第95話 神様の話より、漬け魚を信じる
翌朝。
俺は、マキさんから聞いた話を紙へ書き直していた。
空に白銀の樹。
下へ伸びる枝。
音が消える。
日本が世界から抜き取られる。
そして、
**「神様が、国を殺した」**
昨夜から何度読み返しても、背筋が寒くなる。
でも。
「これだけじゃ、証拠にはならないよな」
俺が言うと、レオルが頷いた。
「百年以上、口伝された話だ。内容が変化している可能性は高い」
冷たい言い方に聞こえる。
でも正しい。
ハル本人がそう言ったとしても、極限状態で見た光景だ。
まして今聞いたのは、ハルから何世代も後のマキさん。
フィアも記録を覗き込んだ。
「だからって嘘だとも言えないけどね」
「うん」
信じたいものほど、確かめる。
学院で何度も失敗して、ようやく身についた癖だった。
ナギだけが朝飯を食べながら言う。
「じゃあ、どうやって百二十五年前の人の話を確かめるの?」
「そこなんだよなあ」
死んだ人に質問はできない。
神様を呼ぶ?
絶対嫌だ。
この前、祭りで痛い目を見たばかりだ。
俺が悩んでいると、マキさんが魚の入った桶を運んできた。
「難しい顔してないで食べな。昨日の魚飯漬け、まだあるよ」
俺の目が桶へ行く。
酸っぱい香り。
米と魚。
昨日聞いた。
これはハルが村へ伝えた料理だと。
「マキさん」
「ん?」
「この作り方って、昔から変わってない?」
「そりゃ少しは変わってるだろうけど、海爺のやり方って言われてる部分はあるね」
俺は立ち上がった。
ナギが警戒する。
「その顔なに」
「料理する」
「歴史は?」
「歴史を料理で調べる」
レオルが額を押さえた。
「結局そこへ戻るのか」
戻る。
だって俺は料理人だ。
マキさんに教わった「海爺漬け」には、ヒムカ周辺の似た保存食と少し違う特徴があった。
魚をいきなり米へ漬けない。
まず塩をかなり強めに振る。
重石をして一晩以上置く。
出てきた水を捨てる。
魚の表面を乾かしてから、初めて炊いた米と合わせる。
ナギが言う。
「こっちの山でも似た魚漬けはあるけど、ここまで先に水を抜かない」
「味は?」
「海爺漬けの方が硬め。でも夏は失敗しにくいって聞く」
そこ。
気になる。
俺は小さな魚を同じ重量に分けた。
条件も揃える。
片方は村で一般的な方法。
もう片方は海爺漬け。
塩の量も記録。
容器も煮て乾かす。
当然、数日で百年の歴史が証明できるわけじゃない。
でも工程の意味なら確かめられる。
一晩後。
海爺漬け側の魚を取り出す。
底にかなり水が溜まっていた。
魚も軽くなっている。
フィアが秤を見る。
「減ってる」
「水が抜けた分だと思う」
前世で「水分活性」なんて言葉を聞いた覚えはある。
でも俺は食品科学者じゃない。正確な数式も基準も知らない。
だから、分かる範囲だけ言う。
「腐る原因になる小さい生き物も、水が多い方が動きやすいものがいるはずなんだ」
ナギが水を見る。
「じゃあ先に抜けば?」
「腐りにくくなる可能性がある。塩そのものも効くだろうし」
完全な証明ではない。
ただ。
海爺漬けは、ちゃんと理由のある保存工程だった。
数日後の初期状態でも差が出た。
通常の方は液が多く、香りの変化が早い。
海爺漬けは水分が少なく、変化が穏やか。
ナギが両方の匂いを嗅いだ。
「こっち、確かに夏向きかも」
マキさんが笑う。
「だから昔から、海爺は暑い時ほど塩を惜しむなって言ったらしいよ」
俺の手が止まった。
暑い時ほど。
保存。
塩。
脱水。
ハルがどこでそれを覚えたのかは分からない。
日本でも、ヒムカへ来てからでも。
でも少なくとも。
この村には、ハルが伝えたとされる技術が百年以上残っている。
昔話だけじゃない。
味として。
手順として。
「神様の話より、こっちの方が信じやすいな……」
俺が呟くと、ナギが怒った。
「漬け魚と神様を比べるな」
「だって漬け魚は食べられるし」
「判断基準そこ?」
俺にとっては重要だ。
**真実が一つでも、証拠は一つじゃ足りない。**
話。
帳簿。
料理。
別々のものが同じ人物へつながれば、少しずつ確かになる。
その日の午後。
マキさんが、家の奥から古い木箱を持ってきた。
「料理の話で思い出した」
「何を?」
「海爺の書き物は残ってないって言っただろ」
俺たちは頷く。
「正確には、持っていかれたらしいんだ」
空気が変わった。
「誰に?」
レオルがすぐ聞く。
「役人」
マキさんは箱を開ける。
中には土地の売買証。
