第99話 三つの鍵でしか、開かない扉
王都へ向かう旅は、思っていたより静かだった。
ヒムカを出てから十日ほど。途中で何度か宿を取り、商隊に混ざり、川船も使った。俺たちが持っている情報を考えれば、もっと何かに襲われたり、謎の刺客が出たりしてもおかしくない気がしていた。
でも。
何も起きない。
「逆に怖い」
俺が言うと、フィアが呆れた。
「何も起きないなら喜びなよ」
「最近、何か分かるたびに次の問題が出てくるから」
「それはレンが問題のある場所へ突っ込んでるだけじゃない?」
反論できなかった。
王都へ近づくにつれ、街道を走る荷馬車が増えた。
麦。
布。
魔石。
木材。
干し肉。
酒。
地方ごとに荷物が違う。
そしてフィアは、王都の城壁より先に荷馬車の列を見て興奮していた。
「東門だけでこの量……」
「王都だぞ?」
「一日に何台入るんだろ」
「そこ?」
俺が日本の痕跡へ頭を悩ませている横で、この人は相変わらず商人だった。
でも。
それが少し安心する。
世界の真相へ近づいても、フィアはフィアだ。
王都に入った翌朝。
俺たちは真っ先に史料庁へ向かった。
学院から正式な紹介状。
ヒムカ神殿からの記録。
アサヒ村の返却証。
交易帳簿の複写。
祭事録。
全部持ってきた。
受付で名前を告げる。
「レン・ガルドです。セヴァン・ロート監査官に――」
「承っております」
「……え?」
早い。
俺たちは顔を見合わせた。
案内されたのは、前に学院で会った時よりずっと狭い部屋だった。
そして。
セヴァンはすでに待っていた。
濃紺の服。
銀縁の眼鏡。
胸には。
根のない銀の樹。
「久しぶりですね」
「俺たちが来るって知ってたんですか?」
「ヒムカから王都へ送られた報告は、学院だけに届くわけではありません」
そうだった。
地方神殿。
行政。
商会。
学院。
異常魔力が起きれば、複数の経路を通る。
隠れて調査しているつもりでも。
俺たちは全然隠れていなかったらしい。
「祭壇を動かして異常反応を起こしたそうですね」
刺さった。
「……はい」
「子供も倒れた」
「はい」
「反省は?」
「かなり」
セヴァンは少しだけ笑った。
「なら結構」
怒られると思っていた。
「止めないんですか?」
俺が聞く。
「何を?」
「調査」
「止めてほしいのですか?」
「いや」
即答。
セヴァンは机へ手を伸ばした。
「では、資料を」
持ってきたものを一つずつ並べる。
彼は黙って読む。
日ノ本。
交易断絶。
白鷺号。
ハル。
銀枝。
アサヒ村。
ヴァル・ヘイム。
世界樹神殿の祭事録。
一時間近く。
ほとんど喋らなかった。
読み終える。
「……ここまで辿りましたか」
その言い方が引っかかった。
「知ってたんですか?」
「一部は」
「銀枝降下図も?」
「存在だけは」
レオルが身を乗り出す。
「現物を見たことは?」
「ありません」
意外だった。
王都史料庁の監査官なのに。
「根室へ入れない?」
俺が聞く。
セヴァンは頷いた。
「私一人では」
一人では?
「どういう意味?」
フィアが聞く。
セヴァンは立ち上がった。
「来てください」
地下へ降りる。
一階。
地下第一層。
第二層。
普通の書庫が続く。
そこからさらに。
史料庁と大神殿をつなぐ古い地下通路へ入った。
壁の造りが変わる。
石。
魔術刻印。
空気まで冷たい。
通路の先。
大きな扉があった。
銀色。
中央に。
三つの窪み。
「三つ?」
俺が聞く。
セヴァンは胸元から小さな金属片を出した。
根のない樹。
その形が、一つ目の窪みへぴったり合う。
「一つは史料庁」
二つ目。
世界樹の形。
「大神殿」
三つ目。
何も描かれていない。
ただの円。
「これは?」
「立会権者」
「立会?」
「史料庁と神殿以外の第三者です」
レオルの目が変わる。
「誰でもいいわけではないでしょう」
「もちろん」
学院。
王権。
司法。
地方代表。
一定の条件を満たした外部機関から、一名。
つまり。
「二つの組織だけじゃ開けられない」
フィアが言う。
「逆です」
セヴァンが答えた。
「一つの組織だけでは、絶対に開けられないようにした」
俺は扉を見る。
前世にも似た考え方があった。
重要な設備。
危険な操作。
一人の判断で動かせないようにする。
二人以上。
別々の鍵。
互いに確認。
「……一人が暴走しても駄目な仕組み?」
セヴァンが俺を見る。
「その表現が最も近いでしょう」
誰が考えた?
