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神は赦しても、私は赦しません ――信仰心ゼロの聖女ですが、神の声が聞こえるので悪党どもを逃がしません  作者: tomato.nit
1章 黒百合のラヴィニア

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第7話 黒百合は膝を折る


「全部、塞いできた」


 黒百合の封筒が、机の上に積まれていた。


 一通。


 また一通。


 黒い封蝋が、燭台の火を受けて鈍く光る。


 ラヴィニア・クロウフォードは、扇を持ったまま動かなかった。


 深い紫のドレス。


 銀灰色の巻き髪。


 黒百合の髪飾り。


 そのすべては、まだ美しく整っている。


 ただ、白い手袋の指先だけが、細かく震えていた。


「……勝手に」


 ラヴィニアの唇が動く。


「勝手に、私の部屋へ入らないでくださる?」


 声は、まだ甘かった。


 だが、扇の骨がきしんでいる。


 イレイナは、机の前に立っていた。


 白いヴェールはない。


 金の髪が肩に落ち、白い手袋の指先には黒いインクがついている。


 革靴の先には、黒百合館の土が乾いてこびりついていた。


「入ったんじゃねぇよ」


 イレイナは、積んだ封筒の一番上を指で叩いた。


「戻ってきたんだ」


「戻る場所ではありませんわ」


「そうか」


 イレイナは笑わなかった。


「じゃあ、返す場所だな」


 リリアナが、後ろから一枚の紙を机に置いた。


 神殿行きの封書。


 黒百合の封蝋は、もう割れている。


 中に入っていたはずのものはない。


 代わりに、黒百合会の寄付名簿の写しが挟まれていた。


 救護院。


 孤児院。


 貧民区。


 寄付額。


 紹介状。


 茶会推薦。


 封筒あり。


 聖女候補。


 ラヴィニアの目が、紙の上で止まった。


「それは」


「神殿へ届く」


 イレイナは言った。


「お前が送った封書としてな」


「違いますわ。それは、私が」


「お前が封をした」


「中身が違います」


「そうだな」


 イレイナは、封蝋の欠片をつまんだ。


「中身だけ変えた」


 ラヴィニアの喉が、小さく鳴った。


 リリアナが、次の紙を置く。


 衛兵隊長の署名。


 茶葉箱。


 銀貨六枚。


 夜間見回り名目。


 黒百合会客人保護。


「貴族街の衛兵は、今ごろ神殿だ」


「そんなはずは」


「自分で持っていったよ」


 イレイナは肩をすくめた。


「黒百合会から届いた封書をな」


 ラヴィニアは扇を閉じた。


 ぱちん、という音が、やけに大きく響く。


「御者は」


「馬車の車輪を直してる」


「帳簿係は」


 リリアナが、鍵束を置いた。


 金属が机に当たり、冷たい音を立てた。


「聞く前に出した」


 イレイナが言う。


 ラヴィニアの目が、鍵束に吸い寄せられる。


 その鍵には、黒い紐が結ばれていた。


 寄付箱。


 奥の棚。


 金庫。


 写しの棚。


 ラヴィニアの指が、扇を握り直す。


「金庫は」


「開いた」


 リリアナが、薄い帳面を机に置いた。


 そこには、銀貨の数よりも多く、人の名が並んでいた。


 神官見習い。


 侍女。


 商家の娘。


 没落令嬢。


 聖女候補。


 家名の横に、小さな印。


 支払い済み。


 保留。


 追加調査。


 返却不可。


 ラヴィニアの顔から、少しずつ色が引いていく。


「触らないで」


 初めて、声が尖った。


 イレイナの指は止まらない。


 黒い紐の封筒を、一つ、机へ置く。


 もう一つ。


 さらに一つ。


「触らないで!」


 ラヴィニアが立ち上がった。


 椅子が後ろへ倒れる。


 扇が床に落ちた。


「それは、私のものですわ!」


 部屋の空気が止まった。


 イレイナが、顔を上げる。


 リリアナも、わずかに目を上げた。


「今、言ったな」


 イレイナの声は低かった。


 ラヴィニアの唇が震える。


「違……」


「預かってたんじゃねぇのか」


 ラヴィニアは、何も言えなかった。


 イレイナは、黒い封筒を指で押さえた。


「必要な方に、必要な時に、お渡しするだけですわ」


 ラヴィニアが、前に言った言葉だった。


 イレイナは、淡々と続ける。


「そう言ったよな」


「私は」


「違うよな」


 イレイナは、封筒を机の上で滑らせた。


 聖女候補の封筒。


 黒い紐は擦り切れ、封の端には何度も開け閉めされた跡がある。


「お前は預かってたんじゃねぇ」


 指が止まる。


