第98話 世界樹は、一度死んでいる
王都大神殿へ向かう前に、もう一つだけ確かめたいことができた。
九十年前の内部通達には、こう書かれていた。
**『銀枝に関する史料は、世界樹本体との共鳴を防ぐため、根より最も遠き区画へ置くこと。』**
世界樹を信仰している神殿自身が、世界樹との共鳴を恐れていた。
ならば。
過去に一度くらい、その「共鳴」が実際に起きているんじゃないか。
俺がそう言うと、ロヴァン神官はしばらく考え込んだ。
「通常の神殿史には、そうした記録はありません」
「通常じゃない方は?」
「……君は嫌な聞き方をしますね」
褒められてはいない。
ただ、神殿には一般の歴史書とは別に、祭事を行った日付だけを延々と残した記録があるという。
神殿祭事録。
何月何日に灯火を交換した。
誰が祈祷を担当した。
世界樹像を清掃した。
新しい神官が入った。
そんな、俺なら三頁で寝そうな記録だ。
でも今は。
そういうものの方が信用できる。
歴史書は書き直せる。
祭事録を百年分全部辻褄が合うように直すのは、大変だ。
「フィア」
「何?」
「また帳簿みたいなのだ」
「神殿にもあるんだね」
なぜ嬉しそうなんだ。
古い祭事録は地下ではなく、鐘楼の横にある記録室へ保管されていた。
百年以上前。
日本との交易が消えた時期を、レオルが年代対応表から割り出す。
俺たちは前後一年分を並べた。
最初は何もない。
春季祈祷。
種蒔きの祝詞。
雨乞い。
灯火交換。
普通。
その普通が、ある日を境に崩れた。
「ここ」
サヨが指を置いた。
一行。
**『夕刻、聖火消失。』**
俺は顔を上げた。
「消えた?」
ロヴァン神官も驚いている。
「聖火は魔力供給が続く限り、自然には消えません」
「風でも?」
「多少の風なら」
次の日。
**『再点火を試みるも定着せず。』**
さらに翌日。
**『世界樹像、中央幹部に亀裂。』**
俺の背中が冷たくなる。
見た。
昔。
まだ村にいた頃。
日本の神へ食べ物を供えた時。
世界樹像に異変が起きた。
あの時は。
偶然じゃなかった?
「続き」
レオルが言う。
三日目。
聖火戻らず。
四日目。
近隣三神殿からも同様の報告。
五日目。
東方上空に異常発光。
六日目。
魔力流の大規模変動。
そして。
七日目。
たった一行。
**『根定まる。聖火、再び灯る。』**
俺はその言葉を何度も見た。
「根……定まる?」
ロヴァン神官が古語辞典を開く。
「現在では使わない表現です。おそらく……世界樹の根が再び安定した、という意味でしょう」
レオルが隣の地域の記録も調べ始めた。
一冊。
二冊。
三冊。
全部。
日付が近い。
地方ごとに一日程度のずれはある。
でも。
世界樹神殿の聖火が。
広い範囲で。
同時期に消えている。
「これ」
フィアが低い声で言った。
「日ノ本との交易が途絶えた時期と同じ?」
レオルが計算する。
何度も。
そして。
頷いた。
「ほぼ一致する」
静かになった。
百二十五年前。
日本側。
東の空に銀色の枝。
国が世界から抜き取られる。
ヒムカ側。
海が荒れる。
航路が消える。
そして世界樹神殿側。
聖火消失。
樹像亀裂。
世界の魔力が乱れ。
七日後。
**『根定まる』**
俺は嫌な想像をしてしまった。
「日本が消えたから、世界樹が安定した……?」
誰も答えない。
言った本人が、一番聞きたくない答えだった。
ロヴァン神官が眉を寄せる。
「逆かもしれません」
「逆?」
「世界樹に何かが起きた結果、東方が消失した」
そうだ。
順番はまだ分からない。
世界樹が壊れた。
だから日本を切り離した?
日本と何かが衝突した。
だから世界樹まで傷ついた?
