える印。
そこへ、鐘から伸びた赤い紐が細く呼応している。
「私、あなただけは」
言葉が続かない。
目だけが、鐘の内側へ縋る。
『良い巫女だった』
ひどく平坦な声が響く。
「……私」
アグネスの喉が鳴る。
褐色の頬が、ひどく白く見えた。




