第5話 人の傷に値札をつける女
黒百合館の壁は、白かった。
貴族街の端。
高い塀に囲まれた小さな館の庭には、季節外れの黒百合が咲いている。
夕方の光を受けても、その花だけはやけに暗い。
門の前で、イレイナは立ち止まった。
白いヴェール。
伏せた睫毛。
胸の前で重ねた白い手袋。
袖の内には、黒百合の封蝋を砕いた招待状が入っている。
門番が頭を下げた。
「ご招待状を」
イレイナは黒い封筒を差し出した。
門番は封蝋の跡を見ると、すぐに門を開いた。
「お待ちしておりました、聖女様」
「ありがとうございます」
声は、静かだった。
門の内側へ入ると、甘い匂いがした。
紅茶。
焼き菓子。
香油。
白い石畳の両側に、黒百合が並んでいる。
花壇の土は黒く湿っていた。
館の扉が開く。
中から現れた侍女が、深く頭を下げた。
「こちらへどうぞ」
磨かれた廊下の窓辺には、白い薄布が揺れていた。
どの花瓶にも、黒百合が挿してある。
侍女は、奥のサロンの扉を開いた。
中には、貴族令嬢たちが集まっていた。
淡い色のドレス。
細い手袋。
銀の匙。
寄付箱。
机の上には、救護院へ送るという白布と、孤児院へ届ける菓子の箱が並んでいる。
笑い声はある。
だが、誰も大きく笑ってはいなかった。
「聖女様ですわ」
誰かが小さく囁いた。
令嬢たちが一斉に立ち上がる。
イレイナは、静かに一礼した。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「まあ、こちらこそ」
「聖女様にお越しいただけるなんて」
「黒百合会も、いよいよ神殿に認められましたのね」
声は柔らかい。
指先は硬い。
寄付箱のそばに立つ若い令嬢は、革袋を握りしめていた。
袋は薄い。
彼女の隣に立つ別の令嬢が、微笑んだ。
「無理はなさらなくてよろしいのよ」
若い令嬢の肩が、わずかに震える。
「ただ、来月の王妃殿下主催のお茶会は、席数が限られておりますでしょう」
「……はい」
「ご紹介できる方にも、限りがありますもの」
若い令嬢は、革袋を寄付箱へ入れた。
硬貨の音は、ひどく軽かった。
周囲の令嬢たちは、見ていないふりをした。
イレイナは、何も言わなかった。
ただ、寄付箱の蓋を見た。
奥の扉が開く。
「ようこそ、聖女様」
ラヴィニア・クロウフォードが現れた。
柔らかく巻いた銀灰色の髪。
黒百合の髪飾り。
深い紫のドレス。
白い手袋。
扇の奥で、唇が笑っている。
令嬢たちは、わずかに背筋を伸ばした。
ラヴィニアは、その中央をゆっくり歩いてきた。
「黒百合会へお越しいただけて、光栄ですわ」
「お招きいただき、感謝いたします」
イレイナは、聖女の顔で微笑んだ。
「慈善に熱心な方々が集まる会と伺いました」
「ええ。皆さま、とてもお優しい方ばかりですの」
ラヴィニアは扇で口元を隠した。
「優しさにも、きちんと形が必要ですもの」
「形」
「寄付額。紹介状。家名。評判。救いも、道筋を整えなければ正しく届きませんわ」
イレイナは、寄付箱を見た。
先ほどの若い令嬢は、目を伏せたまま立っている。
「ずいぶん高ぇ道筋ですね」
サロンの空気が止まった。
ラヴィニアの目だけが、少し細くなる。
「まあ」
彼女は笑った。
「聖女様は、面白いことを仰いますのね」
イレイナは微笑んだままだった。
「言葉が乱れました。失礼いたしました」
「いいえ」
ラヴィニアは、楽しそうに首を傾けた。
「むしろ、安心いたしましたわ」
「安心?」
「聖女様は、祈りだけではなく帳簿もお得意でいらっしゃるとか」
令嬢たちの間に、小さなざわめきが走った。
イレイナは動かない。
「必要な時だけです」
「必要な時」
ラヴィニアは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「素敵な言い方ですわ」
扇が、ぱちりと閉じる。
「聖女様。よろしければ、寄付目録をご覧になりませんこと?」
「拝見しても?」
「もちろんですわ。神殿に関わる慈善ですもの」
ラヴィニアは奥の扉を示した。
「こちらへ」
イレイナは頷いた。
サロンを抜ける。
背後で、令嬢たちの声が小さく戻った。
若い令嬢だけが、寄付箱の前に立ったまま、革袋を入れた手を握りしめていた。
奥の部屋は、サロンより静かだった。
壁には黒百合の刺繍がかかった布。
丸い机。
紅茶。
焼き菓子。
香油。
それから、壁一面の棚。
棚には、黒い封筒が並んでいた。
まだ開いていないもの。
封を切られたもの。
紐で束ねられたもの。
小さな名札の差さったもの。
イレイナは、部屋の中央で足を止めた。
「寄付目録は」
「ええ、ございますわ」
ラヴィニアは机の上の帳面を軽く撫でた。
「表のものは、こちらに」
「表」
「あら。失礼」
ラヴィニアは笑った。
「慈善にも、いろいろな顔がございますから」
イレイナは棚を見た。
「ずいぶん多いですね」
「皆さま、預けていかれるのです」
「何を」
「過去を」
ラヴィニアは、白い手袋の指で、黒い封筒の背をなぞった。
「恋文。借金。誓約書。血判。家の恥。若気の至り。消したい名前」
扇が開く。
「そういったものは、きちんと保管して差し上げなくては」
「保管」
「ええ」
ラヴィニアは微笑んだ。
「正しい場所に置けば、過去にも価値が出ますもの」
