第2話 帳簿は祈らない
昼の鐘が、神殿の石壁を浅く震わせた。
回廊には、白い光が落ちている。
イレイナは、その光の中を静かに歩いていた。
白いヴェールは今日も乱れなく、金の髪は一筋も外へ出ていない。白い手袋の指先は、胸の前で静かに重なっている。
倉庫棟へ続く扉の前で、年嵩の神官が頭を下げる。
「このような場所まで御足労いただかずとも」
イレイナは穏やかに微笑んだ。
「孤児院へ送る品なのでしょう」
「では、出る前に祝福をしておきたく思います」
神官の指が、袖口を一度つまんだ。
「……もちろんでございます」
奥から、倉庫番が慌てて鍵束を持ってきた。
錆びた音が、廊下に小さく散る。
イレイナは、その鍵束を見た。
一箇所だけ新しい擦れ跡があった。
そこだけ、鍵が一本抜けたように空いている。
「倉庫の鍵は、一つではないのですね」
神官が咳払いをした。
「予備を作ることは、珍しくはございません」
「そうですか」
イレイナはそれ以上、問わなかった。
扉が開く。
乾いた木と、古い布と、防虫香の匂いが流れ出た。
高い棚に木箱が積まれ、縄で縛られた荷が壁際に寄せられている。小窓から入る薄い光が、床に四角く落ちていた。
イレイナは中へ足を踏み入れた。
「薬瓶を見せていただけますか」
「はい、こちらに」
木箱が運ばれてくる。
蓋を開けると、藁の匂いが立った。
瓶は九本。
空いた窪みが三つ、藁の中に綺麗に残っている。
残っているのは、色の薄い丸瓶ばかりだった。
奥の藁には、細首の瓶だけが三本分、きれいに抜けている。
木箱の札には、細い字で「熱冷まし」とあった。
イレイナは、その一つへ指を入れた。
底の藁が、まだ押し潰れたままだった。
「ここ、まだ沈んでいますね」
倉庫番の喉が鳴る。
「運搬の途中で、破損したかと」
「では、ガラス片はどちらに?」
「……回収したのでは」
「どなたが?」
答えが止まる。
イレイナは顔を上げた。
口元には、先ほどと同じ笑みがあった。
「破損は危険ですもの。記録が必要でしょう」
「倉庫番を問い詰めるようなことは」
「問い詰めてはおりません」
イレイナは薬瓶の木箱を見下ろしたまま言った。
「祝福の前に、抜けた場所を知りたいだけです」
白い手袋の指先で、空いた窪みをひとつ、軽くなぞる。
「ここは、祈れば埋まるのでしょうか」
神官の指が、袖口で止まった。
代わりに、倉庫番が机の脇へ視線を落とした。
そこに、小さな荷札が一枚落ちていた。
藁に半ば埋もれた薄板。
イレイナはしゃがみ込み、それを拾った。
黒い燕の印。
その下に、走り書きの数字。
十二。
さらに細い字で、南門。
「これは」
倉庫番の唇から、色が抜けた。
「それは古い荷札で」
神官は口を開きかけた。
イレイナは、荷札を手にしたまま微笑んでいる。
「祝福した品の控えに、こちらもいただいておきます」
「……古いものですので」
「ありがとうございます」
イレイナはそれを袖の内へ滑らせた。
その後、澄んだ声で短い祈りを捧げる。
病の熱が少しでも下がるように。
苦しむ子の喉に、薬が届くように。
空いた場所が、空いたままで終わらぬように。
祈りの言葉は澄んでいた。
倉庫番は、開いたままの木箱の蓋に手を置いたまま、閉めるのを忘れていた。
「祝福は終わりました」
イレイナは静かに一礼した。
「礼状のため、入出庫の控えも後ほどお借りしたく思います」
神官の口元が引きつる。
「会計の書類は、後日こちらで整えて」
「薬瓶の入出庫だけで結構です」
「……確認しておきます」
「よろしくお願いいたします」
回廊に戻るまで、イレイナは一度も振り返らなかった。
扉が閉まる。
イレイナは一人で回廊を進んだ。
角を二つ曲がり、祈祷室の裏手へ入る。
洗い場の脇には、小さな影が立っていた。
リリアナだった。
見習い服の袖に、煤の跡がついている。
「戻ったか」
「はい」
イレイナはそこでようやく息を吐いた。
「南門は」
「昨夜、荷車が一台」
「孤児院とは逆へ出ました」
「何が積んであった」
「布の包みが三つ。木箱がひとつ」
「門番は」
「会計司祭のお使いだと」
「顔は」
「若い男が二人。片方は右の親指に青い染み」
イレイナは、袖の内で荷札の端を押さえた。
「墨か」
「たぶん」
「運び屋じゃなく、帳面の写し手かもしれねぇな」
リリアナは黙って頷いた。
回廊の端に、光が細く落ちている。
イレイナはその中へ一歩だけ入り、袖の内から荷札を出した。
黒い燕の印。
十二。
南門。
白い手袋の上で、薄板が小さく鳴る。
「その青い指のやつ、見つけられるか」
「門の外までは」
リリアナは一度言葉を切った。
「追えませんでした」
「それでいい」
イレイナは荷札を握り込んだ。
「顔だけ拾え」
「はい」
「荷には触るな」
「はい」
「追うな。戻れ」
「畏まりました」
リリアナは音もなく下がり、洗い場の奥へ消えた。
イレイナは一人残り、礼拝室へ戻るふりをして、会計室の前を通った。
扉は閉じている。
下の隙間から、紙の擦れる音がした。
昼の時間に。
誰かが中で、まだ何かを書いている。
イレイナは立ち止まらない。
伏せた睫毛のまま、静かな顔で通り過ぎる。
「帳簿は祈らない」
扉の向こうで、紙の音が止まった。
「手だけは動く」
彼女はそのまま聖堂の奥へ消える。
袖の内で、黒い燕の荷札が薄く鳴った。




