第24話 怒りでお腹は満たせません
「イレイナ様」
「はい」
「今回の件につきまして、子どもたちの救出が最優先であったことは理解しております」
「はい」
「また、異教の礼拝所において、危険な術式が運用されていたことも確認されました」
「はい」
「ですが」
神官の声は、どこまでも丁寧だった。
丁寧で、穏やかで、言っていることが大体ぜんぶ正しい。
だからこそ腹が立つ。
「救恤麦の独断放出。神殿外での無許可配給。異教礼拝所への強行突入。破式短筒の使用。そして、礼拝所設備の大規模破壊」
「はい」
「報告書に『鐘を撃ちました』とだけ記すのは、あまりに説明が不足しております」
「はい」
「破式短筒《聖句殺し》の使用理由につきましても、『神が食おうとしていたため』では、正式記録として扱いかねます」
「おっしゃる通りです」
イレイナは白いヴェールを被り、両手を重ね、深く頭を下げた。
「私の判断が性急であったことは、深く反省しております」
「反省していただけるのであれば、よろしいのですが」
「今後は、より慎重に努めます」
神官は、じっとイレイナを見た。
伏せた睫毛。
静かな声。
悔い改める者の顔。
表向きの聖女は、どこにも傷がない。
神官は長く息を吐いた。
「本当に、お願いいたしますよ」
「はい」
「本当に」
「はい」
扉が閉まった。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなったところで、イレイナは顔を上げた。
白いヴェールを掴む。
一息で脱ぎ捨てた。
「あーーーーーーーーーー! むかつく!」
ヴェールが机の上へ飛ぶ。
積んであった書類が崩れた。
羽ペンが床へ転がる。
祈祷書の上に小麦が散り、椅子の背に掛けていた外套が半分ずり落ちた。
「正しいこと言われると余計むかつくんだよ!」
「イレイナ様。落ち着いてください」
いつの間にいたのか。
リリアナが部屋の隅に立っていた。
両手には、空の盆を持っている。
「落ち着いてる」
「落ち着いている人は、ヴェールを投げません」
「むかついてるだけだ」
「それで、この部屋の惨状は流石に」
「部屋が勝手に荒れたんだ」
「部屋は勝手に暴れません」
「なんだよ。お前まで説教かよ」
「咎めているわけではありません」
リリアナは床に落ちた羽ペンを拾った。
「掃除はしていただきますが」
「掃除ならラヴィニアにでもやらせとけ。喜ぶだろ」
「残念ですが、ラヴィニア様は数日、ご実家の方に」
「……あっそ」
イレイナは椅子に乱暴に腰を下ろした。
机の端に片肘をつく。
羽ペンがまた一本落ちた。
リリアナは、それも拾った。
「もしかして、残念がっていますか?」
「ち、違ぇよ」
イレイナは即座に言った。
「部屋の掃除すんのが面倒だなって思っただけだ」
「そういうことにしておきましょう」
「前までもうちょっと素直だったのによ」
「今も素直ですよ。誰かさんに影響されてより素直になれた気がします」
こんこん。
扉が鳴った。
イレイナは顔をしかめる。
「誰だ」
「やはり、こちらでしたか。私です。私」
「だから名乗れって。詐欺か」
「アグネスです」
扉が、ゆっくり開いた。
「あ、待て。今入ってくんな!」
止めるより早く、アグネス・グラウスが顔を出した。
赤い髪を片側へ流し、生成りの衣をまとっている。
アグネスは部屋を見た。
机の上で崩れた書類。
床に落ちたヴェール。
散った小麦。
ずり落ちた外套。
椅子に座り、露骨に荒れているイレイナ。
それらを見て、アグネスは柔らかく目を細めた。
「白い聖女様」
「白でも聖女でもねえ。今のあたしはただのイレイナだ」
「怒りでお腹を満たしているのね」
「その言い方やめろっての」
甘い香りがした。
花と、蜂蜜と、温かい湯気を混ぜたような匂い。
鼻先に触れて、肩の力を少しだけ抜いていく。
イレイナは眉を寄せた。
「おい」
「はい」
「今、何かしただろ」
「少しだけ」
「少しだけじゃねぇよ」
リリアナが、空の盆を持ったまま鼻をひくつかせた。
「術ですか」
「危ないものではありません」
アグネスは微笑む。
「少し自分に素直になれるお香です。あと、魔術を少々」
「なんとも厄介な。合法ですか、それ?」
「大丈夫よ。神様もリラックスできるから」
リリアナは平然としている。
イレイナは椅子から立とうとした。
立てた。
が、思ったよりも体は重く、立っているのを億劫に感じてしまう。
「……効いてねぇぞ」
「そうですか。でも、お疲れでしょうから。ね、座りましょう?」
「効いてねぇからな」
それでも、イレイナの体は自然と椅子に重さを預ける。
「普段からそれくらい素直になってくれればいいのですが」
リリアナが即座に言った。
イレイナはリリアナを見る。
「お前、どっちの味方だよ」
「強いて言うなら、今は部屋の味方です」
「裏切り者」
「神官達を裏切った人に言われたくありません」
アグネスが、そっと椅子を直した。
イレイナの後ろへ回り、背もたれにかかった外套を整える。
