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神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
1章 黒百合のラヴィニア

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第8話 黒百合は捨てても戻る


 ぴちゃ。


 イレイナは、動けなかった。


 ラヴィニアが、本当に靴を舐めていた。


 黒百合館の土がついた革靴の先に、唇を押し当てている。


 床に両手をつき、深い紫のドレスを広げ、祈るように。


 ぴちゃ。


「……は?」


 イレイナの顔から、笑みが消えた。


「おい」


 ぴちゃ。


「まじで舐めんなよ。お前正気か?」


 ラヴィニアは答えなかった。


 白い手袋の指が、イレイナの足首に触れる。


 イレイナは足を引こうとした。


 動かない。


 ラヴィニアが、両手で靴を抱え込んでいる。


「離せ」


 ぴちゃ。


「離せっつってんだろ!」


 ラヴィニアは、ようやく顔を上げた。


 涙で濡れた目。


 赤くなった頬。


 黒百合の髪飾りは傾き、銀灰色の髪が乱れている。


 けれど、その奥だけが妙に輝いていた。


「これで赦してくださるのですね」


 声は震えていた。


 だが、怯えではなかった。


「お姉さま」


「誰が、お姉さまだ。誰が」


 イレイナは顔を引きつらせた。


「いいから離れろって」


「嫌ですわ!」


「嫌じゃねぇよ!」


「私は私のすべてをお姉さまに捧げますの!」


「いらねえよ! なんでそうなるんだよ!」


 帳簿係が、壁際で目を伏せた。


 侍女たちは顔を見合わせ、すぐに見なかったことにした。


 黒い封筒の束を抱えたリリアナだけが、静かに立っている。


 ラヴィニアは、イレイナの靴先に頬を寄せた。


 うっとりと、息を吐く。


「好きですわ」


「待て」


「好きです好きです好きです! 愛してますわ!!」


「意味わかんねぇ!!」


 イレイナは後ろを振り返った。


「おい、リリアナ! こいつ引きはがすの手伝えって!」


 リリアナは、黒い封筒の束を抱えたまま、まっすぐイレイナを見ている。


「見るな! 今は見るな!」


「今のはイレイナ様が悪いです」


「なんでだよおおおおおお!」


 黒百合会の残りを片づける間も、ラヴィニアだけは最後までイレイナの靴から離れなかった。


 数日後。


 神殿の奥にある小部屋で、イレイナは一通の報告書を読んでいた。


 表紙には、黒百合会残務整理報告、とある。


 筆跡は美しい。


 必要な順に、必要な紙が並んでいた。


 返却順、再配分先、処分要求、保護先、反発予測。


 要るものだけが、綺麗に並んでいる。


 イレイナは、最後の一行で手を止めた。


「再利用案、じゃねぇんだよ」


 机の横で、リリアナが灰皿を替えている。


「あの方、お仕事は一流なんですね」


「そこが一番腹立つんだよ」


 イレイナは紙をめくった。


 最後に、追伸があった。


 追伸。


 もう一度、終わりだと仰ってくださいませ。


 その一文だけ、なぜかインクが滲んでいる。


 イレイナは無言で紙を閉じた。


 しばらくしてから、低く呟く。


「気色わりぃ」


 それでも、イレイナは報告書を机の端に置いた。


 丸めはしなかった。


 その翌朝。


 神殿の廊下は、妙に綺麗だった。


 白い石床には水拭きの跡が残り、燭台の煤は落とされ、窓枠の隅に溜まっていた灰まで消えている。


 イレイナは、廊下の途中で足を止めた。


 白い前掛けをつけたラヴィニア・クロウフォードが、床に膝をついていた。


 深い紫のドレスではない。


 動きやすい黒の作業着に、白い手袋。


 銀灰色の髪は後ろでまとめられている。


 黒百合の髪飾りだけが、いつも通り揺れていた。


「お前、なにしてんの?」


「見ての通り、お掃除ですが?」


「聞いてねぇ。誰の許可で居座ってんだ」


 ラヴィニアの手は止まらなかった。


 濡れた布で床を拭き、乾いた布で水気を取り、落ちていた糸くずをつまみ上げる。


 手際は、腹が立つほど良い。


