第3話 神は赦しても、私は赦しません
聖堂には、夕方の光が差していた。
高い窓から射し込む赤みを帯びた光が、白い石床に長く落ちている。銀の燭台には火が入り、祭壇には白百合と清水が供えられていた。
その前に、イレイナは立っていた。
白いヴェール。伏せられた睫毛。祈りの形に重ねられた両手。
聖堂に集まった神官たちは、自然と声を潜めていた。
会計司祭バルド・レインも、その中にいた。
白い法衣を着込み、腹の前で手を組んでいる。太い金鎖が、呼吸のたびに法衣の上で鈍く揺れた。指には青い宝石の指輪。腰には鍵束。胸元には、会計司祭の印章が吊られている。
いつもより、少しだけ飾りが多い。
「本日は、孤児院支援への感謝祈祷と伺っております」
バルドは、満足げに微笑んだ。
「聖女様にも、ようやくお分かりいただけたようで何よりです。毛布、薬、食糧、薪。そういったものは、我々が滞りなく整えております。聖女様は、ただ祈ってくださればよい」
イレイナは目を伏せたまま、微笑んだ。
「ええ」
「孤児院の者たちも、聖女様のお祈りに感謝しておりましょう」
「そうですね」
イレイナは、祭壇の前から動かなかった。
「では、皆様にもお入りいただきましょう」
聖堂の扉が、ゆっくりと開いた。
入ってきたのは、老修道女だった。
黒い修道服の裾を両手で押さえ、深く頭を下げる。その後ろに、若い修道女が続いた。腕の中には、痩せた子どもが一人。薄い布にくるまれ、小さく咳をしている。
さらにその後ろから、リリアナが入ってきた。
白い見習い服の袖に、煤の跡が残っている。両手で薄い書類の束を抱え、誰とも目を合わせないまま祭壇脇へ歩いた。
バルドの笑みが、ほんの少し止まった。
「……これは?」
「感謝は、多い方がよいでしょう?」
イレイナは穏やかに言った。
老修道女は震える手で胸元のロザリオを握り、深く頭を下げた。
「聖女様。このたびは、お心をお寄せくださり――」
言葉が、そこで止まった。
若い修道女の腕の中で、子どもが咳をした。
乾いた音だった。
イレイナは頷いた。
「では、確認いたしましょう」
リリアナが、祭壇脇の机に書類を置いた。
薄い木片が一枚。
黒い燕の印。
十二。
南門。
その横に、入出庫控えの写しが置かれる。
さらに、小さな木箱。
蓋は開いていた。
色の薄い丸瓶が九本。
奥の藁には、細首の瓶だけが三本分、空いている。
木箱の札には、細い字で「熱冷まし」とあった。
バルドの喉が鳴った。
「孤児院へ送る熱冷ましの薬瓶。寄付目録では十二本」
イレイナの声は柔らかかった。
「倉庫に残っていたのは九本」
リリアナが、もう一枚の紙を置く。
南門の通行控え。
会計司祭のお使い。
黒燕。
「南門へ出た荷車には、木箱がひとつ」
イレイナは顔を上げた。
「十二。南門。黒燕」
リリアナが、さらに白布で包まれた束をひとつ置いた。
「毛布。寄付目録では三十枚」
イレイナは布の端を指で押さえた。
「孤児院に届いたのは、二十四枚」
次に、小麦の控え。
「小麦袋。八つ」
老修道女が、小さく首を振った。
控えには、バルドの印が押されていた。
バルドは一歩、下がった。
「聖女様。これは、何かの誤解です」
「誤解」
「ええ。薬瓶は一時保管です。必要な場所へ、必要な時に回すための調整でして」
子どもがまた咳をした。
若い修道女が、その背をさする。
木箱の藁は、三本分だけ沈んだままだった。
「孤児院とは、常に不足を訴えるものです」
バルドは老修道女を見た。
「与えれば与えただけ、次を求める。神殿の財は、広く配分せねばなりません。聖女様も、どうか俗な感情に流されず――」
「その差配で」
イレイナは、木箱の空いた藁を指でなぞった。
「この穴が三つ、空いたままになった」
若い修道女の腕の中で、子どもがまた咳をした。
乾いた音が、白い聖堂に短く跳ねる。
バルドの目が、祭壇の神像へ泳ぐ。
「聖女様」
彼は膝をついた。
法衣の裾が、白い石床に広がる。
「どうか、慈悲を。私にも、至らぬ点はございました。ですが、悔いております。ええ、今は深く悔いておりますとも」
青い宝石の指輪が、赤い光を拾った。
「主は、悔い改める者をお赦しになります」
イレイナは、静かにバルドを見下ろした。
「主はお赦しになります」
バルドの顔が、ぱっと明るくなった。
「おお……やはり、聖女様は」
イレイナは祭壇の前を降りた。
膝をつくバルドの前で、ゆっくりとしゃがむ。
白い手袋の指が、バルドの手を取った。
「よくぞ、自らの罪をお認めになりました」
