閑話 歌になる前に
森の洞窟で、置き去りにされた赤ん坊が見つかった頃。
ラセルは、上機嫌で街道を歩いていた。
肩には竪琴。腰の袋には、旅を始めた時より多い銀貨が入っている。
まだ報酬ではない。
必要経費だった。
宿代。
食事代。
酒代。
各地で情報を集め、人々へ正しい話を伝えるために必要な金である。
少なくとも、ラセルはそう説明した。
「今夜は魚にしようかな」
少し前に立ち寄った宿場町では、川魚を香草と一緒に焼くらしい。
評判も良かった。
依頼人から預かった金にも、まだ余裕がある。
問題はない。
今回は何も問題がなかった。
王都から離れた小さな研究所。
そこで魔力を持つ子供達が集められ、薬を投与されていた。
親へ渡された金。
仲介人が抜いた金。
研究所が中央へ請求した金。
消された署名。
焼かれかけた記録。
話は揃っている。
証人もいる。
数字もある。
ラセルはそれを、一度に広めなかった。
最初の町では、子供達が研究所へ売られていたと歌った。
次の町では、親へ渡された金と、研究所が請求した金の違いを話した。
その次では、三歳の子供にまで薬が使われたことを酒場へ落とした。
町を進むたび、話を一つずつ加える。
聞いた者が次の町へ運び、別の誰かが怒りを添える。
やがて噂は、ラセルが歌わなくても広がり始めた。
嘘を加える必要はなかった。
事実だけで、十分に酷い。
ただし。
どの事実から聞かせるかは、大事だった。
ラセルは、その順番をよく知っていた。
「順調だね」
誰もいない街道で呟く。
止める者はいない。
横から余計な事実を付け足す者もいない。
歌の途中で結論を叫ぶ者もいない。
実に仕事がしやすかった。
アルトはまだ来ない。
今のうちだった。
夕暮れ前、ラセルは街道沿いにある貴族の屋敷へ入った。
案内された部屋には、依頼人が待っている。
年嵩の男だった。
王都では、王へ苦言ばかり呈する面倒な貴族として知られている。
本人も否定していない。
「西の三つの町まで話が届きました」
ラセルは椅子へ座り、出された茶へ手を伸ばした。
「商人達も話し始めています。中央研究所の名も、間もなく出回るでしょう」
「まだ出していなかったのか」
「最初から大きな名を出すと、王都の政争だと思われます。まずは子供達の話として広めた方がいい」
男は黙った。
研究所へ送られた子供達の記録を見た時、この男は本気で怒っていた。
同時に、研究所を庇う王派の勢力を削れるとも考えた。
怒りも本物。
政治的な思惑も本物。
どちらか一つである必要はない。
「王都へ届く頃には、中央が否定しても遅いでしょう」
「歌は?」
「ほとんど出来ています」
「ほとんど?」
「最後は、中央がどう動くかを見てからです。否定するなら、否定した言葉まで歌に入れられる」
男の口元が僅かに動いた。
「性格が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ラセルは茶菓子を一つ取る。
焼いた木の実を蜜で固めたものだった。
美味しい。
もう一つ取る。
「約束の報酬は、明日渡す」
ラセルの手が止まった。
「明日?」
「最後の報告を聞いてからだ」
「ここまで広がれば、もう止まりませんよ」
「だからこそだ。最後まで見届けたい」
正論だった。
ラセルは茶を飲む。
今日でもよいのではないかと思ったが、口にはしなかった。
あと一日。
たった一日である。
今回は依頼人を怒らせていない。
隠していた事実を突然暴露した者もいない。
報酬を取り上げられる理由は、どこにもなかった。
「承知しました。では、明日の昼に」
「ああ」
ラセルは立ち上がる。
部屋を出る前に、残っていた茶菓子を見た。
少し迷う。
「持っていくか?」
「よろしいので?」
「必要経費なのだろう」
「もちろんです」
包んでもらった。
屋敷を出た頃には、空が赤く染まっていた。
ラセルは宿場町へ向かう。
足取りは軽い。
明日。
ついに報酬が手に入る。
依頼を受けて働いたことは何度もある。
だが、最後まで無事に報酬を受け取ったことはない。
食事はした。
酒も飲んだ。
良い宿にも泊まった。
経費で美味しい思いは、たくさんしている。
しかし、報酬だけは手に入らなかった。
いつも最後に、誰かが余計なことを言うからだった。
今回は、その誰かがいない。
明日の昼、金を受け取る。
その場ですぐ、半分を別の場所へ預ける。
残りも一つの袋には入れない。
完璧だった。
ラセルは宿場町へ入った。
魚の焼ける匂いが漂っている。
まず食事。
それから宿。
明日着る服も確認しておいた方がいい。
報酬を受け取る時くらい、吟遊詩人らしい格好をしていたい。
そんなことを考えながら、予約していた宿へ向かう。
宿の前に、少年がいた。
見覚えがあった。
ありすぎた。
少年もラセルを見つける。
顔が明るくなった。
「ラセル!」
元気な声が宿場町に響いた。
ラセルの足が止まる。
逃げるには遅い。
少年は駆け寄ってきた。
嬉しそうだった。
とても嬉しそうだった。
ラセルは一応、聞いた。
「……早くない?」
「うん!」
アルトは胸を張った。
「頑張って走ってきたよ!」
「そう……」
「ラセルに早く追いつきたかったから!」
ラセルは、明日受け取るはずの報酬を思った。
まだ手にもしていない。
それなのに。
もう失った気がした。




