第27話 今日はたくさん救いましょう
執務室を出ても、教会の前にはまだ長い列が残っていた。
昼を少し回ったばかりだ。
配給台では、神官が紙に包んだパンを一つずつ手渡している。受け取った者は頭を下げ、そのまま道の向こうへ消えていった。
イレイナはしばらく、それを眺めた。
「大変、勉強になりました」
後ろから出てきた責任者が、満足そうに頷く。
「ご理解いただけたのであれば何よりです。救恤とは、ただ多く与えればよいというものではございませんから」
「ええ。本当に」
イレイナはにこやかに答えた。
隣で、リリアナが少しだけ目を伏せる。
「せっかくですので、私もお手伝いしてよろしいですか?」
「もちろんですとも。聖女様から直接お渡しいただければ、皆もどれほど喜ぶことか」
責任者はすぐに配給台の一角を空けさせた。
神官たちも歓迎している。
イレイナはヴェールを整え、積まれたパンを一つ取った。
最初にやってきたのは、腰の曲がった老人だった。
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
パンを渡す。
老人は両手で受け取り、深く頭を下げた。
帰ろうとしたところで、イレイナは呼び止める。
「少しよろしいですか?」
「はい?」
「それで、今日一日足りそうですか?」
老人は手の中のパンを見た。
「今日一日、ですか」
少し考えてから、困ったように笑う。
「夕方まで持てば、いい方でしょうな」
「そうですか」
イレイナは頷いた。
「では、もう一度並んでください」
老人が目を瞬いた。
後ろにいた責任者も、同じような顔をしている。
「……もう一度、ですか?」
「ええ。まだ足りないのでしょう?」
老人はパンとイレイナを交互に見た。
「ですが、今日はもういただきましたし」
「構いません。順番だけ守っていただければ」
恐る恐る、老人が最後尾へ向かう。
列にいた者たちが、その背中を目で追った。
「イレイナ様」
責任者が一歩近づく。
「通常、一度配給を受けられた方には、また翌日に――」
「こちらで一日、足りますか?」
イレイナは次に来た女へ尋ねた。
幼い子供を連れている。
女は渡されたパンを見て、少し迷った。
「この子と分けますので……夜までは難しいかと」
「でしたら、足りなければもう一度どうぞ」
「よろしいんですか?」
「もちろんです」
女は戸惑いながらも頭を下げ、子供の手を引いて列の後ろへ回った。
配給台の前がざわつき始める。
それでもイレイナは、次のパンを手に取った。
一つ渡す。
足りるか聞く。
足りなければ、もう一度並んでもらう。
しばらくすると、最初の老人が戻ってきた。
「お待たせしました」
イレイナは二つ目のパンを差し出す。
「これで足りそうですか?」
老人は二つの包みを見比べた。
「ええ。これだけあれば、今日は」
「それはよかったです」
老人は今度こそ嬉しそうに笑い、何度も頭を下げながら帰っていった。
イレイナは責任者を見る。
「二度、救えましたね」
「それは……」
責任者の口が止まる。
その横をリリアナが通り、列の方へ向かった。
「まだ足りない方は、もう一度最後尾へお並びください。順番を守っていただければ問題ありません」
その一言で、空気が変わった。
最初は周囲の様子を窺っていた者たちも、一人、また一人と列へ戻り始める。
「本当に、また貰っていいんですか?」
仕事着の男が、不安そうに尋ねた。
「まだお腹が空いているんでしょう?」
「まあ……そりゃあ」
「なら、どうぞ」
イレイナはパンを渡した。
男が頭を下げる。
その後ろでは、子供が母親の袖を引いていた。
母親はしばらく迷ってから、その手を引いて列の後ろへ向かった。
パンが減り始めた。
一つ目の籠が空になり、神官が新しいものを運んでくる。
それもすぐに底が見え始めた。
「イレイナ様」
責任者が、今度は声を落として近づいてきた。
「少々、よろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「このままでは、明日以降の分まで使うことになります」
「まだ保管庫にはありますよね」
「ですが、それは明日のための――」
「今日、お腹を空かせている方がいらっしゃいます」
責任者が言葉を詰まらせる。
「一日に何度も配給するというのは、これまでの運用では」
イレイナは首を傾げた。
「昨日と今日で一度ずつなら二度救えて、今日二度では駄目なのですか?」
「それは……同じ日ですから」
「ですが、二回ですよ?」
にこりと笑う。
「実績にも二回と記録されるのでしょう?」
責任者の顔が固まった。
イレイナは次のパンを取る。
「でしたら、何も問題ありませんね」
「しかし」
「全部配れとは言ってませんよ」
笑顔は崩さない。
「今日必要な分を、今日渡しているだけです」
責任者は列を見た。
