第93話 消えた国から、帰ってきた船
翌日も、俺たちは共同倉の二階にいた。
百二十五年前、日本との交易が突然途絶えた。
東の空が赤くなった。
海から雷鳴のような音がした。
翌朝には潮の流れが変わり、それまで使えていた航路を船乗りたちが見失った。
そこまでは分かった。
問題は、その先だ。
「救難費が三か月続いてる」
フィアが帳簿を指で追う。
「だったら、実際に船を出して探してるはず」
「救難船の記録か」
レオルが別の木箱を見る。
俺たちは朝から、港税とは別の記録を探していた。
船。
人員。
食料。
修繕。
港という場所は、思っていた以上に帳簿を残す。
一隻の船を出すだけで、人がいる。縄がいる。帆がいる。食料がいる。水がいる。金が動く。
歴史書から国の名前を消せても。
そういう細かい数字を全部消すのは難しい。
「これじゃない?」
ナギが一冊引っ張り出した。
表紙には、
**『東方救難船出納』**
とある。
開く。
最初の救難船。
十三人。
東へ一日半。
成果なし。
二隻目。
二十一人。
旧航路を探索。
海底の深度が従来記録と合わず、帰還。
三隻目。
漂流物を回収。
木材。
布。
割れた陶器。
人なし。
「……日ノ本のものか?」
俺が聞く。
ナギは記録を読む。
「陶器に東方商標あり、だって」
日本から来た可能性がある。
さらに頁をめくる。
四隻目。
五隻目。
何もない。
そして。
フィアの指が止まった。
「これ」
救難開始から十九日後。
一行だけ、他と違う。
**『東方交易船一艘、自力帰港。』**
心臓が跳ねた。
「帰ってきた?」
俺は帳簿へ身を乗り出す。
船名。
**白鷺。**
出港時乗員、三十二名。
帰還時。
十一名。
俺たちは黙った。
ナギが続きを読む。
「帆柱損壊。船腹破損。積荷ほぼ喪失」
「どこから?」
「日ノ本・西ノ津……って書いてある」
日本から。
事件が起きる前に日本へ向かった交易船が。
十九日後。
帰ってきた。
「乗員の記録は?」
レオルが立ち上がった。
そこからさらに一時間かかった。
船員名簿は別箱。
医療記録はまた別。
十一人のうち、重傷者七名。
高熱二名。
火傷。
骨折。
脱水。
そして。
一人。
「……東方人?」
俺はその欄を見る。
白鷺の乗員ではない。
身元不明。
救助者。
男。
推定三十歳前後。
名前。
**ハル。**
日本人の名前かもしれない。
でも、それだけでは決められない。
俺は先を読む。
「この人、どこで拾われた?」
フィアが医療記録と航海報告を照らす。
「白鷺が帰還する途中。海上で浮いていた木材につかまっていた」
「日本人だった可能性は?」
「高い。でも本人の証言がない」
「ない?」
レオルが眉を寄せる。
ナギが小さな文字を読む。
「『言語、東方商人のものに近し。混乱甚だしく、会話成立せず』」
その次。
数日後。
少し回復。
そして。
証言。
俺たちは一行ずつ読んだ。
**『夜、東天に光あり。』**
港守の日誌と一致する。
**『空より大いなる音。』**
これも。
次。
**『海、持ち上がる。』**
俺の喉が乾く。
津波?
あるいは別の何か。
さらに。
**『山々、光の中に隠る。』**
そして。
最後の一文。
途中から文字が薄い。
レオルが灯りを寄せた。
**『空に、樹の枝の如き――』**
そこから先は。
ない。
頁が破れていた。
「破損?」
ナギが聞く。
レオルは紙の端を見る。
「違う」
指で触れずに観察する。
「切られてる」
自然に破れた形じゃない。
直線に近い。
誰かが。
後から。
証言の続きを切り取った。
背中が冷えた。
「いつ?」
俺が聞く。
答えは、別の場所にあった。
記録の裏表紙。
小さな管理印。
銀の樹。
枝。
幹。
そして。
根がない。
誰も喋らなかった。
百二十五年前の事故。
その時点では普通に記録された証言。
そして約九十年前。
根のない樹の組織が、この記録を確認している。
「……やっぱり別だ」
俺が呟く。
フィアが頷く。
「日本が消えた時、この組織はまだ資料を処理してない」
少なくとも、今ある記録ではそう見える。
先に何かが起きた。
人が死んだ。
船が消えた。
土地が消えた。
その数十年後。
別の人間たちが、その痕跡を隠し始めた。
「つまり」
レオルが慎重に言う。
「根のない樹が日本を消した証拠にはならない」
「むしろ」
俺は切り取られた頁を見る。
「消えた後のことを隠した?」
誰かが。
なぜ?
危険だから?
神々が戻るから?
それとも。
知られてはいけない何かが、証言の続きを含んでいたから?
俺はもう一度読む。
空に。
樹の枝のようなもの。
世界樹。
頭に浮かぶ。
学院。
神殿。
大陸のどこへ行ってもある樹の紋章。
ミズガルドを支えると教えられる巨大な世界樹。
まさか。
「レン」
レオルが俺を見る。
「今、何を考えた」
「……世界樹」
誰も笑わなかった。
ナギだけが少し困った顔をする。
「空に樹が見えたから?」
「似てるだけかもしれない」
俺はすぐに言った。
「雷かもしれない。魔力の光かもしれない。瀕死の人がそう見えただけかもしれない」
決めつけない。
今の俺にできるのは。
そこまで。
でも。
胸の奥では。
もっと嫌なものが動いていた。
世界樹。
日本消失。
根のない樹。
同じ「樹」が。
違うところから何度も出てくる。
偶然にしては。
出来すぎている。
その日の夕方。
もう一つだけ、妙な記録を見つけた。
救助されたハルは。
半年後。
ヒムカを離れている。
行き先。
内陸の村。
名前も残っていた。
**アサヒ村。**
「今もある?」
俺が聞くと、ナギが少し考えた。
「名前なら聞いたことある。山を越えた北側」
「子孫は?」
「百年以上前の人だよ?」
「だから調べる」
フィアがすでに紙へ行程を書き始めていた。
レオルがため息をつく。
「また移動か」
「証言の続きが残ってるかもしれない」
記録は切れる。
紙は燃える。
でも。
人は話す。
子供へ。
孫へ。
意味が変わっても。
昔話になっても。
ヒムカで何度も見てきた。
文化は。
記録だけに残るわけじゃない。
俺は切り取られた頁を、もう一度見た。
百二十五年前。
日本が消えた夜。
そこにいた人間が。
一人だけ。
ヒムカへ流れ着いた。
もし。
その人が。
最後まで見たものを誰かへ話していたなら。
俺たちは初めて。
日本を消した瞬間を。
人間の目から知ることができるかもしれなかった。




