第92話 神様より先に、帳簿を調べる
八咫烏が海の向こうへ消えた翌朝。
俺は、白い飯を食べながら考えていた。
**『次は、なぜ消されたかを知れ』**
簡単に言ってくれる。
こっちは「日本が本当にあった」というところへ、ようやく辿り着いたばかりだ。
しかも相手は神様――らしき何か。
普通なら神殿へ行く。
古代の祭壇を探す。
山奥の賢者に会う。
そういう流れなのかもしれない。
でも。
「帳簿、見せてもらえないかな」
俺が言うと、レオルの匙が止まった。
「……何の?」
「昔の港の」
フィアだけが、すぐに反応した。
「交易記録?」
「うん」
ナギが呆れたように俺を見る。
「昨日、三本脚の鳥と喋ってなかった?」
「喋った」
「で、今日は帳簿?」
「神様が『なぜ消えたか調べろ』って言ったから」
「それで帳簿?」
俺は頷く。
「神様より、商人の方が数字残してそうだし」
フィアがちょっと嬉しそうな顔をした。
「それはそう」
レオルは額を押さえた。
「お前たち、神話の謎まで商取引で調べる気か」
「船が行き来してたなら、何か運んでたはずだろ」
昨日見つけた地下貯蔵庫。
米。
塩。
魚。
酒。
御饌。
あそこが祭祀だけの場所だったとは思えない。
港だったなら。
船が着いた。
荷物を下ろした。
積んだ。
税を取ったかもしれない。
保管料を払ったかもしれない。
つまり。
誰かが数えたはずだ。
村長へ聞くと、港の古い記録は海沿いの共同倉へ移されたという。
「残ってるかは知らんぞ」
と言われた。
それでも行く。
共同倉の二階には、木箱が二十以上積まれていた。
潮で傷んだ帳面。
船の修繕記録。
漁獲量。
土地の貸し借り。
何でもある。
フィアの目が輝く。
「これ、全部?」
管理していた老人が笑う。
「好きなだけ読め。ただし戻せよ」
フィアが俺を見る。
「レン」
「何?」
「ここに住みたい」
「商人だなあ」
俺たちはまず、古い港が使われていた年代の箱を探した。
問題は。
日付の形式が途中で変わっていることだった。
古いヒムカ暦。
王国暦。
地方領主の代替わりを基準にした記録。
混ざっている。
俺は五分で諦めた。
「レオル」
「最初から呼べ」
強い。
彼が年号を対応させる。
フィアが帳簿の種類を分ける。
ナギは古いヒムカ語の品名を読む。
俺は――
「レンは?」
フィアに聞かれた。
「料理関係の品名なら分かる」
「じゃあそれ」
適材適所ということにしてほしい。
昼過ぎ。
最初の手掛かりが出た。
古い港の入出荷帳。
百三十年ほど前。
東方面から入っていたもの。
乾燥海藻。
魚油。
塩。
陶器。
木材。
そして。
「これ何?」
俺が指す。
ナギが覗く。
「『白粒』かな」
「米?」
「違うと思う。米なら別に書いてある」
フィアが数量を見る。
「高い」
かなりの値段で取引されている。
何かの加工品か。
それは今は置いておく。
重要なのは。
船の出入りだ。
一か月に数隻。
季節によって増減。
行き先の欄には、島名らしきものが書かれている。
大部分は読めない。
削られているわけではない。
単純に字が古い。
でも。
一つだけ。
俺にも読めた。
**日ノ本。**
息が止まる。
「またある」
昨日の木札だけじゃない。
交易帳簿にも。
国名として。
ちゃんと。
レオルが数字を追う。
「東へ向かう船に何を積んでいた?」
フィアが別の頁を開く。
麦。
鉄。
羊毛。
薬草。
魔石。
ヒムカから日本へ。
逆に東からは。
海産物。
陶器。
酒。
布。
紙。
「普通に交易してる」
俺は呟いた。
当たり前のことなのに。
衝撃だった。
神話じゃない。
伝説でもない。
誰かが商品を売った。
誰かが買った。
代金を払った。
船乗りが往復した。
日本は。
普通の国として、ここにあった。
「次の年」
フィアが頁をめくる。
まだある。
さらに翌年。
ある。
船は少し減る。
でも続いている。
さらに。
「……待って」
フィアの手が止まった。
ある年の途中。
記録が。
消えた。
正確には。
日ノ本行きだけが消えている。
他の航路は残っている。
北の港。
南の島。
川沿いの交易。
全部通常通り。
でも。
東だけ。
ある月を境に。
ゼロ。
「嵐?」
ナギが言う。
「港が壊れたとか」
「だったら翌月以降に再開するかもしれない」
レオルが次の帳面を取る。
翌月。
なし。
半年後。
なし。
一年後。
なし。
二年後。
なし。
俺の背中が冷たくなる。
「船が沈んだだけじゃない」
フィアの声も低い。
交易相手そのものが。
消えた。
さらに調べる。
その年の港税。
異常なし。
ヒムカ側で大災害が起きた記録もない。
船の建造数。
通常。
海難事故。
多くない。
なのに。
東方交易だけが。
突然終わる。
「日付、どのくらい前?」
