第100話 絵を見ただけで、世界樹が鳴いた
銀枝降下図は、思っていたより小さかった。
人の背丈ほどもある巨大な絵を勝手に想像していたけれど、実物は両手を広げた程度の紙一枚。黄ばんだ紙の中央に黒い海と陸地が描かれ、その上から無数の白銀の線が降りている。
ただ。
近づくほど、気味が悪かった。
枝は空から生えている。
一本の幹から伸びているわけじゃない。絵の上端――つまり紙の外側から無数の枝だけが侵入し、陸地を囲み、その一部は地面へ突き刺さっている。
そして中央。
黒く塗られた島影があった。
形はかなり崩れている。
それでも。
俺には分かった。
縦に長い列島。
「……日本」
声が漏れた。
エルナが隣で息を呑む。
「これが?」
「たぶん」
断言はしない。
ハルは測量師じゃない。記憶を頼りに描いた可能性もある。
でも、交易帳簿。
航路図。
日ノ本という名前。
そしてこの位置。
全部が重なる。
セヴァンが俺たちを止めた。
「ここから先は、魔術板越しに観察してください」
「出さないんですか?」
「九十年間、出していません」
強い。
「そこまで?」
レオルが聞く。
セヴァンは頷いた。
「過去に、この絵を直接見た三名に異常が出た。それだけで十分です」
その判断は正しい。
昔の俺なら、「ちょっとだけなら」と近づいていたかもしれない。
祭壇で学んだ。
ちょっとだけ、が一番怖い。
まず外から見る。
レオルが測定石を置く。
魔力反応。
ほぼなし。
「普通の紙に見える」
「銀色の部分は?」
俺が聞く。
「微量に反応しているが……古い魔術顔料でもこれくらいは出る」
フィアは別のところを見ていた。
「絵の右下、文字ない?」
全員の視線が動く。
確かに。
黒い染みの下に、細い線がある。
正面からだとほとんど読めない。
俺は反射的に言った。
「灯り、低くできる?」
レオルが笑った。
「またそれか」
「使える方法は何度でも使うって言っただろ」
魔術灯を床近くへ。
角度を浅くする。
紙の凹凸へ影が落ちる。
文字が浮いた。
日本語。
今までの古い「日ノ本」の文字より。
ずっと。
俺の知っている字に近い。
胸が締め付けられる。
「読める?」
エルナが聞く。
俺はゆっくり読む。
**『これは樹ではない』**
沈黙。
「……何?」
レオルが聞き返した。
俺も二度見る。
間違ってない。
**『これは樹ではない。樹に見える何かだ。』**
ハルの筆跡だろうか。
その下。
さらに細かい文字。
**『枝は空から来たのではない。空が裂け、その向こうから現れた。』**
ぞくりとした。
サヨが呟く。
「向こう……?」
世界樹が空から降りた。
そう思っていた。
でもハルは違うと言っている。
空そのものが開いた。
その向こうに。
枝があった。
「異界?」
レオルの声が低くなる。
「可能性はある」
「世界樹が別の場所にあるってこと?」
俺が聞く。
ロヴァン神官から聞いた教義が頭をよぎる。
世界樹は、複数の領域をつなぐ基盤。
なら。
俺たちが普段見ている世界樹像は象徴で。
本体は。
この世界そのものの外側にある?
そこまで考えた時だった。
カン。
小さな音。
全員が止まる。
「何?」
ナギが周囲を見る。
もう一度。
カン。
金属を軽く叩いたような音。
エルナの顔色が変わった。
「……聖鈴」
「どこから?」
「上」
王都大神殿。
地下深くにいるのに。
上の神殿で鳴る祭具の音が。
石壁を通して。
聞こえている?
いや。
違う。
三度目。
カン。
今度は。
根室の壁そのものから鳴った。
レオルが測定石を見る。
「魔力が上がってる」
「絵?」
「違う」
彼の表情が硬くなる。
「周囲だ」
床。
壁。
天井。
根室全体の古い術式へ、微弱な魔力が流れ始めている。
セヴァンが即座に言った。
「全員、観察位置から下がってください」
誰も逆らわない。
俺たちは三歩下がる。
でも。
音は止まらない。
カン。
カン。
カン。
そして。
透明な魔術板の向こう。
銀枝降下図の一本が。
光った。
「まずい」
俺が言う。
白銀の線。
一本。
二本。
絵の中で。
まるで生きているように。
光が枝を走る。
エルナの胸元にある世界樹の祭司章も。
同時に光った。
「エルナ!」
「私は何もしてない!」
彼女が章を外そうとする。
しかし。
その手が止まった。
「……声」
「何?」
エルナの顔が真っ青になる。
「聞こえる」
昔。
村の神殿で。
世界樹像が割れた時。
彼女は声を聞いた。
**『食を分かつ者よ』**
そして。
**『まだ――名を呼ぶな』**
あの時と同じなのか?
