第4話 過去には値札がつく
「過去ってのは、埋めても腐らねぇもんだな」
神殿の奥にある小部屋で、イレイナ・ハングレイスは黒い封筒を指で弾いた。
窓は細い。
差し込む西日は薄く、机の上に置かれた白いヴェールだけが、やけに明るく見えている。
その横に、黒い封筒が一通。
封蝋には、黒百合の印が押されていた。
「どれだけ土をかぶせても、こうして芽が出る」
頭の奥で、神の声がした。
『掘り返される場所に埋めるからだ』
「うるせぇよ」
イレイナは封筒を裏返した。
宛名は丁寧な筆跡で書かれている。
聖女イレイナ・ハングレイス様。
下に、小さく一行。
過去には、正しい保管場所が必要ですもの。
「趣味わりぃ」
封蝋を爪で割る。
中には、薄い紙が数枚入っていた。
一枚目。
今の神殿では、誰も呼ばない名。
二枚目。
酒場裏。
路地。
折れた木札。
血のついた石畳。
三枚目。
煤けた祭壇布。
偽りの神託。
神の声。
イレイナの指が、そこで止まった。
小部屋の外では、見習い神官たちの足音が通り過ぎていく。
誰もこの扉には近づかない。
会計司祭バルド・レインが失脚してから、神殿の中でイレイナへ軽々しく声をかける者は減った。
以前は、聖女様はただ祈ってくださればよい、と誰もが言った。
今は、目を逸らす。
白いヴェールの下に何があるか、見た者ほど黙るようになった。
「よく拾ったな」
最後の紙をつまむ。
それは招待状だった。
貴族令嬢たちによる慈善会。
孤児院支援。
救護院への寄付。
神殿との協力。
文章は、どこまでも美しかった。
黒百合会主宰。
ラヴィニア・クロウフォード。
「黒百合会ねぇ」
イレイナは招待状の端を指で弾いた。
「嫌な商売の匂いがする」
机の横で、小さな音がした。
リリアナが立っていた。
白い見習い服の袖に、灰の跡がついている。両手には、薄い紙束を抱えていた。
「お呼びでしょうか」
「まだ呼んでねぇ」
「では、来ました」
「お前もだいぶ図太くなったな」
リリアナは少しだけ頭を下げた。
イレイナは封筒を指で押さえる。
「黒百合会」
「調べました」
「早ぇな」
「黒い封筒が届いたので」
リリアナは机の端に紙束を置いた。
「表向きは、貴族令嬢たちの慈善会です。救護院、孤児院、貧民区への寄付を集めています」
「表向きは」
「はい」
次の紙が置かれる。
「紹介状。寄付名簿。招待状。縁談の口添え」
「裏は」
「手紙と弱みを預かると」
イレイナは鼻で笑った。
「保管、ってやつか」
リリアナは顔を上げない。
「令嬢方の名前がいくつもありました。神官見習い。商家の娘。侍女。没落貴族の子女」
「聖女候補は」
リリアナの指が止まる。
「……ありました」
「そうか」
イレイナは椅子から立ち上がった。
白いヴェールを手に取る。
黒い封筒の上に、ひらりと影が落ちた。
「招待は」
「明後日の夕刻。黒百合館です」
「館まであるのかよ」
「貴族街の端に。白い壁の、小さな館です」
「黒百合なのに白い壁か」
イレイナは鼻で笑った。
「植えた奴の趣味が悪ぃな」
リリアナは、わずかに目を上げた。
「イレイナ様」
「あ?」
「行かれるのですか」
「慈善会なんだろ」
イレイナは白いヴェールを被った。
金の髪が隠れる。
伏せた睫毛の下で、表情が静かになっていく。
「聖女が挨拶に行かねぇわけにはいかねぇな」
「……はい」
「お前は」
リリアナの肩が少しだけ動いた。
「黒百合館には近づくな」
「ですが」
「灰を替えてろ」
「はい」
「返事が遅ぇ」
「はい」
イレイナは封筒を袖の内へ滑らせた。
