第42章 ④
話は終わったと思った。
ニコは戻らない。
名前も要らない。
役人も記録した。
終わり。
そう思った。
でも伯爵は違ったらしい。
「分かった」
伯爵が言った。
全員が見る。
「今すぐ屋敷へ戻ることを望まないのであれば、それは認めよう」
何か引っ掛かった。
今すぐ?
「ただし、グライナー家の血を引く者としての権利まで捨てる必要はない」
ニコが伯爵を見る。
「権利?」
「そうだ」
伯爵は少し落ち着いていた。
さっきまでより話しやすそうな顔になっている。
別の方法を見つけたらしい。
「学園の費用は今後、グライナー家が負担する」
ニコが黙る。
「卒業後の進路についても、こちらで用意できる。王都へ進むなら推薦も出そう。必要ならば家庭教師も付ける」
すごい。
色々出てきた。
「成人後には、家に相応しい地位も用意できる」
伯爵夫人が伯爵を見る。
オットーは黙っている。
妻も何も言わなかった。
伯爵だけが続ける。
「お前ほどの成績なら、領内に留めておく必要もない。王都で学ぶ道もある。中央の役所へ入ることもできるだろう」
ニコは聞いている。
「グライナーの名があれば、その道はさらに広がる」
なるほどいい話らしい。
「それは」
ニコが聞いた。
「僕が首席だからですか?」
伯爵が止まった。
またそこだった。
昨日も聞いた。
「それだけではない」
伯爵が答える。
「お前がグライナー家の血を引いているからだ」
「弟もですよね」
部屋が静かになった。
弟。
ニコには弟がいる。
伯爵家で育った弟。
「もちろんだ」
「弟にも同じものがありますか?」
伯爵は少し考えた。
「立場が違う」
「何が?」
「お前にはお前に相応しい道があるということだ」
分からなかった。
ニコも分からなかったらしい。
「首席だから?」
伯爵の眉が動いた。
「能力のある者に、それに相応しい環境を与えるのは当然だ」
答えた。
ニコが少しだけ頷いた。
「やっぱり」
小さな声だった。
オットーの妻がニコを見る。
「違うの」
初めて口を開いた。
「あなたが優秀だからだけじゃないわ」
ニコは母親を見る。
「では、僕が首席じゃなくても同じでしたか?」
妻の口が止まる。
昨日と同じ質問だった。
答えは出なかった。
伯爵が代わりに言う。
「仮定の話に意味はない」
「あります」
ニコが言った。
珍しく早かった。
「僕にはあります」
伯爵が黙る。
「僕が学校で一番になったから見つけた」
「偶然だ」
「はい」
ニコは頷く。
「見つけたのは偶然です」
それから続けた。
「でも、僕が一番じゃなかったら、調べましたか?」
誰も答えない。
ニコは待った。
伯爵を見る。
オットーを見る。
その妻を見る。
伯爵夫人も見る。
誰も答えなかった。
「分かりました」
ニコが言った。
また答えないことが答えになった。
伯爵が息を吐く。
「お前はまだ十二歳だ」
ニコが見る。
「今は分からなくても、いずれグライナー家の名が持つ意味を理解する」
「そうかもしれません」
「ならば」
「でも、今はいりません」
伯爵が言葉を止める。
「学費も払って貰っています」
ニコが私を見る。
私も見る。
払っている。
多分。
「多分じゃないからな」
カイルが言った。
声に出ていたらしい。
「払ってるよ」
「知ってる」
失礼だな。
ニコが少し笑った。
「学校にも通えています。本も買って貰えます」
本。
そこは結構使っている。
「卒業した後のことは、自分で考えます」
「十二歳のお前がか?」
「卒業する頃には十二歳じゃありません」
その通りだった。
カイルがまた顔を逸らした。
今日はよく笑う。
伯爵の顔は笑っていない。
「後悔するかもしれんぞ」
「するかもしれません」
ニコは普通に答えた。
「その時は自分で考えます」
伯爵が黙った。
役人は何も言わない。
止める必要がないらしい。
ニコは少し考えてから続けた。
「それに」
「何だ」
「グライナー家のものを貰ったら」
伯爵を見る。
「いつか、グライナー家のために何かをしないといけなくなりませんか?」
伯爵は答えなかった。
私はニコを見る。
そんなことまで考えていたらしい。
私はそこまで考えていなかった。
貰えるなら貰えばいいと思いかけていた。
危ない。
「何も要求しない」
伯爵が言った。
ニコは首を傾げた。
「ずっと?」
伯爵が止まる。
「僕が大人になっても?」
返事がない。
ニコは頷いた。
「やっぱり、いりません」
すごい。
私は多分、貰っていた。
カイルが私を見る。
「おばさん、今、貰えばいいのにって思っただろ」
「少し」
「少しか?」
「結構」
ルークが笑った。
ミラも笑う。
サラは分かっていないらしい。
ニコの手を握ったまま伯爵を見る。
「ニコにいらないもの、いらない」
簡単だった。
伯爵はサラを見る。
それからニコを見る。
「本当に何も望まないのか」
ニコは少し考えた。
「あります」
伯爵の表情が変わった。
「何だ」
ニコは答えた。
「今まで通りにしてください」
「……何?」
「僕は学校へ行きます」
サラを見る。
「家にも帰ります」
私達を見る。
「それだけでいいです」
伯爵は何も言わなかった。
欲しいものを聞かれて。
ニコが欲しがったのは。
伯爵家がくれるものではなかった。




