第94話 空に樹が生えた夜
アサヒ村へ向かうことが決まった翌朝。
俺たちは、また荷物をまとめていた。
「ヒムカに来てから、宿にいる時間より歩いてる時間の方が長くない?」
ナギが言う。
「知らなかった歴史が向こうから歩いてきてくれれば楽なんだけど」
「普通は来ないよ」
「だよね」
フィアはすでに旅程と宿泊地を確認し、レオルは白鷺号の記録を複写した紙を防水袋へ入れている。サヨは黙って「ハル」という名前を見つめていた。
百二十五年前。
日ノ本が消えた直後、その海から流れ着いた男。
もしハルが本当に日本人だったなら。
この世界で、俺以外に初めて見つけた「日本で生きていた人間」になる。
もちろん、とっくに亡くなっている。
それでも。
何か残しているかもしれない。
俺たちは北へ向かった。
アサヒ村までは二日半。
海沿いを離れ、川を遡り、低い山を一つ越える。
途中の村で昼食を取った時、保存用の魚を見て少し足が止まった。
塩漬けした川魚を、米と一緒に壺へ詰めている。
「これ何?」
ナギが答える。
「魚飯漬け。山側ではよく作るよ」
酸っぱい香り。
発酵している。
俺の頭に、鮒寿司みたいなものが浮かんだ。
でも今回は我慢した。
「……帰りに詳しく聞く」
フィアが笑う。
「よく耐えたね」
「今は歴史」
「成長した」
みんな最近、俺の成長を珍獣みたいに扱ってない?
二日目の夕方。
アサヒ村が見えた。
小さな山村だった。
棚田はあるが、谷の宿の周辺ほど広くない。その代わり、家の周囲には豆、芋、雑穀の畑が多い。
村の名を示す古い木札には、
**アサヒ**
とだけ書かれていた。
朝日。
日本語にしか見えない。
でも、今は名前だけで結論を出さない。
村長へ事情を話す。
「百二十五年前に、ハルという男がこの村へ来た記録があります」
老人は首を傾げた。
「ハル……」
しばらく考えて。
「ああ。海爺の話か」
俺の心臓が跳ねた。
「知ってるんですか?」
「本人を知るわけないだろ」
当然だ。
「村の昔話だ。海から流れてきた爺さんが、この村で暮らしたって」
残ってる。
本当に。
村長は一軒の家へ俺たちを案内した。
村の外れ。
古い柿に似た木の横にある、小さな家。
出てきたのは、六十代くらいの女性だった。
名をマキという。
「ハルは、私の曾祖父の祖父……だったかね」
遠い。
でも血はつながっている。
マキさんは俺たちを家へ入れた。
壁には古い農具。
木の棚。
食卓。
そして。
一番奥に、一枚の黒ずんだ板が掛けられていた。
文字がある。
俺は一目で読めた。
**春。**
ハル。
漢字の「春」。
息が止まる。
「その字……」
「海爺が自分の名前だって言ってたらしいよ」
確定した。
少なくとも。
ハルは、日本の文字を使った人間だった。
俺は椅子へ座った。
力が抜けそうになる。
同じだ。
俺だけじゃない。
百二十五年前。
この世界に、日本人がいた。
マキさんがお茶を出してくれる。
「それで、海爺の何を知りたいんだい?」
レオルがまず説明した。
日ノ本との交易。
白鷺号。
救助記録。
切り取られた証言。
マキさんは黙って聞く。
「……国の話か」
「伝わっていますか?」
サヨが聞いた。
「少しね」
マキさんは遠い目をした。
「子供の頃、祖母から聞いた。海爺は東にあった島の生まれだったって」
「島の名前は?」
俺が聞く。
声が少し強くなった。
マキさんが俺を見る。
「ニホン」
胸の奥を殴られたみたいだった。
二度目。
今度は木札じゃない。
人の口から。
百年以上、家族の中で伝わってきた名前。
「どんな国だって?」
フィアが静かに聞く。
マキさんは笑った。
「それがね。大した話じゃない」
「大した話じゃない?」
「魚がうまい。米を食う。山が多い。冬は寒い場所もある。祭りが多い」
普通だ。
あまりにも。
普通の日本だ。
英雄の国でも。
神々の聖地でもない。
そこで生まれた一人の男が家族へ話した、故郷の話。
「海爺は、その国へ帰りたがっていましたか?」
サヨの質問だった。
マキさんの笑みが消える。
「最初は」
最初は。
「何年も、東の海を見に行ってたらしい。でも途中からやめた」
「なぜ?」
「ないからだよ」
短い答えだった。
海へ行く。
何度見ても。
故郷がない。
