第90話 海の向こうに、何もない
ヒムカの東端へ向かうことになったのは、レオルが持ってきた学院資料の中に、一枚の古い航路図が入っていたからだ。
俺たちが大図書館で見つけた、百二十六年前の東方航海記録。その複写だった。
三本足の鳥。
島々。
削られた文字。
そして、本来なら日本があったはずの海。
ヒムカの海岸線と照らし合わせれば、もう少し何か分かるかもしれない。
「片道三日」
フィアが旅程表を見る。
「今度はちゃんと予定通り動いてね」
「俺、そんな予定壊す?」
レオルとサヨが同時に俺を見る。
何も言わない。
その沈黙の方がひどい。
ナギも同行することになった。東岸には親戚がいて、海沿いの食材や交易事情にも詳しいらしい。
宿を出て二日目。
山が低くなった。
川が広くなる。
空気に塩の匂いが混じり始める。
そして三日目の昼。
森を抜けた。
海が見えた。
俺は足を止めた。
青い。
広い。
それだけだった。
島がない。
山影もない。
水平線まで。
何も。
「……本当に、ない」
声が漏れた。
フィアが隣に立つ。
「何が?」
「いや」
首を振る。
俺の記憶の中には地図がある。
北海道。
本州。
四国。
九州。
細かい島々。
ヒムカがどの辺りに当たるのか、正確には分からない。
この世界の地形自体、前世の地球とはかなり変わっている。
それでも。
東を見れば。
何かある気がしていた。
そんな期待が、どこかにあったらしい。
でも。
ない。
海の向こうに、日本はなかった。
東岸の集落は小さな漁村だった。
家々は風を避けるため低く、屋根には重石が置かれている。浜には細長い舟が並び、魚を干す棚が延々と続いていた。
ナギの親戚だという漁師、ゴウザは俺たちを見るなり言った。
「沖を調べる?」
六十くらいの、日に焼けた男だ。
「やめとけ」
「危ないんですか?」
レオルが聞く。
「東の沖は潮がおかしい」
ゴウザは海を見る。
「岸から一日くらいならいい。その先は急に深くなる。風も読めん。昔から東へ長く出る船は少ない」
「島は?」
俺は聞いた。
「見たことある?」
「ない」
即答。
胸の奥が少し沈む。
でもゴウザは続けた。
「爺さんは、もっと昔には見えたって言ってたがな」
俺の顔が上がる。
「何が?」
「東の山」
全員が黙った。
「島じゃなくて?」
「知らん。爺さんも自分で見たわけじゃない。その爺さんの爺さんが、晴れた朝には遠くに黒い山が見えたって」
伝承。
それだけだ。
証拠にはならない。
でも。
百二十六年前の航路図には、東に島影が描かれている。
レオルがすぐ書類筒を開いた。
「この岬、分かるか?」
複写した地図を見せる。
ゴウザが覗き込む。
「古いな」
「今の海岸と比べたい」
俺たちは、その日の午後から岬を歩いた。
昔の地図。
今の簡易地図。
目印になる山。
川の出口。
岬の形。
完全には一致しない。
百年以上あれば、川筋も浜も変わる。
それでも、大きな地形は残る。
「この二つの山」
レオルが指す。
海側から見ると重なる。
航海記録にも、
**『二峰重なるところより東へ進む』**
とある。
「ここだ」
俺たちは丘へ登る。
ナギが息を切らしながら言った。
「料理人って、なんで海見に来て山登ってるの?」
「俺も時々分からない」
頂上で方位を取る。
学院から借りた簡易方位具。
太陽。
古い記録にある星の位置。
航海日数。
船の速度。
もちろん誤差は大きい。
「当時の船がどれくらい進んだか正確じゃない」
レオルが言う。
「風も潮も不明だ」
「でも、全部間違ってたとしても」
俺は地図を見る。
航海記録には、東へ進んだ翌朝。
**『高き島影、南東に見る』**
とある。
さらに、その次の日。
別の島。
そして西へ帰還。
もし単なる雲なら。
二日続けて、位置まで記録するだろうか。
航海士が何度も同じ間違いをするだろうか。
俺は距離を仮定して線を引く。
最短。
最長。
かなり幅を持たせる。
それでも。
島影があったとされる範囲は。
現在。
完全な海だった。
レオルが長く黙った。
やがて言う。
「測量誤差だけで説明するのは、少し苦しいな」
その一言で。
背中が震えた。
あると思いたいから。
俺だけがそう見ているんじゃない。
「じゃあ、本当に……」
フィアが海を見る。
「昔は、何かあった?」
「可能性は高くなった」
レオルは慎重だ。
「まだ断定はできない」
それでいい。
断定しなくていい。
でも。
日本は最初から存在しなかったわけじゃない。
少なくとも、この世界になってから。
誰かが。
東の海で。
陸地を見た。
俺は水平線を見る。
何もない。
そこが、急に怖くなった。
国って。
土地って。
本当に消せるのか?
歴史から名前を削るだけじゃない。
海の上から。
物理的に。
そんなことが。
「レン」
フィアの声で戻る。
「顔色悪い」
「大丈夫」
言ってから、やめた。
最近、その言葉は信用しないことにしている。
「……ちょっと、怖い」
フィアは何も聞かなかった。
ただ隣に立った。
夕方。
村へ戻る途中。
ゴウザが、丘の下にある崩れた石壁を指した。
「そこ、昔の港だぞ」
「港?」
今の浜から少し離れている。
「地面が上がったのか、潮が変わったのか知らん。百年くらい前には使わなくなったって」
俺たちは当然のように寄った。
「また始まった」
ナギが呆れる。
石壁。
朽ちた杭。
半分土に埋まった倉庫跡。
建物はほとんど崩れている。
でもトーマがいたら喜びそうな石造りの基礎が残っていた。
レオルが壁際を調べる。
「こっち、空洞がある」
「地下?」
土を掘る。
人一人が通れる石段が出てきた。
勝手に入るわけにはいかないので、ゴウザと村長へ確認する。
「古い倉だろ。危ないぞ」
「中を見るだけなら?」
「壁崩すなよ」
許可をもらった。
灯りを持って降りる。
地下は涼しかった。
棚。
割れた壺。
木箱の跡。
穀物を入れていたらしい大きな陶器。
港の貯蔵庫。
そう思った。
でも。
奥へ行くほど、作りが変わる。
床が整っている。
棚が低い。
中央に、平たい石台。
サヨが立ち止まった。
「ここ……」
「祭祀?」
「分かりません。でも、普通の倉庫ではないと思います」
壁際に木の板が落ちていた。
腐っている。
触れば崩れそうだ。
俺は近づかず、灯りを低くする。
斜めから光を当てた。
表面の傷が影になる。
文字。
古い。
でも。
読める。
一文字目。
御。
二文字目。
饌。
俺の息が止まった。
「レン?」
レオルが聞く。
俺は板から目を離せなかった。
「……読める」
「何て?」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「みけ」
サヨの目が大きくなる。
「御饌……?」
神に供える食事。
神饌。
俺が前世、神社で何度も見た言葉。
米。
魚。
塩。
酒。
食べ物。
ここは。
ただの港の倉庫じゃない。
誰かが。
神様へ食べ物を供えるために使った場所だ。
そして。
その海の向こうには。
今は何もない。
俺は木札を見る。
胸の奥で。
懐かしさより先に。
恐怖が大きくなっていく。
日本の痕跡へ近づくほど。
「消された」という言葉が。
比喩ではなくなっていた。