 床に落ちていた金色の細い髪を、ラヴィニアが拾った。


 窓から差す朝日に、そっとかざす。


 それから、懐へ入れた。


 別の黒い髪は、他の塵と一緒に小さな紙袋へ。


 その動きは速く、自然だった。


 イレイナの視線は、ラヴィニアの顔に向いている。


 気づいていない。


 リリアナだけが、灰皿を抱えたまま少し首を傾げた。


「掃除は頼んでねぇぞ」


「お姉さまの歩かれる床ですもの」


「その呼び方をやめろ」


「努力しておりますわ」


「成果が全部逆なんだよ」


 イレイナは額を押さえた。


「おい、リリアナ。塩持ってこい」


「残念ながら、聖水しかありません」


「じゃあ、それでいい。撒いとけ」


 ラヴィニアの顔が、ぱっと輝いた。


「お姉さまの聖水!?」


 次の瞬間、イレイナはリリアナの手から聖水瓶を奪った。


 蓋を抜く。


 ラヴィニアの顔面にぶっかける。


「わぷっ」


 前髪から、聖水がぽたぽた落ちた。


 イレイナは瓶を握ったまま、低く言った。


「次にしょうもないこと言ったら、マジで口縫い付けるからな」


 ラヴィニアは濡れた顔を両手で押さえた。


 頬が赤い。


「お姉さまが、私のためにそこまで……」


「リリアナ。針」


「ありません」


「なんでだよ」


「聖水はあります」


「もう一本よこせ」


 小部屋に戻ると、机の上も妙に片づいていた。


 寄付目録は支援先ごとに分けられ、未処理の封筒には赤い紐、確認済みの控えには白い紐が結ばれている。


 面会願いは時間順に積まれ、その横には湯気の立つ茶まであった。


 イレイナは、しばらく机を見下ろした。


「誰がやった」


「私ですわ」


「聞くまでもなかったな」


 ラヴィニアは濡れた髪を拭きもせず、涼しい顔で立っていた。


「お姉さまのお手を煩わせぬよう、優先順位を整えておきました」


「片づけじゃねぇ。巣作りすんな」


「まあ」


「感心してねぇよ」


 イレイナは赤い紐の封筒をつまみ上げた。


「返却待ちの封筒ですわ。本人確認が必要なものだけ残してあります」


 次に、別の束へ目を落とす。


「神殿内購入者候補ですわ。昨日の時点で逃げる可能性が高い順に並べました」


 さらに、その横の紙。


「お姉さまの本日の予定ですわ」


「なんで、あたしの予定をお前が知ってんだよ」


「面会願いに時刻が書かれておりましたので」


「勝手に並べんな」


「お姉さまが見やすいかと」


「巣作りを続けるな」


 ラヴィニアは胸に手を当てた。


「お姉さまの机に触れられるなら、これ以上の栄誉は」


 イレイナは聖水瓶を持ち上げた。


 ラヴィニアは口を閉じた。


「机にまで欲情すんな」


 扉が叩かれた。


 入ってきたのは、中年の神官だった。


 昨日までラヴィニアの名を聞くだけで渋い顔をしていた男である。


 神官は机の上の書類を見て、少し気まずそうに目を伏せた。


「聖女様。その、クロウフォード嬢の件なのですが」


「ちょうどよろしいですね。クロウフォード嬢は神殿へ入れないでください」


「ですが」


「ですが、ではありません」


「黒百合会の残務整理に必要な書類が、多く……」


「どなたの尻拭いかは存じませんが、私の預かりにはしないでいただけますか」


「大変、助かっておりまして」


「そうですか。私は助かった覚えがありません」


 神官は困った顔をした。


「返却状も再配分も照会も、どれも手続きが滞っておりましたので」


「でしたら、そちらで最後まで面倒をご覧になってください」


「それは困ります」


「私も困っております」


 ラヴィニアは、濡れた髪のまま静かに微笑んでいる。


 イレイナはそちらを見た。


「クロウフォード嬢、そこで微笑まないでください」


「お役に立てて光栄ですわ」


「あなたが役に立つたび、余計な仕事が増えるのです」


 神官は小さく咳払いした。


「神殿長からも、当面は協力者として扱うようにと」


 イレイナは目を細めた。


「……どなたが話を通したのですか」


 ラヴィニアは目を伏せた。


 反省している顔ではなかった。


「お姉さまのお手を煩わせぬように」


「その文句は、免罪符にはなりません」


