第25話 赤くない粥
昼鐘が鳴る前に、イレイナの机から書類がなくなった。
朝の祈りを終え、相談に来た老婦人の話を聞き、寄付された毛布の確認も済ませた。最後に残った一枚へ署名すると、リリアナが乾ききらない文字へ砂を振る。
「……以上ですか?」
「はい。本日分は、これですべてです」
リリアナは余分な砂を払い、書類を重ねた。
イレイナは羽ペンを置いたまま待った。
何も来ない。
廊下を駆けてくる足音もなければ、慌てた神官が扉を開けることもない。
「静かですね」
「ラヴィニア様はご実家へ戻られていますし、アグネス様も今日はお見えになっていませんから」
「別に、静かな方が仕事は進むんですけど」
言いながら、机の端を指で二度叩く。
リリアナは何も言わず、書類を紐で束ね始めた。
イレイナは窓の外を見る。
白い雲が流れていた。
もう一度、机を見る。
何も増えていなかった。
「……平和なのは、いいことです」
「でしたら、残りの時間は祈祷書でもお読みになりますか」
「もちろんです」
イレイナは微笑み、机の端に置いてあった祈祷書を開いた。
一頁読んだところで閉じる。
「掃除とかありませんか」
「ラヴィニア様がご実家に戻られる前に徹底的に掃除されましたから、通常の掃除で事足ります。ちなみに、今日の分は既に私が済ませました」
足元を見る。
窓から差し込んだ光が、白い石床に反射していた。
「あの子、加減を知らないんですか」
「お止めしましたが、イレイナ様がお使いになる場所だからと」
「次に来たら止めてください。床がなくなります」
リリアナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「やはり、退屈していらっしゃいますね」
「してませんよ」
聖女らしく微笑んでみせる。
リリアナは書類を抱えたまま、その顔を眺めていた。
イレイナは先に視線を逸らした。
「……少しだけです」
「それでしたら、ちょうどいいものがあります」
「仕事ですか?」
「面白いものです」
その言い方が妙に引っかかった。
神殿からしばらく坂を下り、石造りの建物が途切れ始めた辺りで、香ばしい匂いが鼻に届いた。
路地の奥に人が集まっている。
大きな鍋から白い湯気が立ち、椀を持った老人や子供、仕事着の男たちが順番を待っていた。
その鍋の前に立つ女を見て、イレイナは足を止めた。
「……リリアナ」
「なかなか面白いでしょう?」
「先に言いなさい」
湯気の向こうで、赤い髪が揺れている。
アグネス・グラウスは生成りの衣の袖をまくり、大きな杓子で粥をよそっていた。
周囲でパンを配り、空いた椀を洗っている者たちにも見覚えがある。
以前、アグネスの教会にいた者たちだった。
ただ、今は誰も祈りを求めていない。
名を書き留める者もいなければ、食事の前に何かを唱えさせる者もいない。
イレイナは鍋の中を覗いた。
麦と細かく刻んだ野菜が煮えている。
赤くはなかった。
「ア、アグネス様。こちらで何をなさっているのですか?」
思ったより声が高くなった。
アグネスが振り返る。
「あら、イレイナ様。見ての通り、食事を配っています」
「それは見れば分かります。以前とは、随分とやり方を変えられたようですね」
「ええ。祈っていただく前に、まず食べていただくことにしました」
アグネスはそう言って、老婆の椀へ粥をよそう。
その横へパンを一つ置き、そのまま次の者を招いた。
「こちらの方が、皆様よく食べてくださいますから」
イレイナは何とも言えない顔で、その様子を眺めた。
本当に、ただの炊き出しだった。
「……本当に、それだけですか?」
「何を疑っていらっしゃるのです?」
「前科があるでしょう」
「まあ」
アグネスは困ったように笑いながら、次の椀へ粥を入れた。
その列の後ろに、痩せた中年の男が並ぶ。
肘に継ぎの当たった作業着を着て、靴の先は擦れて白くなっていた。
アグネスの杓子が、鍋の縁で一度だけ止まる。
「あの方、知っているんですか?」
「昨日もいらした方です。ただ、今日はもう来ないと思っていました」
「何かあったのですか?」
「教会の正式な配給を受けられることになったと、昨日とても喜んでいらしたので。そちらで足りるのなら、こちらの分は別の方へ回せると思っていたのですが」
男の番になると、アグネスは他の者と変わらない量の粥を椀へ入れた。
「すみません。今日もいただきます」
「構いませんよ。足りなければ、もう一度並んでください」
男は少し迷ってから頭を下げ、路地の端へ移った。
イレイナはそのあとを追う。
男は慌てて椀を置こうとしたが、イレイナが手で制した。
「食べながらで結構です。昨日から、教会の配給を受けているそうですね」
「はい。ようやく名簿に入れていただけました」
「でしたら、今日こちらへ来られたのは?」
男の手が止まった。
「いただけることは、いただけたんです」
椀の縁を親指で擦りながら、申し訳なさそうに続ける。
「ただ、小さなパンが一つだけで」
「それが今日の分ですか?」
「一日分だそうです」
イレイナは男の顔を見た。
「小さなパン一つで、一日分?」
「はい。皆、同じだと思います。貰えるだけありがたいんです。ただ、俺は荷運びをしてるんで。それだけだと、昼を過ぎる頃には腹が空いて動けなくなってしまって」
男は手の中の椀へ視線を落とした。
「こっちまで貰いに来るのは、いけませんでしたか」
「そんなわけないわ」
答えたのはアグネスだった。
空になった籠を抱え、こちらへ歩いてくる。
「お腹が空いたのなら、いらして。そのために作っている食事ですから」
男は深く頭を下げた。
イレイナはその横で、しばらく黙っていた。
やがてリリアナを振り返る。
「今日の予定、空いてましたよね」
「つい先ほど、すべて終わったと申し上げましたよ」
「では、一件増やしましょうか」
アグネスが首を傾げる。
「どちらへ?」
「小さなパン一つを、一日分だと言って配っている教会です」
イレイナは男から教会の名前と場所を聞き、ヴェールを直した。
「せっかく暇だったんです。どういう計算をすれば人間がパン一つで一日動けるのか、教えを乞うのも悪くないです」
リリアナが静かに後ろへつく。
昼鐘は、まだ鳴っていなかった。
3章スタートです。