あるいは。
もっと別の何か。
「決めつけない」
俺は自分に言い聞かせた。
レオルが頷く。
「それでいい」
しかし。
一つだけ。
かなり強く言えることがある。
日本が消えた事件と。
世界樹に起きた大異変は。
同じ時期に起きている。
そして俺は、もう一つ気になった。
「聖火って」
ロヴァン神官を見る。
「百二十五年前以外に、こんなふうに一斉に消えたことある?」
「調べれば分かると思いますが……」
調べた。
夕方まで。
結果。
大陸全体までは分からない。
この神殿に残る関連記録だけでも。
大規模な同時消失は、極端に少ない。
百二十五年前。
そして。
もう一つ。
ごく最近。
俺は日付を見た瞬間、呼吸を忘れた。
村にいた頃。
サヨと出会うより前。
俺たちが、初めて大勢で食事を分かち。
「いただきます」を言い。
神へ食べ物を供えた頃。
地方神殿から届いた古い連絡記録に。
短く。
残っていた。
**『複数地域にて世界樹聖火、一時消失。原因不明。』**
手が震えた。
「……俺だ」
声が出た。
フィアが見る。
「何?」
言える範囲を選ぶ。
「昔、俺の村で……古い形に近い供え物をしたことがある。その時、世界樹像にも異変が出た」
サヨは知っている。
彼女の顔が強張った。
「日本の神格が反応した時ですね」
レオルが二つの日付を見比べる。
「つまり、日本由来の神格反応が強くなると、世界樹側が弱まる?」
「まだ二例」
俺はすぐ言う。
学院で染みついた。
二回似たことが起きたからといって、全部決めるな。
でも。
二例目が。
俺自身の経験なのは。
重い。
俺は祭事録を見つめた。
日本が戻る。
世界樹が弱る。
もし。
本当にそういう関係なら。
どうなる?
俺はずっと。
日本の神々を戻したいと思っていた。
なくなったものを。
忘れられたものを。
もう一度。
でも。
そのたびに世界樹が壊れるなら。
この世界は?
フィア。
レオル。
ナギ。
今の家族。
村。
学院。
みんなが生きている世界。
そこまで壊れるのか?
胸の奥が冷えた。
昔なら。
「だったら世界樹を何とかすればいい」
と先に走っていたかもしれない。
今は。
怖いからこそ。
止まる。
調べる。
「王都へ行こう」
俺が言った。
レオルが見る。
「根室か」
「うん」
九十年前。
ヴァル・ヘイムたちも。
同じものを見たのかもしれない。
日本に関するものが戻る。
世界樹が反応する。
だから。
怖くなった。
名を消した。
資料を封じた。
祭祀を止めた。
もしそうなら。
彼らがやったことを。
俺は簡単に許せない。
でも。
以前ほど簡単に憎むこともできなくなった。
夜。
神殿に泊まることになった俺たちは、厨房の隅を借りて夕食を作った。
麦。
豆。
少しの干し肉。
それからナギが持ってきたミソ。
「神殿でミソ汁作っていいの?」
俺が聞くと、ロヴァン神官は笑った。
「厨房で何を作るかまで教義にはありませんよ」
よかった。
豆の汁へミソを溶く。
香りが広がる。
神殿の神官たちも興味を持って、一杯ずつ飲んでいった。
「不思議な味ですね」
「米にも合うよ」
「米はありません」
「今度持ってきます」
普通の会話。
それが。
少し怖くて。
同時に嬉しかった。
世界樹を信じる人が。
日本につながるミソを飲んでいる。
何も壊れない。
聖火も消えない。
神官も倒れない。
ただ。
「うまい」と言う。
俺はそれを見て。
ほんの少しだけ。
安心した。
もしかすると。
世界樹と日本は。
必ずどちらか一つしか残れないわけじゃない。
今はまだ。
そう信じる根拠はない。
でも。
目の前の食卓では。
両方が、普通に同じ場所にあった。
だったら。
いつか。
神話の方も。
そうできないだろうか。
その答えを知るためにも。
俺たちは。
王都大神殿の地下へ行かなければならなかった。




