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神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
2章 赤髪のアグネス

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第22話 あたしが赦さねえ

 アグネスの喉が鳴った。


 褐色の頬から、色が抜けている。


 彼女は鐘を見ていた。


 吊られた鐘の内側。


 赤い核。


 そこから伸びる、細い赤い紐。


 それが胸元の聖印へ触れていた。


 皿とも、杯とも見える印を、アグネスが両手で押さえようとする。


 けれど、指は途中で止まった。


『良い巫女だった』


 鐘の奥で、神が言った。


 使い終えた器を見る声だった。


『よく餌を集め、よく馴らし、よく太らせた』


「違う」


 アグネスの声は、細かった。


「私は、あなたの」


『その絶望は、熟れた』


 赤い紐が、きしりと鳴った。


 鐘の内側から、糸のような赤が何本も伸びてくる。


 アグネスの胸元へ。


 袖口へ。


 指先へ。


 生成りの衣の縫い目へ。


『来い、アグネス』


 アグネスの身体が、鐘へ引かれた。


 ラヴィニアの黒い細紐が軋む。


 リリアナの靴底が、床を滑った。


「引かれています!」


「見れば分かりますわ!」


 二人の声は短い。


 だが、抑えていたはずの二人の手から、その体が滑り、抜け出す。


 アグネスは、抵抗しているのか、縋ろうとしているのか、どちらともつかない表情を浮かべる。


「主よ」


 唇が震える。


「今のは、違うの」


 赤い髪が、白い布の前で揺れた。


「もう一度」


「もう一度だけ、お声を」


 腕が、鐘へ伸びる。


 その腕を、赤い糸が吊った。


 白い衣の袖口にも、赤が戻る。


 ノアの腕。


 小さな女の子の襟。


 痩せた少年の指先。


 解けかけていたものが、ふたたび締まった。


 ノアが歯を食いしばる。


 「い、痛い!」


 鐘はまだ鳴っていない。


 しかし、その音は既に、術式から解き放たれようとしていた。


「戯言は、それで終わりか」


 イレイナは、白いヴェールに指を掛けた。


 白い布が、床へ落ちる。


 聖女のヴェールは、埃と赤の中に沈んだ。


 金の髪が、昼の光に晒される。


 アグネスの身体が、鐘の前へ引きずり出され、胸元の聖印へ赤い糸が束になり、絡まる。


『撃てぬだろう』


 鐘の奥で、神が笑った。


 先ほどまで剥がれていた余裕が、わずかに戻っている。


 イレイナと鐘の間。


 そこにアグネスの体が引きずりだされる。


『この女ごと砕くか、聖女よ』


 アグネスの目が、大きく見開かれた。


 自分の胸元を見る。


 そこから伸びる赤い束を見る。


「主、よ」


 声が、壊れた。


 イレイナは、スティグマを握り直した。


 ぎり、と乾いた音が鳴る。


「馬鹿がよ」


『何を』


「こいつが壊すのは、鐘じゃねえ」


 イレイナは一歩、鐘架へ踏み込んだ。


 低い柵が、膝の前にある。


「その繋がりだ」


 次の瞬間、イレイナは柵を蹴った。


 木が割れるように鳴る。


 白い外套が跳ねた。


 イレイナの身体が、吊られたアグネスへ飛ぶ。


 伸びていた腕を掴む。


 だが、躊躇はしなかった。


「こっち来い」


 イレイナは、アグネスの腕を引いた。


 アグネスの身体が、鐘の正面からずれる。


 赤い糸が、一斉に張った。


 胸元の聖印から鐘の核へ。


 衣の縫い目から鐘の核へ。


 袖口から鐘の核へ。


 指先から鐘の核へ。


 無数の赤が、束になって露出する。


 脈打つ。


 絡み合う。


 一本の太い喉のように、神へ続いていた。


『やめよ』


 神の声がひきつった。


『その女を離せ』


「今さら人のこと心配するような玉かよ」


 イレイナは、アグネスを引き寄せたまま、スティグマの筒口を上げる。


 狙うのは、鐘ではない。


 アグネスでもない。


 彼女の胸元から伸びる赤い束。


 神が自分で晒した、喉元だった。


「人間は、てめぇの玩具じゃねぇ」


 筒身に銀の術式が走る。


「ましてや、食いもんでもねぇ」


 赤い束が、びくりと震えた。


『聖女風情が』


「ああ、聖女だよ」


 イレイナは、アグネスの腕を引いたまま笑った。


 笑みと呼ぶには、目が冷えていた。


「祈りも祝詞もありがたがらねぇ、出来損ないの聖女だ」


 カチリ。


 撃鉄が起きる。


「だから、ちょうどいい」


 赤い糸の束が、逃げるように震えた。


「神だろうが何だろうが」


 スティグマの筒口が、赤い束の中心へ触れる。


「てめぇみたいなふざけた野郎は――」


『待――』


「あたしが赦さねえ」


 撃鉄が落ちる。


 筒口から溢れ出た紫の光が、瞬き、筒に吸い込まれていく。


 そして。


 キン。


 澄んだ音が響く。


 紫を纏った、銀の線が走る。


 アグネスの身体を避け、赤い束だけを噛み砕く。


 神と人を結んでいた線が、中心から爆ぜた。


 赤い糸が、悲鳴のような音を立てて裂ける。


 鐘の内側で、核がひび割れ、紅い糸が暴れまわる。


『ああああああああああああああああああああ――ッ!!』


 神の絶叫が、礼拝所を揺らした。


 白い布が裂ける。


 鐘架が軋む。


 吊られた鐘の腹に、ひびが走った。


 赤い糸が、一本ずつ焼け落ちる。


 ノアの袖口から、赤が抜けた。


 小さな女の子の襟からも。


 痩せた少年の指先からも。


 アグネスの胸元の聖印が、ひときわ赤く光った。


 一瞬だけ。


 それから、皿の縁に細いひびが入る。


「あ」


 アグネスが、小さく声を漏らした。


 イレイナは、アグネスの腕を掴んだまま着地する。


 膝が床を打った。


 白い外套の裾が、赤い灰を払う。


 アグネスの身体から、力が抜けた。


 神へ伸びていた腕が落ちる。


 鐘の方へ引く力は、もうない。


 鐘は、もう鳴らない。


 鐘架の上で、吊り具が弾けた。


 砕けた鐘の欠片が、床へ落ちる。


 ひとつ。


 ふたつ。


 赤い核が割れ、黒い灰になって崩れた。


『赦さぬ』


 声が、遠くなっていく。


『赦さぬぞ、人の子』


「知るか」


 イレイナは、煙を上げるスティグマを下ろした。


 白いヴェールは、床に落ちたままだった。


 赤い糸の灰をかぶっている。


『我を、我を誰と――』


 最後の声は、鐘の残骸の中で潰れた。


 礼拝所に、沈黙が落ちる。


 甘い匂いは、もうほとんどしなかった。


 残っているのは、焦げた糸と埃の匂い。


 イレイナは、崩れた鐘を背にして立っていた。


 スティグマの筒身から、細い煙が上がっている。


 イレイナは振り返らない。


 ただ、低く。


「これで終いだ」


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