第23話 悪い癖
焦げた糸と、埃の匂い。
礼拝所の中に、白い粉塵が漂っている。
砕けた鐘の欠片が床に転がり、赤かった糸は灰になっていた。
白いヴェールは、床に落ちたまま。
赤い灰をかぶって、ぴくりとも動かない。
その中に、イレイナは立っていた。
金の髪が、昼の光に晒されている。
白い外套の裾は汚れ、手には煙を吐く破式短筒。
鐘は鳴らず、神の声もない。
ただ、誰かの息だけが聞こえた。
「ノア」
最初に動いたのは、リリアナだった。
砕けた木片を避け、白い衣の子どもたちへ駆け寄る。
ノアの袖口を掴み、襟元を見る。
指先。
爪の間。
白い衣の縫い目。
「赤は抜けています」
リリアナは短く言った。
ノアは、自分の腕を見た。
さっきまで袖口に走っていた赤は、もうなかった。
白い衣は、ただの白い布になっている。
「……痛くない」
ノアが、小さく言った。
その横で、小さな女の子がしゃくり上げる。
痩せた少年は膝をつき、割れた鐘の方を見たまま固まっていた。
「立てる子は立ってください」
リリアナは女の子の前に膝をつく。
「立てない子は、座ったままで構いません」
女の子はこくりと頷いた。
ノアがその子の手を握る。
「大丈夫」
声は震えていた。
けれど、手は離さなかった。
ラヴィニアは、黒い細紐をほどいていなかった。
アグネスの手首に、まだ緩く絡めている。
アグネスは、鐘の残骸を見ていた。
砕けた鐘。
割れた赤い核。
黒い灰。
ひびの入った胸元の聖印。
皿とも、杯とも見えたそれは、もう光っていない。
「主よ……」
アグネスの唇が動いた。
鐘は答えない。
「主よ」
声は細い。
白い布の向こうへ消えそうだった。
「主よ……」
イレイナが赤い灰を踏んで、アグネスの前に立つ。
アグネスは気づかない。
まだ、壊れた鐘を見ている。
「いつまで呼んでんだ」
返事はなかった。
イレイナは、生成りの衣の胸元を掴んだ。
ぐしゃり、と布が歪む。
アグネスの身体が、膝立ちのまま持ち上がった。
赤い髪が頬にかかる。
褐色の顔は、血の気を失っていた。
「……主」
「もう、いねぇよ」
聖印がかちゃりと音を立てる。
「お前の信じてた神はもういねぇ」
アグネスの目が、ようやくイレイナを見る。
焦点が合っていない。
イレイナは、胸元を掴んだまま顔を近づけた。
「お前は神に縋りたいのか」
アグネスの喉が鳴る。
割れた聖印が、生成りの衣の上で揺れた。
「それとも、救いを与えたいのか」
アグネスの唇が震える。
鐘の残骸を見る。
床に散った黒い灰を見る。
それから、自分の胸元を見る。
ひびの入った聖印。
もう何も答えない皿。
最後に、白い衣の子どもたちを見た。
ノア。
小さな女の子。
痩せた少年。
三人とも、こちらを見ている。
怖がっている。
泣きそうな顔で。
アグネスの目が、細く震えた。
「どっちだ」
イレイナの腕に力がこもる。
アグネスは、すぐには答えなかった。
砕けた鐘の奥を探すように、何度も目を動かす。
けれど、そこにはもう何もない。
「……救いを」
ようやく、掠れた声が出た。
「私は……」
そこで言葉が切れる。
アグネスは、白い衣の子どもたちを見た。
壊れた声で、続ける。
「与えたかった」
「だったら立て」
イレイナは即座に言った。
「泣くのは後だ」
アグネスの膝が震える。
立てない。
イレイナは胸元を掴んだまま、さらに引き上げた。
「お前が連れてきたんだろ」
アグネスの肩が跳ねる。
「きっちり返してやれ。それがあたしたちの役目だ」
アグネスの聖印。その紐が切れ、床に転がる。
その音だけが響く。
一歩踏み出す。
足元が揺れる。
それでも、子どもたちの前まで歩いた。
ノアが身構える。
小さな女の子がノアの袖を掴む。
痩せた少年は、床に座ったまま顔を上げる。
アグネスは、その前で膝をついた。
震える手を伸ばしかけて、途中で止める。
子どもに触れていいのか分からない。
それでも、声だけは。
「帰りましょう」
掠れた声だった。
「お母様のところへ」
ノアの顔が歪む。
「母さん」
「ええ」
アグネスは目を伏せた。
「もう、食卓へは行かなくていいの」
小さな女の子が泣き出した。
リリアナがすぐ横へ入る。
「歩けますか」
女の子は泣きながら頷く。
ノアがその手を握る。
痩せた少年は立とうとして、膝をついた。
アグネスが反射的に手を伸ばす。
今度は、止めなかった。
少年の腕を支える。
彼女の手は震えていた。
でも、力の入れ方だけは、よく知っていた。
「ゆっくりでいいわ」
声が、壊れている。
「転ばないように」
子どもたちは、少しずつ礼拝所の外へ向かった。
白い衣が、埃の中を進む。
赤はもうない。
アグネスはその横を歩く。
まだふらついている。
それでも、子どもたちの歩幅に合わせていた。
イレイナは、床に落ちたヴェールをまだ拾わない。
煙の消えたスティグマを外套の内側へしまう。
ラヴィニアが、その背を見ていた。
そして、子どもを導くアグネスの横顔を見る。
唇に、薄い笑みが浮かんだ。
「どこか見覚えのある光景ですわね」
リリアナは、袖についた赤い灰を払った。
顔は無表情だった。
「イレイナ様の悪い癖です」




