第6話 黒百合は根から抜く
黒百合館の門を出たところで、イレイナは足を止めた。
白い壁の向こうで、黒百合の庭が揺れている。
夕方の光はもう薄く、貴族街の石畳には長い影が落ちていた。
街路樹の影に、小さな白い姿が立っている。
リリアナだった。
白い見習い服の袖に、細かな土がついている。
イレイナは眉を寄せた。
「黒百合館には近づくなっつったよな」
「館には入っていません」
リリアナは、両手で黒い封書を掲げた。
「ちゃんと言いつけは守っています。封書はここにあります。中は見ていません」
封蝋は割れていない。
黒百合の印が、そのまま残っている。
イレイナはしばらくそれを見た。
「お前、そこまでしろなんて言ってねぇぞ」
「ですが、止められてもいませんから」
「ったく、誰に似たんだよ」
リリアナは、じっとイレイナを見た。
まっすぐだった。
「お前、しゃべらねえ癖にうるせえな」
「目は口ほどにものを言いますから」
「……言い返すな」
イレイナは封書を受け取った。
黒百合の封蝋に爪をかける。
リリアナは目を伏せた。
封が割れる。
中には、薄い紙が数枚入っていた。
古い名前。
酒場裏。
血のついた石畳。
煤けた祭壇布。
偽りの神託。
神の声。
イレイナは、最後までは読まなかった。
中の紙を抜き、折り畳む。
「これは神殿行きか」
リリアナは頷いた。
「なら、後で詰める」
イレイナは紙を袖の内へ入れた。
「もう一通は」
リリアナは、貴族街の角へ目を向けた。
茶葉屋の裏手に、馬車が一台止まっている。
車輪がひとつ、石畳の上に転がっていた。
「衛兵詰所へ向かう予定でした」
「予定」
「御者が、少し困っています」
イレイナは額に手を当てた。
馬車を見た。
御者は汗だくで、外れた車輪を抱えている。
足元には、黒百合の焼き印が入った木箱。
その隙間から、黒い封書の端が覗いていた。
「お前さぁ」
「車輪は、館の外でした」
「そういう問題じゃねぇよ」
リリアナは、外れた車輪を見ていた。
表情は変わらない。
「……あとで説教な」
「はい」
「今、納得した顔すんな」
リリアナは、黙ってイレイナを見た。
「見るな。うるせぇ」
「はい」
「じゃあ、埋めるか」
「何を」
「逃げ道」
イレイナは封書を袖の内へ滑らせた。
「根っこごとな」
茶葉屋の裏手へ近づくと、御者の肩が跳ねた。
「聖女様」
「急ぎか」
「い、いえ。これは、その」
「封書」
御者の喉が鳴る。
「知りません」
「そうか」
イレイナは、転がった車輪を足で押した。
車輪はゆっくり転がり、御者の爪先に当たって止まった。
「じゃあ、その木箱ごと預かる」
「それは困ります」
「そうか」
イレイナは笑わなかった。
「なら、ここで蓋を開けるか」
御者の顔が強張った。
「お嬢様の印がございます」
「知ってるよ」
イレイナは木箱の焼き印を指で叩いた。
「黒百合会の印だ。茶葉屋の裏で、車輪を外したまま、衛兵詰所宛ての荷を抱えてる」
御者は答えない。
額の汗だけが、こめかみを伝って落ちる。
「このまま通りへ出して、人前で開けてもいいんだぞ」
「お待ちください」
「じゃあ、出せ」
御者の指が、上着の内側に伸びた。
そこで一度、止まる。
「……私が渡したと知れれば」
「安心しろ」
イレイナは白い手袋の指で、転がった車輪をもう一度蹴った。
「もう十分、知れる」
御者は目を閉じた。
それからようやく、二通目の封書を差し出した。
二通目の封蝋も、割れていない。
黒百合の印が、こちらを向いていた。
イレイナは受け取る。
二通目の封書を開く。
中には、衛兵詰所へ宛てた短い文が入っていた。
黒百合館にて騒ぎあり。
客人保護。
聖女への注意。
イレイナはその紙を抜いた。
リリアナが、抱えていた紙束を一枚差し出す。
茶葉箱。
銀貨六枚。
夜間見回り名目。
黒百合会客人保護。
署名。
日付。
イレイナは目を通し、白い紙をリリアナへ渡した。
「字、似せられるか」
リリアナは頷いた。
白い見習い服の袖から、細い筆が出てくる。
「お前、何持ち歩いてんだよ」
「灰替えの記録用です」
「絶対それだけじゃねぇだろ」
返事はなかった。
黒い封筒に、別の中身が戻される。
「黒百合館へ戻るな」
「は、はい」
「戻ったら」
御者の顔から色が抜ける。
イレイナは封書を袖へ入れた。
「次は車輪じゃ済まねぇぞ」
御者は何度も頷いた。
リリアナは、外れた車輪を静かに見ていた。
「何だ」
「戻せます」
「今じゃねぇ」
「はい」
貴族街の衛兵詰所は、黒百合館から二つ角を曲がった先にあった。