「人の過去を売りに来た相手に、挨拶だけで済むと思ってんのか」
リリアナは答えなかった。
ただ、机の上の紙を静かにまとめた。
扉が叩かれた。
年嵩の神官が、外から声をかける。
「聖女様。少々よろしいでしょうか」
イレイナは、すでに穏やかな顔をしていた。
「どうぞ」
扉が開く。
神官は部屋の中へ入り、リリアナを一瞥した。
リリアナは紙束を抱えて壁際へ下がる。
「黒百合会より、招待が届いたと伺いました」
「ええ」
「慈善に熱心な貴族令嬢方の会ではございますが、関わる家も多く、社交の色も濃い。軽々にお出ましになられては」
「孤児院支援にも関わる会と伺いました」
「それは、そうですが」
「であれば、聖女としてご挨拶を」
神官の口が止まった。
以前なら、会計のことは我々に、と言えた。
今は言えない。
バルド・レインの印章は、すでに二つに割れている。
「ですが、聖女様。貴族家の令嬢方は、言葉の扱いが難しい。些細なことが噂となり、神殿の評判に関わることも」
「ご心配には及びません」
イレイナは微笑んだ。
「祈りの言葉には、慣れておりますので」
神官は、深く頭を下げた。
「くれぐれも、穏便に」
「はい」
イレイナは、やわらかく頷いた。
「主の御心のままに」
神官は何か言いたげに口を開きかけ、やめた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
イレイナは、しばらくそのまま微笑んでいた。
完全に足音が消えてから、口元だけで笑う。
「穏便に、だとよ」
リリアナが、小さく息を吐いた。
「何か」
「何でもねぇよ」
「最初の挨拶まではな」
イレイナは黒い封筒を袖の上から押さえた。
「明後日までに、黒百合会の出入りを拾え。門番、配達人、馬車、茶葉の納入先」
「はい」
「人の封筒には触るな」
「はい」
「開けるな。読むな。欲張るな」
「はい」
リリアナは、ひとつずつ頷いた。
「それと」
「はい」
「聖女候補の名前があったって言ったな」
「はい」
「その子、生きてるかだけ拾え」
リリアナの指が、紙束を抱え直した。
「畏まりました」
「奥まで行くなよ」
「はい」
「顔だけ拾え」
「はい」
「戻れ」
「はい」
リリアナは音もなく下がった。
扉の前で一度だけ振り返る。
イレイナは、もう見ていなかった。
机の上に置かれた招待状を眺めている。
黒百合の封蝋。
整った文字。
過去には、正しい保管場所が必要ですもの。
イレイナは、それを指先で潰した。
割れた黒百合の封蝋を見下ろす。
「人の過去ってのは、本人のもんだろ」
黒い百合の印が、机の上で割れている。
「人の傷を棚に並べる奴は、嫌いだ」
夜。
貴族街の端にある館では、燭台に火が入っていた。
白い壁に囲まれた小さな館。
庭の黒百合は、灯りを吸ったように沈んでいる。
館の奥。
香油と紅茶の匂いが満ちる部屋で、ラヴィニア・クロウフォードは一通の封筒を眺めていた。
柔らかく巻いた銀灰色の髪。
黒百合の髪飾り。
深い紫のドレス。
白い手袋の指が、封筒の端をなぞる。
棚には、同じ形の黒い封筒がいくつも並んでいた。
神官見習い。
侍女。
商家の娘。
没落令嬢。
聖女候補。
白い手袋の指が、新しい封筒を棚の隙間へ差し込む。
その隣に、新しい名札が差し込まれる。
イレイナ・ハングレイス。
ラヴィニアは、扇で口元を隠した。
「聖女様にも、よい値がつきますわ」
燭台の火が揺れた。
黒百合の影が、白い壁に長く伸びていた。
第一章
12話まで執筆済みです。
是非続きもお楽しみください。
毎日19時頃更新していきます!!