何人もの人間が、こちらを見ている。
その前で聖女が自らパンを渡していた。
しばらくして、責任者は口を閉じた。
配給はそのまま続いた。
先ほどアグネスの炊き出しにいた男もやってきた。
二度目のパンを受け取ったところで、イレイナが尋ねる。
「これで今日は足りそうですか?」
男は二つの包みを持ち、少し考えた。
「はい。これなら、仕事を終えて家まで帰れます」
「そうですか」
今度は、もう一度並べとは言わなかった。
男はパンを抱え、列から離れていく。
その後も、必要な量を受け取った者から帰っていった。
何度も最後尾へ戻っていた人が、一人ずついなくなる。
気づけば、昼過ぎまで道を埋めていた列は半分ほどになっていた。
最後の一人へパンを渡した頃には、配給台の籠にも底が見えていた。
それでも、保管庫には明日の分が残っている。
イレイナは指についた小麦粉を払った。
「終わりましたね」
「……はい」
責任者の返事には、先ほどまでの張りがなかった。
そこへ神官が一人、小走りで近づいてきた。
「責任者様」
「何だ」
「本日の集計なのですが」
神官は手元の紙を見た。
「一位を上回りました」
「何?」
責任者の顔が上がる。
「本当か?」
「はい」
その表情が、一瞬で明るくなった。
「そうか……!」
壁の順位表が書き換えられる。
二番目にあった教会の名前が、一番上へ移った。
「おめでとうございます」
イレイナは両手を合わせた。
「念願の一位ですね」
「ありがとうございます!」
責任者は胸を張った。
「昨年から、皆で目指してきたものです。ようやく努力が――」
「では、明日からも今日のように配れますね」
声が止まった。
「……はい?」
「今日、こんなにたくさん救えたじゃないですか」
イレイナは順位表を見る。
「しかも一位です」
「ですが、首位を維持するためには、今後も安定した件数を――」
「でしたら、同じようにすればよろしいのでは?」
イレイナはヴェールを整えた。
「お腹が空いている方に、足りるまで渡す。何度も並んでいただけば、その分だけ実績も増えるんでしょう?」
「それは……」
「よかったですね」
にこりと笑う。
「やり方を変えなくても、もっとたくさん救えますよ」
責任者は何も言わなかった。
リリアナが静かに一礼する。
「それでは、私たちはこれで失礼いたします」
「今後とも、皆様をよろしくお願いします」
イレイナも聖女らしく頭を下げた。
教会を出るまで、笑顔は崩さなかった。
角を曲がり、配給所が見えなくなる。
「……くだらねぇ」
途端に肩が落ちた。
「念願の一位にはなれましたね」
「なりたきゃ最初から、腹いっぱい食わせて一位になれってんだよ」
リリアナが小さく笑う。
「明日からも、今日のようにしてくださるでしょうか」
「しなかったら、あたしが行く」
「毎日ですか?」
「三日も居座れば嫌になるだろ」
イレイナは足を止めなかった。
「それでも直さないなら、五日に増やす」
「それは嫌でしょうね」
「だろ」
二人はそのまま、午後の日差しの中を神殿へ戻った。
翌朝、アグネスの炊き出しを訪れると、いつもより列が短かった。
大鍋からは変わらず湯気が立っている。
だが、昨日まで早い時間から並んでいた顔がいくつか見当たらない。
昨日、二度パンを受け取った男も来ていなかった。
「減ってますね」
「ええ。今日は少し余るかもしれません」
アグネスが粥をかき混ぜる。
「だったら残しとけ。今日来なかったからって、明日も腹が減らねぇわけじゃないだろ」
「そういたします」
アグネスは素直に頷き、鍋の火を少し弱めた。
「そういえば、昨日いらした教会ですが」
「何だよ」
嫌な予感がして、イレイナは眉を寄せる。
「あの配給方法、以前からではなかったようです」
「は?」
「少し前までは、必要に応じてもう少し多く渡していたそうですよ」
アグネスは椀へ粥をよそい、列の先頭にいた老人へ手渡した。
老人を見送ってから、何でもないことのように続ける。
「何か月か前に、救恤のやり方について助言された方がいらしたとか。それから実績を随分気にするようになったそうです」
イレイナは少し黙った。
「……誰に?」
「そこまでは」
アグネスは次の椀を取る。
「ただ、あの教会だけではないようです」
イレイナの眉間に皺が寄った。
「他にも?」
「ええ。救恤の運営が上手くなると評判の方だそうですよ」
「どう上手くしたら、昨日みたいになるんだよ」
「実績は増えていましたでしょう?」
アグネスが柔らかく笑った。
イレイナは何も言わなかった。
鍋から上がった白い湯気が、目の前を横切っていく。
「……ろくでもねぇ奴の匂いがする」
「まあ」
アグネスは次の粥をよそった。
「また、お仕事が増えそうですね」
イレイナは深く息を吐いた。
昨日までなら、それでも悪くないと思っていた。
今は少しだけ、退屈だった朝が恋しかった。