聞く前に。
分かった。
「ヴァル・ヘイム?」
「はい」
また。
あの男だ。
日本関連の資料を隠した。
神名を消した。
それなのに。
証拠は燃やさなかった。
さらに。
自分の所属する史料庁すら信用せず。
大神殿だけにも任せず。
三者が揃わなければ開けられない保管庫を作った。
「変な人だな」
思わず言った。
セヴァンが眉を上げる。
「九十年前の高官への感想としては珍しいですね」
「だって」
敵なのか。
味方なのか。
全然分からない。
「本人も、自分たちを信用してなかったんですか?」
セヴァンは少し考えた。
「おそらく」
そして。
扉脇の刻印を指す。
古い文字。
**『一者の善意を信ずるな。三者の恐怖が一致した時のみ開けよ。』**
重い。
フィアが読む。
「善意を信じるな……」
「嫌な言葉だな」
俺は言った。
「ですが」
セヴァンが答える。
「長く残る制度というものは、良い人間が運用することを前提にしない方が強い」
その言葉。
学院でやったことと似ている。
俺がいなくても回る食堂。
誰かが失敗しても壊れない加圧鍋。
一か所消されても残る記録。
人が完璧じゃないから。
仕組みで守る。
九十年前に。
この人たちも同じことを考えたのか。
「じゃあ、三つ目は?」
レオルが聞く。
「今回は学院に依頼しました」
セヴァンが通路の奥を見る。
足音。
一人。
二人。
近づいてくる。
最初に見えたのは、白い神官服。
若い女性。
二十歳を少し越えたくらい。
長い髪。
以前より大人びている。
でも。
忘れるわけがない。
「……エルナ?」
彼女が笑った。
「久しぶり、レン」
俺は本気で驚いた。
村で出会った時。
十三歳だった神殿の見習い。
俺が日本の神へ食べ物を供えたことで。
世界樹の像が壊れ。
神殿の常識そのものへ疑問を持った人。
今。
胸に大神殿の祭司章がある。
「なんでここに?」
「それ、私が聞きたい」
少し笑う。
「あなたが起こした最初の神格異常を知っている神殿関係者だから、王都へ呼ばれたの」
俺は目を逸らした。
「起こしたっていうか……」
「起きた?」
「そう、それ」
「昔から変わってないね」
フィアが横から言う。
「最近は少し変わりました」
「フィア!?」
なぜ俺の成長報告が始まる。
エルナの隣にいたのは、学院から派遣された老教授だった。
俺は直接授業を受けたことはないが、顔は知っている。
学院評議会の一人。
今回の第三鍵を持つ立会人。
つまり。
史料庁。
大神殿。
学院。
三者が揃った。
「待ってください」
俺は気づいた。
「俺たち、入れるんですか?」
「通常は入れません」
セヴァンが言う。
「今回は例外です」
「なんで?」
「条件を満たしたからです」
また条件。
嫌な言葉だ。
セヴァンは一冊の古い冊子を出した。
九十年前。
ヴァル・ヘイムが残した根室開封規則。
**第一。消失指定された東方の国名が、独立した三系統以上の資料から再確認されること。**
木札。
交易帳簿。
口伝。
満たしている。
**第二。旧東方祭祀に由来する神格反応が、現代に再発すること。**
村。
ヒムカの祭り。
満たしている。
**第三。世界樹側にも同時期の異常が確認されること。**
聖火。
樹像。
満たしている。
そして。
最後。
**第四。以上が揃った時、封印史料を再検証せよ。**
俺は黙った。
「ヴァル・ヘイムは」
サヨが聞く。
「こうなることを予想していた?」
セヴァンが首を振る。
「予想というより」
冊子の最後を開く。
「恐れていたのでしょう」
そこには。
ヴァル・ヘイム本人の筆跡で。
短い一文。
**『もし名が再び戻るなら、我らの封印は失敗したのではない。封印すべき時代が終わった可能性を疑え。』**
俺は。
しばらく。
何も言えなかった。
この人。
日本を永遠に消したかったんじゃない。
危険な時代だけ。
止めたかった?
それでも。
やったことが正しいとは言えない。
名前を奪われた人がいる。
文化を失った人がいる。
でも。
少なくとも。
永遠に忘れさせることが目的ではなかった。
エルナが鍵を二つ目へ入れる。
学院の老教授が三つ目へ。
セヴァンが言った。
「三者同時に回します」
三人が手をかける。
一。
二。
三。
重い音。
扉の内部で。
何本もの金属が動く。
魔術刻印が順番に消える。
最後。
低い音とともに。
九十年間閉じられていた扉が。
ゆっくり開いた。
冷たい空気。
暗闇。
埃。
奥には棚が並んでいる。
数十。
いや。
もっと。
日本関連の資料。
全部。
燃やされずに。
残っていた。
胸が熱くなる。
でも。
俺は走らなかった。
フィアが横を見る。
「行かないの?」
「まず記録」
俺は答えた。
「何がどこにあるか、最初に残そう」
レオルが笑った。
「本当に成長したな」
「うるさい」
でも。
自分でも少し思う。
そして。
セヴァンが根室の奥へ灯りを向けた。
一番奥。
他の棚から離れた場所。
透明な魔術板の向こう。
一枚の古い紙が。
壁へ固定されていた。
紙そのものは色褪せている。
けれど。
描かれたものは。
遠くからでも分かった。
夜空。
海。
黒い陸地。
そして。
空から地上へ伸びる。
巨大な。
白銀の枝。
ハルが描いた。
**銀枝降下図。**
俺たちは。
ついに。
日本が消えた夜と。
真正面から向き合った。