「便利な言葉ですので」


「少なくとも、私の前では使わないでください」


 神官は、そっと一歩下がった。


「では、私はこれで」


「面倒だけ置いて行かないでください」


「職務がございますので」


 扉が閉じる。


 イレイナは椅子に座った。


 すぐ立った。


 机の位置が、いつもより少しだけ違う。


「おい」


「はい、お姉さま」


「机、動かしたな」


「日差しの角度が、書類を読むには少し強かったので」


「戻せ」


「お姉さまの目を守るためです」


「戻せ」


「畏まりました」


 ラヴィニアは一礼し、机を元の位置へ戻した。


 リリアナが灰皿を替えながら、紙を一枚差し出した。


 寄付目録の写しだった。


 その横に、細かな字が並んでいる。


 返却済み。


 本人確認待ち。


 家名照会中。


 神殿内購入者候補。


 黒百合会関係者。


 赤い印の横には、貴族家ごとの反発見込みまで書き込まれていた。


 イレイナは黙って紙を見た。


 それから、ラヴィニアを見る。


「お前、本当に何なの?」


「お姉さまの犬ですわ」


「犬に謝れ」


 ラヴィニアは嬉しそうに頬へ手を当てた。


「首輪をご用意くださるのですか」


「リリアナ、聖水」


「はい」


「待ってくださいませ。今のは言葉の綾ですわ」


「その綾ごと燃やしてぇんだよ」


 イレイナは深く息を吐いた。


「よし」


 ラヴィニアが目を輝かせる。


「何なりと」


「お前、仕事すんな」


 部屋が静かになった。


 ラヴィニアは瞬きをした。


「仕事を、するな?」


「座ってろ。何にも触るな。書くな。分けるな。拾うな。祈るな。あたしを見るな」


「呼吸は」


「してろ」


「ありがとうございます」


「そこで礼を言うな」


 ラヴィニアは、部屋の隅に置かれた椅子に座った。


 背筋を伸ばし、両手を膝に重ねる。


 姿勢は完璧だった。


 イレイナは机に向かった。


 一枚目の書類を読む。


 二枚目。


 三枚目。


 静かだった。


 静かすぎた。


 イレイナは両手で顔を覆った。


 拾うんじゃなかった。


 かなり本気で思った。


 その時、頭の奥で声がした。


『厄介なものを拾ったね』


 声は、心底楽しそうだった。


「てめぇ、笑ってんじゃねぇぞ」


 ラヴィニアが、濡れた睫毛を上げる。


「あら、お姉さま。神様はなんと?」


「お前が厄介って話だよ」


 ラヴィニアは、両手を胸の前で重ねた。


「光栄ですわね」


「こっちは後悔してんだよ」


 イレイナは立ち上がった。


「返す」


 ラヴィニアが顔を上げる。


「何を」


「お前を」


「リリアナ、馬車の用意だ。さっさとこいつを突き返すぞ」


 ラヴィニアは、濡れた睫毛を伏せたまま微笑んだ。


「あら、お姉さま。多分、無駄ですわ?」


「あん? なんでだよ」


「私、黒百合会の件で実家からは追い出されましたもの」


 言い方は軽い。


 だが、目は笑っていなかった。


「今さら戻しても、門前で止まりますわ」


「じゃあ、お前をこのまま送り返しても」


「行く当てなどありませんので、こちらに舞い戻りますわね」


 イレイナは頭を抱えた。


 その時、リリアナが一通の封筒を机に置いた。


 黒い紐はついていない。


 ただ、端に灰色の麦の印が押されていた。


「返却不能の封筒です」


 イレイナは封筒を見る。


「今度は何だ」


「黒百合会の残務の中に紛れていました」


 ラヴィニアの顔が変わった。


 さっきまでの濡れた犬みたいな空気が消える。


 背筋が伸び、目が紙へ向く。


「灰麦村ですわ」


 イレイナは眉を上げた。


「何で知ってる」


「麦の印。灰色の染料。封の折り方。巡回司祭オルドの管轄です」


 ラヴィニアは封筒に触れない。


 少し離れたところから、目だけで追っている。


「黒百合会に流れてきた封筒のうち、神殿の徴税印が混じっていたものは三件。二件は返却済み。一件は所在不明」


「その一件がこれか」


「おそらく」


「誰の」


 ラヴィニアは一拍置いた。


「マリナ・ベルク。元聖女候補ですわ」


 部屋の空気が変わった。


