第91話 日本は、ここに残っていた
地下の貯蔵庫で「御饌」の文字を見つけた翌朝。
俺たちは、村長とゴウザの許可を得て、もう一度旧港へ入った。
今度は探索ではない。記録だ。
崩れかけた木札には触れない。壺も動かさない。床に落ちたものさえ、まず位置を紙へ写す。昨日なら興奮して奥へ走っていたかもしれないが、今はそれができない。
祭りで失敗した。
一つの石を動かしただけで、何が起きたか分からない。
だから。
見る。
残す。
それから考える。
「成長したな」
レオルが言った。
「なんで上から?」
「何年付き合ってると思ってる」
何も言い返せなかった。
サヨは石台の前に立ち、周囲をゆっくり確認している。
「祭壇に似ています。でも、村のものとは少し違う」
「どこが?」
「供え物を置く場所が多いです」
確かに。
中央の石台だけではない。
壁際にも低い棚が並び、その一部には壺を固定した跡が残っている。
フィアが床を見る。
「荷物の倉庫と、祭祀用の場所が一緒だったのかな」
「港だからかも」
俺は答えた。
船へ積む食料。
旅の安全を祈る供物。
あるいは。
海の向こうから来たものを、ここで神様へ返していた。
まだ分からない。
分からないから、決めつけない。
一つずつ見る。
最初に見つかったのは、小さな升だった。
木は黒ずんでいるが、形は残っている。
次に、割れた壺。
底には白い結晶が付着していた。
「塩かな」
ナギが指で触れようとする。
俺とレオルが同時に言った。
「触るな」
「……二人とも面倒くさくなったね」
「褒め言葉として受け取る」
さらに棚の奥。
乾燥した植物片。
魚の骨。
炭化した穀物。
保存状態は悪い。
それでも。
何を置いていた場所なのかは見えてくる。
食べ物だ。
武器でも。
宝石でも。
王の財宝でもない。
この地下に残っているものの大半は、飯だった。
そして昼近く。
サヨが一枚の薄い木板を見つけた。
壁と棚の隙間に挟まっている。
動かせば崩れる可能性がある。
だから、そのまま読む。
表面の文字はほとんど消えていた。
俺は灯りを正面から当てる。
見えない。
角度を変える。
少し。
さらに低く。
細かな凹凸に影が落ちる。
「またそれか」
レオルが呟いた。
「使える方法は何度でも使う」
「否定はしてない」
文字が浮く。
一行目。
米。
二行目。
塩。
三行目。
魚。
「……菜」
サヨが読む。
その下。
酒。
俺の指が震えた。
前世。
祖父の神社。
祭事の朝。
神饌を用意する手伝いをしたことがある。
米。
酒。
魚。
海菜。
野菜。
塩。
地域や神社で違いはある。
俺だって専門家じゃない。
でも。
並びが。
あまりにも。
「レン?」
フィアが聞く。
俺は首を振った。
「まだ」
まだだ。
似ているだけなら。
偶然かもしれない。
もっと見る。
木板の右端。
そこに、さらに薄い文字があった。
「灯り、もう少し右」
レオルが調整する。
影。
線。
文字。
俺の呼吸が止まった。
最初に見えたのは。
日。
それは学院の航海記録でも見た。
次。
ノ。
そして。
本。
俺は動けなかった。
日本。
今まで。
日だけだった。
本かもしれない文字だった。
削られた跡だった。
地図の空白だった。
でも。
今は。
二文字が。
つながっている。
「レン」
フィアの声。
「読める?」
答えようとして。
声が出なかった。
俺はもう一度見る。
何度も。
間違えたくない。
願望で読んでいないか。
古い字形。
傷。
欠け。
サヨにも確認してもらう。
彼女は「日」は読める。
「本」は、俺が教えた形と照らす。
レオルは周囲の文字位置を記録する。
そして。
木札の上に残っていた一文が、ゆっくり形になった。
**『日ノ本ノ御饌』**
日ノ本。
日本。
「……あった」
声が震えた。
「何が?」
ナギが聞く。
俺は木札を見たまま答えた。
「日本」
その名前を口にした。
何かが起きるかもしれない。
一瞬、身構えた。
でも。
光らない。
揺れない。
石も。
壺も。
海も。
何も。
ただ。
俺だけが、震えていた。
「それが」
フィアが静かに聞く。
「レンがずっと探してた名前?」
俺は彼女を見る。
言える範囲で。
「うん」
それ以上は、まだ言えなかった。
俺がそこで生きていたこと。
家族がいたこと。
十七歳まで。
ある日突然、その人生が途切れたこと。
全部。
でも。
今は。
一つだけ。
言えた。
「本当に、あった」
フィアは何も追及しなかった。
ただ。
「そっか」
とだけ言った。
それがありがたかった。
サヨは口元を押さえていた。
彼女にとっても。
受け継いできたものが、どこにつながっていたのか。
初めて名前になった。
「日本」
サヨも言う。
その声は。
祈りではなかった。
確認するような声だった。
ナギが俺たちを見る。
「ニホン?」
「うん」
「人の名前?」
「国の名前」
ナギの眉が寄る。
「国?」
「昔、あった」
そう答えた瞬間。
胸の奥が痛んだ。
あった。
過去形。
でも。
本当にそうなのか?