俺が聞く。
レオルが対応表を確認した。
「およそ百二十五年前」
全員が黙った。
百二十六年前。
学院で見つけた航海記録には、東の島影が描かれていた。
そして。
約百二十五年前。
交易が途切れる。
なら。
その間に。
何かが起きた。
「その後、九十年くらい前に資料の処理が始まる」
フィアが言った。
俺も気づいた。
根のない樹。
ヴァル・ヘイム。
東方資料の移管。
削除。
封印。
つまり。
順番が違う。
先に日本が消えた。
その数十年後。
日本に関する記録まで消され始めた。
「……二段階」
俺が呟く。
レオルが頷く。
「そう考えるのが自然だ」
怖い。
ずっと。
誰かが日本を歴史から消したのだと思っていた。
でも。
違う。
最初に。
**土地そのものが消えた。**
その後。
**残った記憶まで消そうとした。**
別の事件なのか。
同じ者たちの後始末なのか。
まだ分からない。
「これ」
ナギが別の帳面を指した。
交易が途絶えた直後。
港の出費記録。
一気に増えている項目がある。
「救難?」
遭難船の探索。
東海岸の監視。
漂流者の保護。
三か月続いている。
人々は、何が起きたか分からなかったのだ。
船が帰ってこない。
向こうから船も来ない。
だから探した。
さらに一冊。
港守の日誌。
字が汚い。
急いで書いたような線。
ナギがゆっくり読む。
「『東へ出した三艘、戻らず』」
次。
「『水平線、赤し』」
俺の指が止まる。
赤い?
「続き」
「『夜半にもかかわらず東天明るく、雷鳴のごとき音、海より届く』」
誰も喋らない。
さらに翌日。
**『沖の潮、逆巻く。』**
その次。
**『東方へ向かうも、海深く、旧航路を見失う。』**
レオルが顔を上げた。
「旧航路を……見失う?」
船乗りは地図だけで進まない。
潮。
風。
深さ。
星。
山影。
全部を使う。
それが。
突然使えなくなった?
俺の頭に。
嫌な想像が浮かんだ。
土地が沈んだ。
いや。
日本列島全部が一晩で?
そんな規模。
自然災害で説明できるのか?
魔法なら?
この世界なら。
神なら?
「レン」
フィアが呼ぶ。
俺は無意識に拳を握っていた。
「大丈夫じゃない」
先に言う。
フィアが少し笑った。
「学習したね」
「怖いよ」
俺は帳簿を見る。
百二十五年前。
その日までは。
人が住んでいた。
米を食べて。
魚を獲って。
酒を造って。
商売していた。
それが。
ある日。
なくなった。
俺の前世の記憶は。
高校生だったところで途切れている。
死んだ記憶がない。
事故も。
病気も。
最後の日すら。
はっきりしない。
ただ。
次に気づいた時には。
赤ん坊だった。
今まで。
転生とはそういうものなのだと思っていた。
でも。
もし。
俺が死んだんじゃないとしたら?
日本そのものが。
俺ごと。
「消された」のだとしたら?
身体が冷えた。
そこまで考えて。
俺は口を閉じた。
フィアたちに言える話じゃない。
まだ。
サヨだけが、少し遠くから俺を見ていた。
彼女だけは。
俺が日本をただ「知っている」わけではないと知っている。
目が合う。
サヨは何も言わなかった。
夕方。
俺たちは帳簿の該当箇所をすべて複写した。
日付。
船数。
荷物。
交易額。
救難費。
港守の日誌。
一つの資料だけなら。
読み違いかもしれない。
でも。
税の帳簿。
船の記録。
倉庫の入出荷。
救難費。
別々の人間が。
別々の目的で書いた記録が。
同じ時期を指している。
これなら。
かなり強い。
「神話を調べてるのに」
帰り道。
俺は言った。
「一番怖いのが会計帳簿ってどうなんだろ」
フィアが真顔で答えた。
「会計帳簿は怖いよ」
「意味が違う」
ナギが笑う。
レオルは複写した紙を抱えたまま、まだ考え込んでいた。
「学院へ送る」
「うん」
「ただし、原本の場所は広めすぎない」
俺も頷く。
祭りの件以来。
「見つけたから広める」ではなくなった。
知識には扱い方がある。
残す。
でも。
無防備に晒さない。
そのバランスを。
俺たちはまだ学んでいる途中だ。
宿へ戻ると。
夕飯は白飯と焼き魚だった。
俺は米を一口食べる。
百二十五年前。
海の向こうでも。
誰かが同じように夕飯を食べていたはずだ。
その人たちは。
次の日も普通に来ると思っていた。
妹も。
両親も。
俺も。
そうだったのかもしれない。
胸が痛い。
でも。
箸は置かなかった。
食べる。
考えるために。
調べるために。
次へ進むために。
八咫烏は言った。
なぜ消されたかを知れ。
その答えはまだ遠い。
でも。
一つだけ。
はっきりした。
日本は。
ゆっくり衰えて消えたんじゃない。
ある日まで、普通に生きていた。
そして。
その翌日には。
海の向こうから。
いなくなっていた。