扉の前には、槍を持った衛兵が二人。
詰所の中では、隊長らしい男が椅子に座っている。
イレイナは机の上へ封書を置いた。
黒百合の封蝋。
割れていない印。
衛兵隊長は、眉をひそめる。
「これは」
「黒百合会からだろ」
「お預かりします」
衛兵隊長の指が、封書へ伸びる。
封を割る。
中の紙を開く。
その顔が、硬くなった。
茶葉箱。
銀貨六枚。
夜間見回り名目。
黒百合会客人保護。
署名。
日付。
衛兵隊長は、紙を閉じようとした。
イレイナの白い手袋が、その上に乗る。
「閉じるな」
「これは」
「ただの控えです」
衛兵隊長は、息を整えるように一拍置いた。
「しかも、封書の中身は差し替えられている。そう疑うのが先でしょう」
詰所の空気が、そこでわずかに変わった。
槍を持った衛兵たちの視線が、イレイナへ集まる。
「聖女様。黒百合館は貴族街の社交場です」
「だから?」
「不用意に踏み込めば、こちらにも面倒が及びます」
「もう及んでるだろ」
「ですが、この紙切れ一枚では、貴族街の衛兵は動けません」
イレイナは黙った。
ほんの一拍だけ。
衛兵隊長の口元に、強気が戻る。
「お引き取りください」
壁際で控えていたリリアナが、一歩だけ前へ出た。
白い見習い服の袖から、もう一枚、薄い紙が差し出される。
さきほど封書から抜いた、元の文だった。
黒百合館にて騒ぎあり。
客人保護。
聖女への注意。
イレイナは、そこで目だけを動かした。
ほんのわずかに。
それで十分だった。
「そうか」
イレイナは元の文を受け取り、支払い控えの横に並べた。
「じゃあ、二枚で見ろ」
衛兵隊長の眉が動く。
「黒百合会からお前に回す封書」
白い指が、元の文を叩く。
「その客人保護のために払った金」
次に、支払い控え。
「片方だけなら、とぼけられるよな」
「……」
「けど、二枚並べてまだ知らねぇは通らねぇだろ」
衛兵隊長の喉が鳴る。
「聖女様。これは貴族街の問題で」
「貴族街の衛兵が、貴族令嬢の慈善会から銀貨を受け取って、客人を守る。綺麗な話じゃねぇか」
「……」
「黒百合館で何かあれば、すぐ駆けつけるんだったな」
衛兵隊長は答えない。
イレイナは二枚の紙を指で揃えた。
「駆けつけろよ」
「どちらへ」
「神殿だ」
衛兵隊長が顔を上げた。
「この二枚を持って、神殿へ行け。誰に金を貰って、何を守ろうとしたか、ちゃんと説明してこい」
「そんなことをすれば」
「困るな」
イレイナは少しだけ笑った。
「なら、良かった」
槍が、床へ下がった。
金属の先が、石に触れて小さく鳴る。
外へ出ると、リリアナが壁際に立っていた。
「次は」
リリアナが黒い紐の切れ端を差し出した。
「寄付箱の前にいた方です。位置だけ聞きました」
黒い紐は、何度も結び直された跡があった。
「左の棚。下から三段目。黒い紐」
イレイナはそれを受け取った。
「奥には入ってねぇな」
リリアナは、すぐには答えなかった。
「……その間は何だ」
「正確に思い出していました」
「怖ぇよ」
リリアナは、黒い紐を指先で揃えた。
「そういうとこだよ」
黒百合館へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
門番は、イレイナの顔を見て一歩下がった。
「聖女様。お帰りに」
「通せ」
「ですが、お嬢様は」
イレイナは、門番の足元に薄い紙を落とした。
出入りの控え。
門番の名前。
通した馬車。
裏門の時刻。
封書の数。
門番の顔が青くなる。
「誰に書かせたと思う」
門番は喉を鳴らした。
イレイナの背後で、リリアナが小さく紙束を抱え直す。
「案内しろ」
門番は、黙って門を開けた。
黒百合館の中では、夜の茶会がまだ続いていた。
サロンの声は少ない。
笑い声は薄く、扉の向こうへ逃げるように消えていく。
寄付箱は、まだ机の上にあった。
イレイナはその前で立ち止まる。
鍵はかかっている。
「鍵は」
侍女のひとりが、小さく首を振った。
「帳簿係がお預かりしております」
「呼べ」
誰も動かない。
サロンの端で、寄付箱の前にいた若い令嬢が息を詰めた。
イレイナは箱を見下ろした。
「開けられねぇなら、ここで叩き割る」
「お待ちください」
奥の部屋から、帳簿係が駆けてきた。
腰の鍵輪が、歩くたびに鳴る。
「こちらは会の記録です。勝手に触れられては」
「慈善の記録か」
「そのようなものです」
「なら、ちょうどいい」
イレイナは、帳簿係の前に一枚の紙を落とした。
寄付額。
推薦。
家名。
出入りの控え。
帳簿係の顔色が変わる。