税の納付書。
結婚記録。
家畜の帳面。
普通の家の書類ばかり。
その底。
折り畳まれた一枚の紙。
「祖母が、『返してもらう時に必要だから捨てるな』って言われたらしい」
フィアが先に内容を読む。
そして。
顔が変わった。
「レン」
紙を渡される。
上部には日付。
約九十年前。
つまり、日本消失から三十年以上後。
その下。
**『旧神話災害対策局・東方史料調査班』**
背中が冷えた。
さらに。
引き取った物品。
**『異邦人・春 証言録 一冊』**
**『東方消失時図絵 三枚』**
**『私記 一束』**
俺の指が震える。
ハル本人が残したものが。
あった。
空の樹を描いた絵まで。
でも。
持っていかれた。
「返ってきた?」
分かっていて聞いた。
マキさんは首を振った。
「一つも」
レオルが紙の下部を見る。
そこには。
銀色の印。
樹。
枝。
幹。
根がない。
そして担当責任者。
名前。
**ヴァル・ヘイム。**
俺たちは、しばらく何も言えなかった。
学院で見つけた名前。
東方資料が大量に「修繕」へ回され、消え始めた時期の文書整理責任者。
偶然じゃない。
ヴァル・ヘイムは。
ヒムカまで来ている。
日本消失を見た生存者の家まで。
「これで少なくとも」
フィアが低い声で言う。
「根のない樹が、何を集めてたかは分かったね」
日本を消した証拠ではない。
そこは大事だ。
日本が消えた時。
この組織がやったとは限らない。
むしろ三十年以上後。
彼らは。
**日本がどう消えたかを知っている証拠を集めていた。**
「危険だから封じた」
セヴァンの言葉を思い出す。
もしかすると。
彼らなりに理由はあった。
でも。
「それなら、なんで返さない」
俺は紙を見る。
貸出でも。
一時保管でもない。
欄外には、小さく追記があった。
**『第一種・再発現危険史料として永久移管』**
再発現。
何が?
日本?
神?
それとも。
空に現れた、あの樹?
さらに下。
引取物の詳細。
証言録。
図絵。
私記。
その中で、一つだけ赤い印が付いている。
**『図絵第二号――銀枝降下図』**
レオルが息を呑んだ。
「やっぱり」
「世界樹?」
俺が聞く。
「まだそうとは言えない」
レオルはすぐ否定する。
でも。
顔は険しい。
銀色の枝。
空から地上へ。
日本消失。
そして現在、この世界を象徴するのは。
銀にも似た巨大な世界樹。
俺は紙を握りそうになり、慌てて力を抜いた。
駄目。
証拠を壊すな。
マキさんが俺たちを見る。
「それ、そんなに大事なのかい?」
「……かなり」
俺は答えた。
「百年以上、よく残してくれました」
「役所の紙なんて捨てたら面倒だって、昔から言うだろ」
フィアが深く頷いた。
「正しいです」
商人と役所の書類に対する信頼がすごい。
でも。
本当にその通りだった。
ヴァル・ヘイムたちは。
ハルの証言を持っていった。
絵も。
日記も。
日本が消えた夜を直接伝えるものを。
でも。
持っていかなかったものがある。
返却証。
土地の帳簿。
そして。
魚の漬け方。
彼らにとって重要ではなかったから。
だから残った。
俺は朝から仕込んだ魚を見る。
百二十五年前の日本人が、この村へ残したかもしれない味。
記録を奪われても。
家族へ伝わった。
料理になった。
食べられ続けた。
消そうとした人間は。
そこまで重要だと思わなかった。
たぶん。
そこが彼らの間違いだった。
文化を残すのは。
偉い本だけじゃない。
世界の真相を書いた証言だけでもない。
「マキさん」
「何だい」
「この魚漬け、作り方を全部書かせてください」
レオルが俺を見る。
「今?」
「今」
「銀の枝の資料が出た直後だぞ?」
「だからだよ」
俺は答えた。
持っていかれた記録は、まだ取り戻せるか分からない。
でも。
目の前に残っているものは。
今、残せる。
「今度は一か所じゃなく」
フィアが続ける。
「何枚?」
「最低四枚」
ナギが笑った。
「また増やすんだ」
「増やす」
日本の国土は消えた。
証言も消された。
それでも。
百二十五年前の男が作った魚の味は。
今日もこの村にある。
だったら。
俺たちが今から残すものは。
もっとしぶとくしてやればいい。
そして同時に。
ヴァル・ヘイムが持ち去った、
**『銀枝降下図』。**
それだけは。
必ず見つける。
日本が消えた夜。
空から何が降りてきたのか。
その答えは。
九十年前に一度。
人間の手へ渡っていた。