「え、ええ。もちろんですとも。私は神に仕える身。悔い改める心は、常に――」
イレイナの指が、バルドの指輪に触れた。
「立派です、司祭様」
ばさり。
白いヴェールが、石床に落ちた。
金の髪が、差し込む夕日にほどける。
窓から伸びた赤い光が、落ちたヴェールの白を染めた。
伏せられていた睫毛が上がった。
口元には、もう聖女の笑みはない。
「でも」
イレイナは、バルドの手を握ったまま笑った。
「私は赦しません」
青い宝石の指輪が、抜けた。
乾いた音を立てて、祭壇の階段へ転がる。
「なっ……!」
「薬代」
イレイナは立ち上がった。
次に、バルドの首元へ手を伸ばす。
太い金鎖を引き抜く。
「や、やめなさい! それは司祭の」
「利子」
金鎖が、指輪の横へ落ちる。
重い音がした。
イレイナは腰の鍵束を奪った。
鍵が、じゃらりと鳴る。
「それは神殿の管理に必要な」
最後に、胸元の印章。
バルドの手が、印章を押さえた。
「これは会計司祭の権限だ! 聖女ごときが触れてよいものではない!」
「ごとき」
イレイナは短く笑った。
「いい響きだな」
白い手袋の指が、印章の紐をつかむ。
「祈るだけの聖女ごときに、薬三本で首まで持ってかれる気分はどうだ」
紐が切れた。
印章が、イレイナの手の中に落ちる。
バルドの顔が歪んだ。
「返せ! それがなければ、私は」
「困るな」
イレイナは印章を祭壇の階段へ置いた。
「なら、良かった」
指輪。
金鎖。
鍵束。
印章。
ひとつずつ、祭壇の前に並ぶ。
供物のように。
バルドは這うように手を伸ばした。
その指先の前に、イレイナの靴が置かれる。
「会計司祭バルド・レイン」
イレイナは見下ろした。
「帳簿を出せ」
「……何を」
「倉庫。会計室。南門へ出した控え」
イレイナは鍵束を鳴らした。
「抜いた分がどこへ消えたか、紙ごと吐け」
バルドの喉がひきつる。
「そんなことをすれば」
「泣けよ」
バルドの口が止まる。
イレイナは祭壇の神像を見上げた。
「主に届くようにな」
赤みを帯びた光の中で、神像は何も答えなかった。
老修道女のロザリオが、小さく鳴る。
若い修道女の腕の中で、子どもが咳をした。
イレイナは木箱から細首の瓶を一本取った。
老修道女へ差し出す。
「今、飲ませろ」
老修道女は、震える手で受け取った。
栓が抜かれる。
薬の匂いが、白百合の香りに混ざった。
バルドは床に座り込んだまま、祭壇の階段に並べられた自分のものを見ていた。
「聖女様……」
バルドの声は掠れていた。
「私は、私は悔いております。本当に。どうか、慈悲を」
イレイナは振り返った。
「慈悲なら、さっき貰っただろ」
「え」
「神からな」
イレイナは、床に落ちたヴェールを拾った。
白い布を軽く払う。
「こっから先は」
ヴェールを肩にかけ直す。
「取り立てだ」
その日のうちに、神殿の会計室は封じられた。
表の帳簿を収めた棚の奥から、もう一冊、薄い帳面が出た。
頁には、黒燕、南門、熱冷まし三本の字が何度も並んでいた。
鍵のかかった小箱には、偽金の混ざった革袋が二つ。
リリアナは荷札と控えを机に並べ、イレイナは白い手袋を外した。
「足りるか」
「足ります」
イレイナは机を二度叩いた。
「印章は」
「はい」
小さな音がした。
会計司祭の印章が、石の上で二つに割れた。
翌朝。
孤児院に、荷馬車が二台届いた。
薬箱。
毛布。
小麦袋。
まだ新しい木箱の中で、細首の薬瓶が揺れている。
子どもたちは歓声を上げた。
老修道女は、荷馬車の前で何度も頭を下げた。
イレイナは白いヴェールを被り直し、いつもの穏やかな顔で立っていた。
「聖女様、本当に、何とお礼を申し上げれば」
「主の恵みです」
老修道女は泣いた。
若い修道女の腕の中で、昨日の子どもが目を覚ましていた。まだ頬は赤い。だが、咳は少しだけ浅くなっている。
小さな子どもが、イレイナの袖を引いた。
「お祈りしたら、また薬、来る?」
イレイナは、少しだけ黙った。
それから、しゃがみ込む。
子どもの目と、自分の目を合わせた。
イレイナは、その小さな額を指先で軽く押した。
「祈っとけ」
子どもは、目をぱちぱちさせた。
イレイナは、にっと笑う。
「あたしはちゃんと聞いてるからよ」
ここまでご覧いただきありがとございます。
短編で執筆していたシリーズを連載化しました。
1章の内の第一部と言った立ち位置です。
短編では、できなかった物語の連続性を使ったドラマを作っていけたらなと思っております。
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