「ここで箱を開けて、どの家の娘にいくら払わせたか、みんなの前で読んでやろうか」
「それは」
「慈善なんだろ」
帳簿係の手が、腰の鍵輪を押さえた。
「では、私が確認して」
「遅ぇよ」
イレイナが一歩寄る。
その一瞬、帳簿係の肩が揺れた。
鍵輪が指から外れる。
小さな銀の鍵が、床に跳ねた。
黒い紐が、輪に結ばれている。
リリアナが、音もなくそれを拾った。
イレイナは鍵を見て、それからリリアナを見た。
「それ、どうした」
「帳簿係の手から落ちました」
「落ちた?」
リリアナは、帳簿係を見た。
帳簿係は青い顔のまま、何も言えない。
「……落ちました」
「お前じゃなくて本人に言わせろよ」
リリアナは、目を伏せた。
反省している顔ではなかった。
「お前、説教の残高増えてるぞ」
「はい」
「その顔で返事すんな」
イレイナは舌打ちして、鍵を受け取った。
寄付箱が開く。
中には、硬貨が入っていた。
それから、紙。
寄付誓約書。
招待状の配分表。
令嬢ごとの寄付額。
茶会推薦の控え。
家名の横に、細かな印がついている。
支払い済み。
不足。
保留。
封筒あり。
イレイナはそれを見下ろした。
「慈善箱じゃねぇな」
紙束を一枚つまむ。
「首輪入れだ」
サロンの端で、若い令嬢が息を呑んだ。
寄付箱の前で革袋を入れていた令嬢だった。
イレイナは彼女を見ない。
「善意の分は届ける」
硬貨の入った袋を机の上へ置く。
「脅しの分は返す」
誓約書の束を別に分ける。
「首輪は外す」
黒い紐のついた封筒を、袖の内へ滑らせた。
誰も止めなかった。
帳簿係は、隣の部屋で膝をついていた。
扉の前には、黒百合会の侍女が二人。
どちらも目を伏せている。
イレイナが部屋へ入ると、帳簿係はすぐに鍵束を差し出した。
「まだ何も聞いてねぇぞ」
「聞かれる前に出せと」
「誰に」
帳簿係はリリアナを見た。
リリアナは静かに立っていた。
イレイナは額を押さえた。
「お前、本当に」
リリアナは目を伏せたままだった。
「便利に使うな、それを」
鍵束が机に置かれる。
奥の棚が開いた。
イレイナは、黒い紐の封筒を見つけた。
左の棚。
下から三段目。
黒い紐。
封の端には、何度も開け閉めされた跡がある。
イレイナは、中を見なかった。
「これは本人に返す」
誰も答えない。
イレイナは自分の名札が差された封筒を取った。
イレイナ・ハングレイス。
黒い紙の端を、燭台の火に近づける。
封筒は、静かに燃えた。
古い名前が、黒く丸まっていく。
灰が落ちる。
リリアナが、小さな銀皿を差し出した。
「用意がいいな」
「灰を替えていましたので」
「そこで繋げるな」
黒い封筒は、銀皿の中で崩れた。
イレイナは灰を見下ろす。
「消えねぇんだろうな」
指で灰を潰す。
「でも、棚には置かせねぇ」
そこからは早かった。
侍女は、棚の奥にある写しの場所を教えた。
帳簿係は、金庫の鍵を出した。
金庫の中には、銀貨よりも人の名前が詰まっていた。
黒百合会から神殿へ流した名簿。
封筒の控え。
寄付誓約の写し。
茶会推薦の配分表。
その中に、聖女候補の名があった。
黒い紐の封筒は、ひとつずつ棚から抜かれた。
誰も、二度は聞かれなかった。
黒百合館の奥部屋で、ラヴィニア・クロウフォードは紅茶を飲んでいた。
机の上には、封蝋を押した告発状の控え。
神殿へ送ったものと同じ文面。
窓の外には、貴族街の衛兵がいるはずだった。
扉の向こうには、戻ってくる部下たちがいるはずだった。
金庫には、保険の証拠があるはずだった。
まだ、誰も戻ってこない。
ラヴィニアは扇を広げた。
「あははははは」
高い笑い声が、部屋に響く。
「少し帳簿を読めるからといって、黒百合会が崩れるとでも?」
紅茶の香りが、黒百合の香油に混ざる。
「聖女様には、身の程というものを教えて差し上げませんと」
その背後から、声がした。
「おい」
ラヴィニアの扇が止まる。
「御託は済んだか、お嬢様よぉ」
振り返る。
扉の前に、イレイナが立っていた。
白いヴェールはない。
金の髪が肩に落ちている。
白い手袋の指先には、黒いインクがついていた。
革靴の先には、黒百合館の土がついている。
その後ろに、リリアナが立っていた。
両手には、黒い封筒の束。
ラヴィニアの唇が、薄く開く。
「どうして」
声が、かすれた。
「どうして、ここに」
イレイナは、ゆっくり笑った。
「逃げ道を見てきた」
リリアナが、封筒の束を机の上へ置く。
黒百合の印が、ひとつ、またひとつと積まれていく。
イレイナは、ラヴィニアを見下ろした。
「全部、塞いできたけどな」