俺は膝の上で手を握った。
もし俺だったら。
同じことをしただろうか。
何度も地図を見る。
何度も海を見る。
「でも」
マキさんが続ける。
「一つだけ、絶対に話したがらないことがあった」
空気が変わる。
レオルが記録を取り出す。
「日本が消えた夜?」
マキさんが頷く。
「寝言では何度も言ったらしいけどね」
「何を?」
「樹だよ」
俺たちは黙った。
また。
樹。
「空に、大きな樹が生えたって」
鳥肌が立つ。
「どういう意味です?」
レオルが聞く。
「さあ。昔話だから」
マキさんは苦笑する。
「祖母から聞いた通りなら、海爺はこう言った」
彼女は記憶を探すように、ゆっくり話した。
夜。
空が明るくなった。
雷のような音。
雲の向こうから、白銀の枝が伸びた。
一本ではない。
何本も。
空を覆うほど。
その枝は。
**下へ伸びていた。**
俺は息を止めた。
「下?」
フィアが聞く。
「空から地面へ、根を張るみたいに」
根。
世界樹。
俺の頭に、神殿の像が浮かぶ。
枝は天。
根は地中。
でもハルが見たのは。
空から。
逆向きに。
「そのあと?」
サヨの声が小さい。
「地面が光った」
マキさんが言う。
「海爺の村も。山も。遠くの町も。白くなって――」
一度、言葉を切る。
「音が消えた」
「音?」
「そう伝わってる」
雷鳴が鳴り響いていたのに。
突然。
何も聞こえなくなった。
人の声も。
波も。
風も。
そして。
ハルは船の上にいた。
沖へ出ていたらしい。
船から陸を見ていた。
「国が消えた瞬間を?」
俺が聞いた。
マキさんは俺を見る。
「そうだと思う」
俺の喉が鳴った。
「どうやって……消えた?」
「祖母はこう言ってた」
マキさんはゆっくり手を上げた。
机の上の布を掴む。
そして。
引く。
一瞬。
「消えた、じゃない」
布を丸ごと机から外す。
「**抜かれた**」
誰も喋れなかった。
沈んだんじゃない。
焼けたんじゃない。
吹き飛んだんでもない。
ハルには。
世界から。
日本だけが。
抜き取られたように見えた。
俺は気持ち悪くなった。
自分の前世。
最後の記憶。
なぜ死んだ場面がない?
もし。
事故じゃない。
病気じゃない。
日本ごと。
俺の人生が。
そこで切られたなら。
「レン」
サヨの声。
俺は顔を上げる。
大丈夫とは言わない。
「……続き、聞きたい」
マキさんは頷いた。
「その夜の話には、もう一つある」
何だ。
「空の樹の上に、人影を見たって」
レオルが固まる。
「人数は?」
「分からない」
「姿は?」
「それも」
マキさんは首を振る。
「でも、一つだけ海爺が何度も言った言葉が残ってる」
俺たちは待った。
「『人じゃない』」
胸が冷える。
「それだけ?」
「いや」
マキさんは壁の「春」の字を見る。
「もう一つ」
そして。
言った。
「**神様が、国を殺した**」
誰も。
すぐには動けなかった。
これまで。
神々は。
助けてくれる存在でも。
戻ってくる存在でも。
危険な力でもあった。
でも。
初めて。
人間の証言から。
はっきり出てきた。
日本を消したもの。
それは。
人ではない。
神。
ただし。
どの神なのかは、まだ分からない。
日本の神か。
別の神か。
複数か。
ハルの恐怖が、そう見せただけかもしれない。
だから。
断定はしない。
でも。
俺の中で。
何かが変わった。
日本は。
災害で滅びたんじゃないかもしれない。
誰かに。
意思を持って。
消された。
夕方。
マキさんが夕飯を出してくれた。
米と雑穀を混ぜた飯。
川魚。
豆の煮物。
そして。
魚飯漬け。
俺は一口食べた。
酸っぱい。
強い匂い。
でも噛むと、米の酸味の奥から魚の旨味が出る。
「これ」
マキさんが笑う。
「海爺が教えた作り方が元だって言われてるよ」
俺は箸を止めた。
百二十五年前。
故郷を失った男。
帰る場所をなくした。
それでも。
この村で。
魚を漬ける方法を教えた。
飯を食べた。
家族を作った。
子供に話をした。
だから。
今も残っている。
国を殺されても。
その国で覚えた味までは。
殺しきれなかった。
俺は魚飯漬けを、もう一口食べた。
酸っぱい。
でも。
うまかった。
そして。
その夜。
俺は初めて。
日本を消した「神」を。
いつか必ず知ると決めた。