「触るな」
「はいはい」
手は止まった。
止まったあと、ほんの少しだけ下がり、外套の皺を伸ばした。
「触ってんじゃねぇか」
「皺は伸ばしませんと。癖になるわ」
「ほっとけよ。後でやっから」
言い返す声が、少しだけ弱い。
イレイナは自分でそれに気づいて、でも、面倒で考えるのをやめた。
アグネスは床へ落ちていた白いヴェールを拾った。
埃を払い、丁寧に畳む。
「投げてはだめですよ」
「説教か?」
「いいえ」
アグネスは、畳んだヴェールを椅子の背に掛けた。
「大切なものは、乱暴に扱うと皺になるわ」
「別に大切じゃねぇし。そんなもんただの飾りだ」
「まだ素直じゃないわね。いいのよ強がらなくて」
「なんだよ、勝手に決めつけんな」
アグネスは、イレイナの横に膝をついた。
見上げる目は、以前と同じように柔らかい。
けれど、あの赤い神の影はなかった。
「あなたの優しさは私がちゃんと見ていますよ」
「……こっち見るな」
イレイナの頬が心なしか朱に染まる。
「では、少しだけ」
「見るなって言ってんだろ」
「白い聖女様。いいえ、イレイナ様」
アグネスはイレイナの服の裾を整えながら言葉を続ける。
「あなたは、いつも誰かを満たそうとして怒っているのですね」
「なんだよそれ。別に誰かの為じゃねえ。あたしが腹立つからやってるだけだ」
「では、あなたは誰に満たされるのですか」
「知らねぇよ」
アグネスは困ったように笑った。
それから、持ってきていた小さな布包みを開く。
中には、白い椀があった。
湯気が上がっている。
赤くない粥。
麦と塩と、少しの卵。
余計な甘さも、妙な粉もない。
ただ温かいだけの粥だった。
「食べない。腹は減ってない」
「食べなくてもいいです。少し、持って。温かいわよ?」
「命令すんな」
「じゃあ、お願い。です」
アグネスは椀を差し出す。
イレイナは睨んだ。
睨んだまま、受け取った。
温かかった。
両手に熱が広がる。
「……あちぃ」
リリアナが、書類を拾いながら言った。
「イレイナ様は、朝から何も食べていませんから、少しお腹に入れた方がいいですよ」
「余計な事言うなっての」
「神官様への応対で、昼も逃しましたし」
「余計なこと言うな」
アグネスの目が少しだけ細くなる。
「それは、よくありませんね」
甘い香りが、まだ部屋に残っている。
イレイナは椀を持ったまま、動けないでいた。
アグネスは、今度こそ手を離した。
そして、イレイナの正面に膝をついたまま、静かに言う。
「怒ってもいいのよ」
「は?」
「怒って、疲れて、座って、食べて、また怒ればいいわ」
イレイナは言い返そうとして、詰まった。
神官の小言。
砕けた鐘。
アグネスの壊れた顔。
全部まとめて、まだ胸の奥に引っかかっている。
「……むかつく」
「ええ」
「すげぇむかつく」
「頑張りましたものね」
それが一番むかついた。
アグネスの手が、静かに背へ回る。
イレイナが倒れてしまわないように。
イレイナは椀を持ったまま固まる。
「離せ」
「お椀、こぼしちゃうでしょ?」
横から、リリアナが椀を抜き取った。
「こぼれると掃除が増えます」
「お前な」
甘い香りが近い。
花と蜂蜜と湯気。
イレイナの額が、柔らかい布の奥の膨らみに触れた。
「……これは違う」
「いいのよ。遠慮しなくて」
アグネスは答えず、背を一度だけ撫でた。
「アグネス様」
リリアナが平坦に呼ぶ。
「その辺りで」
「そうね」
腕が離れる。
アグネスは立ち上がり、リリアナから椀を受け取って、イレイナの前へ戻した。
「食べてくださいね」
「食うから、帰れ」
「はい。また、満たしに来ますね」
微笑んだまま、アグネスは扉へ向かう。
リリアナも盆を持って続いた。
「お前も行くのかよ」
「掃除道具を取ってきます」
「戻ってくんな」
「部屋は勝手に片付かないんですよ」
扉が閉まった。
イレイナはしばらく動かなかった。
それから、両手で顔を覆う。
「……なんであたしは」
耳まで熱い。
椅子の背には、きれいに畳まれた白いヴェール。
甘い香りはまだ、部屋にうっすらと残っている。
「違う。あれは術のせいだ。なんであたしは!」
言ってから、机に額をぶつけた。
ごつん。
「もう、さいあく」
こんこん。
確認もせずに、扉が開く。
掃除道具を持ったリリアナが、無表情で部屋を見回した。
椅子のヴェール。
湯気の残る椀。
机に突っ伏したイレイナ。
「少しは楽になりましたか?」
「お前の目は節穴か」
「元気は出たみたいですね」
リリアナは、ほうきを持ち直した。
「では、掃除を始めます」
白い粥は、まだ湯気を立てていた。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
これにて第二章 完です。
ラヴィニアに引き続き、アグネスも居つくようになりました。
3章は現在執筆中。もうしばらくお待ちください。
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