「何て言ってる?」
サヨが聞く。
エルナは耳を塞ぐ。
それでも。
声は外からじゃないらしい。
「……違う」
「何が?」
「前とは違う」
彼女は震えながら。
言った。
「二つ、いる」
その瞬間。
絵の中央。
日本列島らしき黒い部分が。
赤く光った。
白銀。
赤。
二つの光が。
紙の上でぶつかる。
測定石が激しく明滅した。
「下がれ!」
レオルが叫ぶ。
全員、さらに下がる。
セヴァンは扉へ向かう。
「封鎖します」
「待って!」
俺は反射的に言った。
全員が俺を見る。
昔なら、ここから近づいていた。
でも。
違う。
「閉める前に、記録だけ!」
フィアが即座に動く。
「時間!」
「今!」
「白が先、赤が後!」
レオルが測定値を読む。
「白色反応、世界樹系統に近い! 赤は分類不能!」
サヨが絵を見る。
「赤……中央から広がっています!」
ナギが叫ぶ。
「何か描く!?」
俺は答える。
「位置だけ! 触るな!」
紙。
線。
時間。
順番。
一秒でも残す。
そして。
エルナが叫んだ。
「言葉が!」
「何て!?」
白い光。
エルナの口から。
低い声。
彼女自身の声ではない。
**『接続を固定せよ』**
空気が凍った。
次。
赤い光。
今度は。
サヨの勾玉が激しく輝いた。
彼女が胸を押さえる。
「サヨ!」
「大丈夫……です!」
そして。
別の声。
今度は俺にも聞こえた。
耳ではない。
頭の奥。
女の声か。
男の声か。
分からない。
ただ。
日本語だった。
**『断つな』**
白。
**『固定せよ』**
赤。
**『断つな』**
繰り返す。
二つ。
相反する命令。
そこで。
俺は初めて気づいた。
日本が消えた夜。
一方的に世界樹が日本を消した。
そう考えていた。
でも。
もし。
向こうも。
抵抗していたとしたら?
日本の神々が。
世界樹に?
「セヴァン!」
「封鎖します!」
今度は止めない。
全員が扉側へ下がる。
三つの鍵。
史料庁。
大神殿。
学院。
同時に戻す。
扉が動き始めた。
その瞬間。
銀枝降下図の光が。
一気に強くなった。
白と赤。
ぶつかる。
俺の頭の中へ。
一枚の光景が流れ込んだ。
ほんの一瞬。
夜の街。
見覚えのある。
電柱。
家。
道路。
自動販売機。
日本。
そして。
空いっぱいに。
白銀の裂け目。
その前に。
何かが立っている。
巨大な影。
一つじゃない。
いくつも。
俺は目を見開いた。
**「――っ!」**
次の瞬間。
扉が閉じた。
光が消える。
音も。
声も。
全部。
静寂。
俺は床に膝をついていた。
フィアがすぐ横へ来る。
「レン!」
「大丈夫……じゃないけど、意識はある」
もう大丈夫とは言わない。
息を整える。
レオルが測定石を確認している。
「反応停止」
エルナは壁へ背を預けていた。
サヨも勾玉を握りしめている。
誰も倒れてはいない。
それだけで。
かなり良かった。
セヴァンが眼鏡を外し、額を押さえた。
「……九十年ぶりの開封で、これですか」
「前も?」
俺が聞く。
「似た事例は記録にあります。ただし」
彼は扉を見る。
「二系統同時の反応は、記録にない」
二つ。
白。
赤。
世界樹側。
そして。
日本側。
俺は、自分が見たものを紙へ書いた。
忘れる前に。
夜の町。
電柱。
自販機。
白銀の空。
影。
複数。
「これ」
フィアが紙を見る。
「レンが知ってる場所?」
質問。
逃げられる。
いつもなら。
でも。
俺は口を開きかけて。
止めた。
まだ。
フィアへ話す時ではない。
ここで慌てて全部を告白するのは違う。
「……知ってるものが、いくつか映った」
それだけ答える。
フィアは俺の顔を見た。
しばらく。
それ以上聞かなかった。
ありがたい。
でも。
いつまでも、このままではいられない。
そして俺には。
もっと重要なことがあった。
ハルの絵。
白銀の枝。
赤い光。
二つの声。
**『接続を固定せよ』**
**『断つな』**
日本が消えた夜。
そこにいたのは。
日本を消す側だけじゃなかった。
消されまいとした側も。
確かに。
いた。
つまり。
これは。
災害じゃない。
事故でもない。
もっと。
最悪な言葉が。
頭に浮かんだ。
**戦争。**
神と神の。
世界そのものを使った戦争。
その巻き添えになったのが。
日本だったのかもしれない。




