第26話 明日の分
男に教えられた教会は、下町の外れにあった。
小さな鐘楼のある、白い石造りの建物だった。
入口から道へ向かって列が伸びている。老人もいれば、子供を連れた女もいる。仕事着のまま並んでいる男たちの中には、先ほどアグネスの炊き出しで見かけた顔もあった。
イレイナは列から少し離れたところで足を止める。
「思ったより、普通ですね」
「少なくとも、外から見る限りは」
リリアナの言う通りだった。
列を整理する神官は穏やかで、声を荒らげる者もいない。順番が来れば、机の向こうから紙に包まれたパンが一つ渡される。
イレイナは黙って何人かを見る。
男が一人。
老婆が一人。
母親には一つ。その横にいた子供にも一つ。
どれも同じ大きさだった。
「……本当に、あれだけなんですね」
「そのようです」
イレイナは列の脇を抜け、配給机へ向かった。
こちらに気づいた神官が目を見開き、慌てて背筋を伸ばす。
「これは、イレイナ様。まさかこちらへお越しになるとは」
「突然すみません。配給の様子を少し見せていただいても?」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
快く場所を空けられ、イレイナは机の上を覗いた。
並んでいるのは、掌より少し大きい程度のパンだった。焼き色は悪くないし、見る限り質を落としている様子もない。
「こちらを、一人に一つ?」
「はい。どなたにも同じものをお渡ししております」
「一日分として?」
「そうです」
神官は何の迷いもなく答えた。
イレイナはそれ以上聞かず、少し横へ退いた。
配給はそのまま続いていく。
名前を確認し、パンを一つ渡す。
受け取った者は頭を下げ、紙包みを抱えて帰っていく。
しばらく眺めてから、イレイナは小声で尋ねた。
「足ります?」
「足りないでしょうね」
間髪を入れず返ってきた。
イレイナはリリアナを見る。
「ですよね」
「はい」
それだけ確認すると、もう一度配給所へ目を向けた。
奥から空になった籠が運び出され、代わりに新しい籠が入ってくる。その後ろで扉が開いた。
中に木箱が積まれているのが見えた。
「すみません。あちらは?」
「保管庫です」
「見ても構いませんか?」
神官は一度だけ奥を振り返った。
「ええ。もちろんです」
案内された保管庫には、思っていた以上の量があった。
棚にも、木箱にも、布を掛けた籠にもパンが入っている。今日配っているものと同じものだった。
床は乾いていて、壁際には虫除けの香草まで吊るされていた。
イレイナは手前の箱を覗く。
「ずいぶんありますね」
「明日以降に配る分もありますから。今年は寄進が多く、大変ありがたいことです」
「足りなくて一つしか渡せないわけではないんですね」
神官が少し不思議そうな顔をした。
「ええ。今のところ、その心配はありません」
「だったら、もう一つ渡してもいいのでは?」
今度は返事までに少し間があった。
「今日、ですか?」
「今日です。あれでは足りないでしょう」
神官は困ったように眉を下げる。
「ですが、今日多くお渡ししてしまえば、明日の配給を受けに来られない方も出ます」
イレイナは箱の中から顔を上げた。
「明日も来てもらう必要があるんですか?」
「毎日お渡しするための配給ですから」
神官は当然のこととして答えた。
「一度に多く渡すより、必要な日に必要な分をお渡しする。その方が長く支援を続けられます」
イレイナはもう一度、箱の中を見た。
パンはある。
少なくとも、今日の分が足りないわけではない。
「責任者の方と、お話しできますか?」
配給を取り仕切っている男は、教会の裏手にある執務室にいた。
五十を少し過ぎたくらいだろうか。白い法衣は襟元まできっちり留められ、机の上の紙も綺麗に揃えられている。
イレイナを見るなり立ち上がった。
「聖女様にお越しいただけるとは。何か至らぬ点がございましたか?」
「少し気になることがありまして。配給について伺っても?」
「もちろんです。何なりと」
勧められた椅子へ向かう途中で、壁に掛けられた大きな板が目に入った。
いくつもの教会名と、その横に数字が並んでいる。
「これは何ですか?」
「ああ、救恤の実績です」
男は嬉しそうに立ち上がり、板の前まで歩いた。
「各教会が月にどれだけ支援を行ったか、人数を集計しております。互いの取り組みを知るためにもなりますので」
この教会は二番目だった。
一位との差は、あと僅かしかない。
「随分、上の方なんですね」
「昨年も二位でした。今年こそは首位をと、皆で力を入れているところです」
男は二位の数字を指で示した。
「今月は特に順調です。配給を始めてから、利用される方も着実に増えています」
イレイナは椅子に座らなかった。
「一つ聞いても?」
「ええ」
「配るパンを少なくしているのは、その人数を増やすためですか?」
男の眉が寄った。
「少なくしている、というのは?」
「一度に十分渡せば、翌日は来ないでしょう」
「ああ」
ようやく意味が分かったらしい。
男は小さく頷いた。
「確かに、数日分をまとめて渡すことはしておりません。食べ物は、一度渡して終わりではありませんから」
「でも、あの量では今日一日も持ちませんよ」
「だからこそ、明日も来ていただけます」
あまりに自然な返事だった。
イレイナは男を見る。
男もイレイナを見返している。
「毎日足を運んでいただければ、こちらも毎日その方の様子を確認できます。今日も無事だった。明日も食事を受け取れた。それを積み重ねることが、継続した救済になると考えています」
男は壁の板へ目を向けた。
「それに、一人の方へ一度に多く渡すより、その分を多くの方へ行き渡らせた方が、救える人数も増えます」
「倉庫には余っていましたよね」
「余っているわけではありません。明日のために残しているのです」
イレイナは少し黙った。
「今日、お腹を空かせている人がいるのに?」
「明日、お腹を空かせる人もいます」
返事は早かった。
男は本気だった。
困っている者を見捨てているつもりなど、おそらく少しもない。
壁には二位の数字がある。
窓の向こうでは、今日も列が伸びている。
「一人が今日と明日、一度ずつ食事を受け取れば」
イレイナが言う。
男は頷いた。
「二日続けて、その方を救うことができます」
そこで、ようやく分かった。
「……なるほど」
「ご理解いただけましたか?」
「ええ」
イレイナは笑った。
「とてもよく」
その声に何かを感じたのか、リリアナがわずかに顔を上げる。
イレイナは壁の順位表を見た。
二位。
首位までは、あと少し。
「今日の配給は、夕方まででしたね」
「はい。この調子なら、本日もかなりの人数になるでしょう」
「それは素晴らしいです」
イレイナは聖女らしく微笑んだ。
「せっかくですから、最後まで見せていただきますね」
「ええ、ぜひ。現場の者たちも励みになります」
男は嬉しそうに頭を下げた。
その横で、リリアナだけが何も言わなかった。