地下の調査が終わったのは、夕方だった。
木札はそのまま保存することになった。
村長には、文字の内容も説明した。
今のところ、誰かが持ち出すことはしない。
複写だけ。
一枚は村。
一枚は学院へ。
一枚は俺たち。
もう一枚はヒムカ側の祭守にも確認してもらう。
「また増やすの?」
ナギが聞いた。
「増やす」
「相変わらずだね」
一つしかなければ。
燃えたら終わる。
持っていかれたら終わる。
削られたら終わる。
なら。
増やせばいい。
夜。
ゴウザの家で夕飯が出た。
俺は、しばらく箸を動かせなかった。
白い飯。
ミソの汁。
焼いた魚。
塩漬けの野菜。
シオバの和え物。
昨日までなら。
ヒムカの料理だと思って食べていた。
今もそうだ。
これはヒムカの料理だ。
日本料理ではない。
同じではない。
味も。
材料も。
作り方も。
全部変わった。
でも。
地下で見つけた木札。
米。
塩。
魚。
菜。
酒。
そして。
日ノ本ノ御饌。
俺は目の前の膳と。
百年以上前の記録を頭の中で並べた。
似ている。
違う。
でも。
つながっている。
その時。
やっと分かった。
俺は、地下に「日本が残っていた」と思っていた。
違う。
あの木札は。
ただの証拠だ。
日本という名前が、本当に存在した証拠。
でも。
残っていたものは。
地下だけじゃない。
「レン?」
ナギが見る。
俺はミソ汁を一口飲む。
ナギの家とは少し違う。
魚のだしが強い。
海沿いの味。
「……うまい」
「急に何?」
次。
米。
塩漬けの野菜。
魚。
食べる。
全部。
誰かが今日も作っている。
誰かが子供に教えている。
水田を直す。
米を炊く。
ミソを仕込む。
むすびを持って田へ行く。
祭りに飯を供える。
意味を忘れても。
神様の名前を忘れても。
続いている。
「日本」
俺は小さく言った。
フィアだけが聞いた。
「見つかった?」
少し考える。
それから。
首を振った。
「見つかったけど……たぶん、思ってたのと違った」
「どう違うの?」
俺は食卓を見る。
「昔のまま残ってると思ってた」
日本という箱があって。
どこかへ隠されていて。
見つければ取り戻せる。
そんなふうに。
どこかで考えていた。
でも。
ヒムカにあったのは。
変わったものだった。
別の名前になった。
違う味になった。
別の土地の人間が、自分たちの暮らしとして育ててきた。
「これを」
俺はミソ汁を見る。
「『昔はこうだったから直さなきゃ』って言ったら、違うと思う」
ナギが怪訝そうにこっちを見る。
聞こえていたらしい。
「何の話?」
「ミソ」
「直す?」
「例えば、昔の作り方が見つかったとして」
俺は言う。
「それが今のミソと違ったら、昔の方に戻したい?」
ナギは一秒も迷わなかった。
「両方作る」
俺は笑った。
「だよな」
強い。
それでいい。
昔の味を再現してもいい。
今の味も残す。
新しい味を作ってもいい。
どれか一つを正解にしなくていい。
それこそ。
消すことの反対なのかもしれない。
食事が終わる頃。
外で鳥の声がした。
一度。
低く。
聞き覚えのある声。
俺は立ち上がった。
「レン?」
外へ出る。
月。
海。
暗い水平線。
屋根の上に。
黒い鳥がいた。
三本の脚。
八咫烏。
今度は見間違えない。
サヨも後ろから出てきた。
フィア。
レオル。
ナギも。
鳥は俺を見る。
そして。
声がした。
耳からではない。
頭の奥へ。
直接。
**『名は残った』**
息を呑む。
八咫烏の黒い羽が、月明かりを弾く。
**『次は、なぜ消されたかを知れ』**
「なぜ……?」
俺が聞く。
返事はない。
黒い鳥が飛ぶ。
海へ。
東へ。
日本があったはずの。
何もない海へ。
俺は追わなかった。
ただ。
見送った。
名前は見つけた。
日本。
本当に存在した。
そして。
その文化は。
完全には死んでいなかった。
ヒムカの田んぼに。
蔵に。
祭りに。
毎日の食卓に。
形を変えて。
誰にも日本だと知られないまま。
残っていた。
でも。
まだ分からない。
なぜ。
土地ごと。
歴史ごと。
神々ごと。
消さなければならなかったのか。
俺は暗い海を見る。
料理を探していたはずなのに。
気づけば。
世界そのものの傷口まで来ていた。
それでも。
やることは変わらない。
見つける。
確かめる。
残す。
そして。
腹が減ったら、飯を作る。
俺は振り返った。
家の中には。
まだ少し、白い飯が残っている。
「戻ろう」
フィアが聞く。
「いいの?」
「飯が冷める」
レオルが呆れた。
ナギが笑った。
サヨも。
それでいい。
神様の謎があっても。
消された国があっても。
人は腹が減る。
そして。
食卓が続く限り。
日本は。
まだ完全には、終わっていなかった。