イレイナは、黒い封筒の列を見た。
神官見習い。
侍女。
商家の娘。
没落令嬢。
聖女候補。
そして、少し離れた場所に新しい名札。
イレイナ・ハングレイス。
「これ、全部売り物か」
「必要な方に、必要な時に、お渡しするだけですわ」
「人の傷に値札貼って、茶でも飲んでたわけか」
「傷だなんて」
ラヴィニアは、くすりと笑った。
「価値ですわ」
イレイナは、棚へ歩いた。
手袋の指が、聖女候補と書かれた封筒の前で止まる。
封の端には、何度も開け閉めされた跡があった。
黒い紐は擦り切れている。
名札の文字は、途中で少しだけ滲んでいた。
「聖女候補まであるのか」
「清ければ清いほど、染みは目立ちますもの」
ラヴィニアの声は甘かった。
「神殿も、存外こういうものをお求めになりますのよ」
イレイナは封筒を抜かなかった。
白い手袋の指先が、名札の端に触れただけだった。
それだけで、紙がかすかに鳴る。
「中身は」
「聖女様がお望みでしたら」
「聞いてねぇ」
イレイナは振り返った。
「誰が買った」
ラヴィニアの扇が、唇の下で止まる。
「まあ」
「神殿の誰が買った」
「怖いお顔」
「答えろよ」
「聖女様」
ラヴィニアはゆっくり首を振った。
「ここは黒百合会です。神殿の会計室ではございませんわ」
イレイナは黙った。
「それに、過去を欲しがる方は一人ではありません。ご本人。ご家族。婚約者。神官。敵。味方」
扇の先が、自分の封筒を指す。
「欲しがる手は、たいてい複数ございますの」
「便利な言葉だな」
「便利なものほど、よく使われますわ」
ラヴィニアは机の前に戻り、紅茶のカップを持ち上げた。
「人を動かすのは、祈りではありません」
紅茶の水面が、小さく揺れる。
「金です」
イレイナの目が細くなった。
「言い切るな」
「あら。違います?」
ラヴィニアは、カップを置いた。
「慈善を掲げる者も、招待状が欲しければ寄付箱へ手を入れる。神に誓う者も、銀貨を積めば誓いを曲げる」
扇の陰で、唇が笑う。
「そして聖女様も、過去を握られれば少しはお静かになるかもしれませんもの」
イレイナは、自分の名札を見た。
イレイナ・ハングレイス。
白い棚の影に、黒い文字が沈んでいる。
「試してみるか?」
「もう試しておりますわ」
ラヴィニアは楽しそうだった。
「本日、聖女様はお一人でいらして、丁寧に門をくぐられた。門番も、侍女も、サロンの令嬢方も見ています」
「それで」
「ここで私に何かあれば、黒百合会へ乱暴を働いた聖女様のお噂が先に立つ」
ラヴィニアは棚へ視線を向ける。
「あなたの過去は、もう写してありますの。封書も、今ごろは館を出ておりますわ」
ラヴィニアは、窓の外へ視線を流した。
「貴族街の衛兵にも、話は通してあります。黒百合会の客人に何かあれば、すぐに駆けつけてくださいますわ」
イレイナは動かない。
「少し評判の荒い聖女様には、窮屈な場所でしょう?」
「荒い」
「ええ。会計司祭を神前で辱めたとか。身につけていたものを剥いだとか。印章を割ったとか」
「事実だな」
「認めてしまわれるのね」
「曲げるほどのもんじゃねぇ」
ラヴィニアは、一瞬だけ目を見開いた。
すぐに笑う。
「やはり、面白い方」
「てめぇはつまんねぇよ」
サロンの方で、誰かが笑う声がした。
薄い扉一枚の向こう。
ここだけが、甘い匂いと黒い棚に閉じている。
ラヴィニアは、イレイナの名札を指でなぞった。
「聖女様にも、よい値がつきますわよ」
「いらねぇよ」
「あら」
「あたしの値段なんざ、てめぇに決められてたまるか」
ラヴィニアの笑みが、少し深くなった。
「では、ご自分でお決めになります?」
「値札をつける気がねぇんだよ」
「無償ですの?」
「違ぇ」
イレイナは、聖女候補の封筒を見た。
封の端は、何度も開けられている。
「値段をつけるもんじゃねぇって話だ」
「綺麗事ですわ」
「だろうな」
イレイナは認めた。
ラヴィニアの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「けどな」
イレイナは棚から手を離した。
「綺麗事を食い物にする奴は、もっと汚ぇ」
部屋の空気が止まった。
ラヴィニアは扇を閉じた。
ぱちん、と乾いた音が響く。
「聖女様」
声から、少しだけ甘さが消えた。
「お帰りになった方がよろしいですわ」
「そうか」
「ええ。今なら、まだ客人として扱って差し上げます」
ラヴィニアは微笑む。
「ご自分の過去だけなら、まだお買い戻しいただくこともできますもの」
イレイナは短く笑った。
「買い戻す?」
「もちろん。黒百合会は、価値あるものを粗末にはいたしません」
白い手袋の指が、自分の封筒を軽く叩く。
「あなたの過去も、聖女様の名も、きちんと保管して差し上げますわ」
イレイナは、一歩下がった。
ラヴィニアは勝った顔をした。
「逃げますの?」
「ああ」
「まあ」
扇が口元へ戻る。
「賢明ですわね」
イレイナは扉へ向かった。
取っ手に手をかける。
そこで一度だけ、振り返った。
「勘違いすんなよ」
白いヴェールの奥で、口元だけが吊り上がる。
「逃げ道を見てくるだけだ」
ラヴィニアの笑みが、ほんの少し止まった。
扉が閉まる。
黒百合の棚に、細い影が落ちた。