「集めて、値札をつけて、棚に並べて、自分のもんにしてた」


「違いますわ!」


「違わねぇよ」


 ラヴィニアの肩が上下する。


 息が乱れている。


「私が作ったのですわ」


 低い声だった。


「黒百合会は、私が作った。私が集めた。私が整えた。誰にも守られなかったものを、私が価値に変えたのですわ」


「守った?」


「そうですわ!」


 ラヴィニアの目に、怒りが戻る。


 だが、その奥に恐怖が混じっていた。


「家も、神殿も、婚約者も、親も、綺麗な言葉だけで人を捨てますわ」


 ラヴィニアは笑おうとした。


 笑えなかった。


「だから、私は値をつけた。値があるものは、捨てられませんもの」


「だから他人に首輪をつけたのか」


 ラヴィニアの頬が引きつった。


「首輪ではありませんわ」


「首輪だよ」


 イレイナは、寄付誓約書の束を机に叩いた。


 乾いた音が響く。


「茶会に出たいなら寄付しろ。縁談が欲しけりゃ封筒を預けろ。家を守りたきゃ弱みを買え」


 もう一束。


 紹介状の配分表。


「慈善の顔をして、人の喉に黒い紐をかけてた」


 さらに一束。


 衛兵への支払い控え。


「それを守ったとは言わねぇ」


 ラヴィニアは一歩下がった。


 机の端に腰が当たる。


 逃げ場はない。


 後ろは窓。


 横は棚。


 前には、イレイナ。


 そして机の上には、自分が積み上げたはずのものが、すべて置かれている。


「返しますわ」


 ラヴィニアは言った。


「何を」


「金なら。封筒なら。名簿なら。いくらでも」


「返すのは、お前じゃねぇ」


 イレイナは、黒い紐の封筒をリリアナへ渡した。


「本人に返す」


 ラヴィニアの目が揺れた。


「私の黒百合会が」


「終わりだ」


「終わりません」


「終わったんだよ」


「終わりませんわ!」


 ラヴィニアは机に手をついた。


 白い手袋の指が、黒い封筒の上で滑る。


「私が作ったのです。私の棚です。私の金庫です。私の名簿です。私の」


「もう、お前のもんじゃねぇよ」


 イレイナは、静かに言った。


 その声が、一番深く刺さった。


 ラヴィニアの口が開く。


 言葉は出なかった。


 机の上には、鍵があった。


 伏せられた黒百合の封筒があった。


 開かれた名簿があった。


 空になった寄付箱があった。


 ラヴィニアの手元には、扇だけが残っていた。


 ラヴィニアは、ゆっくり首を振った。


「……神に」


 かすれた声だった。


「神に、誓いますわ」


 イレイナの目が細くなる。


 ラヴィニアは、壁に掛けられていた小さな銀の聖印へ手を伸ばした。


 黒百合の布の中央に飾られた、白い神殿の印。


 白い手袋の指が、震えながら聖印に触れる。


「黒百合会は、慈善のためにありました」


 声は震えていた。


「私は、誰一人傷つけるつもりなどありませんでした。すべては救いの秩序のため。神の御前に、誓いますわ」


 燭台の火は、揺れなかった。


 聖印は、光らない。


 窓の外の鐘も鳴らない。


 ただ、紅茶の香りだけが、冷めていく。


 ラヴィニアは聖印を握りしめた。


「誓いますわ」


 何も起きない。


「誓います」


 沈黙。


 ラヴィニアの手から、聖印が滑り落ちた。


 銀の音が床に響く。


 イレイナは、それを見下ろした。


「届いてねぇよ」


 ラヴィニアの顔が、歪んだ。


「そんな、はず」


「神を逃げ道に使うな」


 イレイナは一歩近づいた。


「金で買う相手もいねぇ。封書もねぇ。衛兵も来ねぇ」


 ラヴィニアは、後ずさろうとした。


 机にぶつかる。


 もう下がれない。


「残ってんのは」


 イレイナは、泥のついた靴先をわずかに動かした。


「お前だけだな」


 ラヴィニアの膝が落ちた。


 深い紫のドレスが、床に広がる。


 黒百合の髪飾りが傾いた。


 白い手袋が、床につく。


「私の」


 声が崩れた。


「私の、黒百合会が」


「終わりだ」


 ラヴィニアの喉から、細い息が漏れた。


 泣き声にも、笑い声にもならない音だった。


 イレイナは見下ろした。


「神に祈っても届かねぇ。金で買う相手もいねぇ。棚も金庫も空だ」


 少しだけ、口の端を吊り上げる。


「靴でも舐めりゃ赦してやるよ」


 ラヴィニアの肩が、ぴくりと跳ねた。


「神じゃなくて、あたしがだけどな」


 ラヴィニアは、ゆっくり顔を上げた。


 涙で濡れた目が、イレイナの靴先を見ている。


 イレイナは鼻で笑った。


 その目に宿った光を、敗北の涙だと思った。


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