第1話 聖女様、ヴェールを脱ぐ
聖堂は、朝の光に満ちていた。
高い窓から差し込む白い光が、石床に長く伸びている。銀の燭台には夜明けの火が残り、祭壇には白百合と清水が供えられていた。
その前に、イレイナ・ハングレイスは立っていた。
白いヴェール。伏せられた睫毛。祈りの形に重ねられた両手。
白い手袋の指先は乱れなく揃っている。
「孤児院へ送る毛布の件ですが」
会計司祭バルド・レインが、書板を胸の前で抱え直した。
丸い腹。短く整えた髭。頭頂部の薄い髪に、窓からの光が白く乗っている。
「今月は二十四枚を手配しております」
イレイナは目を開けた。
「二十四枚、ですか」
「ええ。冬前にはまだ間がございますので、まずは必要な分から」
「先月の寄付目録では、三十枚と伺っておりました」
バルドの笑みが、一拍だけ遅れた。
「輸送と保管の都合がありましてな。傷みのあるものもございました。使えぬ品を孤児院へ送るわけにはまいりません」
「では、使えなかった六枚は修繕へ?」
「ええ、まあ、そのように」
「修繕費は、どちらの項目に?」
バルドの指が、書板の縁に食い込んだ。
隣の神官が、柔らかく咳払いをする。
「聖女様」
年嵩の神官だった。白い法衣の袖を整えながら、穏やかに微笑む。
「会計の細かなところは、我々にお任せください。聖女様の御目を、俗事で煩わせるわけにはまいりません」
「ですが、孤児院へ届くものですから」
「聖女様は、子らの声を主へお届けください」
イレイナは、ゆっくりと瞬きをした。
「……承りました」
聖堂の隅で、小間使いの少女が香炉の灰を替えていた。
白い見習い服を着たリリアナは、床に落ちた煤を布で拭き、何も聞こえていないような顔をしている。
バルドが書板をめくる。
「薬瓶についても、薬草商より九本届いております」
「九本」
「十二本ではありませんでしたか」
「薬草の値が上がっておりますゆえ」
「では、差額は」
「次月分へ回します」
別の司祭が、指を組んだ。
「病の子らには、祈りこそが第一かと」
イレイナは胸の前で手を重ね直した。
「そうですね。では、倉庫の鍵は今どなたが?」
司祭の指先が止まった。
バルドが先に口を開く。
「現在は私が預かっております」
「寄付者への礼状には、毛布の枚数も記しておきましょう」
書板を押さえる手に、わずかに力が入った。
「そのあたりも含め、こちらで整えておきます」
「孤児院の子が増えたと聞きました」
「ええ。ですからこそ、滞りなく進めております」
書板が閉じられる。
「聖女様は、どうか清らかな祈りを」
イレイナは微笑んだ。
「皆様のお働きに、感謝いたします」
やがて、老司祭が立ち上がった。
「では、本日の確認はここまでにいたしましょう」
バルドが革袋を机に置く。
「今月の寄付金でございます。孤児院への分は、こちらで手配いたしますので」
「ありがとうございます」
「聖女様は、ただ祈ってくださればよいのです」
白い法衣が、聖堂の扉へ向かって流れていく。靴音が石床に響き、朝の冷たい空気が一瞬だけ入り込んだ。
扉が閉まる。
足音が遠ざかった。
イレイナは祭壇の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと両手を下ろす。
白い手袋の指が、ヴェールの端をつまんだ。
金の髪が、朝の光にほどける。
イレイナは外したヴェールを机の上に放り、首を鳴らした。
「あー、かったりぃ」
声が、聖堂の天井へ投げ捨てられた。
「ただ祈ってくださればよい、だとよ」
銀糸の刺繍の入ったヴェールが、机の端で崩れる。
「祈って毛布が増えるなら、てめぇら全員いらねぇんだよ」
祭壇の奥にある神像は、穏やかな顔で両手を広げている。
イレイナはそれを見上げた。
「神の力はたかが知れてるな?」
返事はない。
「ちっ。都合悪くなったらだんまりかよ」
祭壇脇の机に歩み寄る。
上には寄付目録と封筒がいくつか。バルドが置いていった革袋もある。
袋の口を開ける。
金貨が数枚。銀貨が十数枚。
その中から金貨を一枚つまみ上げ、指先で弾く。
鈍い音がした。
「……あいつ、やってやがるな」
親指で縁をなぞる。角の立ち方が甘い。
金貨を親指と人差し指で挟み、白い手袋越しに力をかける。
硬貨の縁が、わずかに歪む。
もう一度、軽く弾いた。
「やっぱりか」
落ちた音は、やはり濁っていた。
「混ぜもんか。いや、偽造だな」
金貨を懐へ入れる。
次に、机の端に置かれていた一枚の紙を取った。
端には、何度も握られた跡がある。
イレイナは紙を開いた。
拙い字が並んでいた。
寒いです。
毛布がたりません。
イレイナさま、神さまにおねがいしてください。
最後の文字だけ、滲んでいた。
イレイナは、紙を見下ろした。
紙を畳む。
先ほどより、丁寧に。
「……好き放題やってんな。こいつ」
ぱん、ぱん。
乾いた音が、聖堂に響いた。
柱影から、白い見習い服の少女が静かに現れる。
リリアナだった。
イレイナの前で膝を折る。
「お呼びでしょうか」
「呼んだ」
懐の上から、歪んだ金貨を指で押さえる。
「あのハゲが、どこに財産ため込んでるのか調べてこい」
「畏まりました」
「奥まで入るな。戸口、鍵、出入りの顔。それだけでいい」
「はい」
「バレたら泣け。香炉の灰をこぼしたって言え」
「はい」
「欲張んなよ」
リリアナの睫毛が、わずかに上がった。
イレイナは眉を寄せる。
「何だよ」
「いえ」
リリアナは頭を下げた。
「行ってまいります」
白い見習い服が柱影へ戻る。
次にそこを見た時には、もう誰もいなかった。
イレイナは机の上の寄付目録を開いた。
毛布、三十枚。
薬瓶、十二本。
小麦、八袋。
綺麗な字で記されている。
その隣に、バルドの署名があった。
イレイナは指先で署名を弾いた。
「祈りは任せた」
神像は答えない。
イレイナはヴェールを拾い上げた。
丸めた跡を、指で軽く伸ばす。
白い布が、また金の髪の上に戻る。
祭壇の前に立つ。
伏せた睫毛。重ねた手。静かな横顔。
机の引き出しに紙をしまい、懐の金貨を指先で押さえる。
イレイナは、祈りの形を整えたまま、小さく笑った。
「取り立ては、あたしがやる」