 イレイナは封筒を取る。


 開かない。


 指先で、灰色の麦印だけをなぞった。


「神税の村か」


「表向きは奉納ですわ」


 ラヴィニアは言った。


「神に守られている村は、感謝を示すべき。凶作は祈りが足りない証。病人が出た家は清め料。娘を神殿奉仕に出せば、家の罪が軽くなる」


「誰がやってる」


「巡回司祭オルド。代官ギルベルト。徴税請負人ダントン」


 名前が、迷いなく出た。


「帳簿は」


「表は神殿に。裏は代官の手元に。現金ではなく、小麦、布、娘の奉仕日数で記録されています」


「見たのか」


「黒百合会に流れてきた封筒の端を」


 ラヴィニアは、ほんの少し目を伏せた。


「当時は、価値があると思いました」


 イレイナはラヴィニアを見た。


「今は」


「……罪滅ぼしですわ」


「先にそう言え」


「その上で、お役には立てるかと」


「そこは後でいい」


 ラヴィニアは静かに頷いた。


「灰麦村では、今年の神税が増えています。理由は、聖女候補を出した家に不浄があったため」


「不浄?」


「神殿から戻された娘は、村の信仰を汚した。そういう名目ですわ」


 イレイナの指が、封筒を握った。


 紙が少し歪む。


「神様も、ずいぶん腹が減るらしいな」


 その時、頭の奥で声がした。


『私は食べていない』


「知ってるよ」


 イレイナは封筒を机に置いた。


「リリアナ」


「はい」


「こいつ、捨てた方がいいと思うか」


 ラヴィニアが息を呑む。


 リリアナは少しだけ考えた。


「捨てるには、惜しいです」


「腹立つ答えだな」


「拾うには、重いです」


「それは知ってる」


 頭の奥で、また声がした。


『重い黒百合だね』


 さっきより楽しそうだった。


「黙れ。お前、絶対面白がってんだろ」


『うん』


「認めんな」


 ラヴィニアが、ぱっと顔を上げる。


「神様も、私をお認めくださったのですね?」


「重いっつってんだよ」


「お姉さまへの愛の重さですわ」


「そういう意味じゃねぇ」


 イレイナは椅子に座った。


 しばらく黙っていた。


 机の上には、灰麦村の封筒。


 巡回司祭の名。


 代官の名。


 徴税請負人の名。


 そして、黒百合会で拾った厄介な女。


 勝手に机を動かす。


 神殿に外堀を埋める。


 捨てれば、楽になる。


 だが、敵の臭いを嗅ぎ分ける。


 帳簿の裏を読める。


 貴族街と神殿の汚い道を、誰より知っている。


 イレイナは、舌打ちした。


「三つだ」


 ラヴィニアの顔が明るくなる。


「はい、お姉さま」


「一つ。お姉さまって呼ぶな」


「努力しますわ」


「努力じゃねぇ。守れ」


「はい」


「二つ。足に触るな」


「努力しますわ」


「守れっつってんだろ」


「はい」


「三つ。勝手にあたしの名を使うな」


 ラヴィニアは少し考えた。


「緊急時は」


「使うな」


「お姉さまの利益になる場合は」


「使うな」


「お姉さまが後で怒るだけで済む場合は」


「使うなっつってんだろ!」


 リリアナが、静かに言った。


「無理そうですね」


「言うな!」


 イレイナは椅子の背にもたれた。


 天井を睨む。


「……村までだ」


 ラヴィニアが瞬きをした。


「はい?」


「灰麦村まで使う。そこで役に立たなかったら捨てる」


 ラヴィニアの目が潤んだ。


「つまり、同行をお許しくださるのですね」


「試用だ。試用」


「お姉さまの試用期間……」


「その言い方をやめろ!」


 ラヴィニアは深く一礼した。


「全身全霊で、お役に立ってみせますわ」


「半分でいい」


「いえ、全身全霊で」


「重いんだよ」


 リリアナが、灰麦村の封筒を持ち上げた。


「出立の準備をします」


「ああ」


 イレイナは立ち上がった。


 窓の外では、白い神殿の尖塔が朝日に光っている。


 その向こうに、灰麦村がある。


 イレイナは、灰色の麦印を指で押さえた。


 祈っても、麦は戻らない。


 こうして、イレイナは黒百合を捨て損ねた。


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