第89話 味噌蔵に魔術師を入れた結果
レオルがヒムカへ到着した翌朝。
俺たちはイヨ婆さんの住む山の集落へ向かった。
「着いた翌日に山登りをさせられるとは思わなかった」
レオルが不満そうに言う。
「東方調査の補助員なんだろ?」
「東方調査と、お前の後始末は同じ仕事じゃない」
「でも祭壇が光ったのは東方の異常魔力だし」
「原因の一部がお前だろ!」
正論だったので黙る。
隣を歩いていたナギが、俺とレオルを見比べた。
「レンって学院でもこんな感じだったの?」
フィアが即答した。
「もっとひどかった時期もある」
「フィア?」
味方がいない。
山の集落は、谷の宿から半日ほど登った場所にあった。
田んぼは少ない。その代わり、斜面には豆とサラの畑が広がり、家々の裏には小さな発酵蔵が建っている。
イヨ婆さんが見せてくれた古い帳面は、期待していたほど親切なものではなかった。
神の名前。
祭祀の意味。
そういうものは、ない。
ただ、百年近く前の記録に一行だけ。
**『旧称ミコ、以後これを祭守と定む』**
とあった。
理由は書かれていない。
誰が命じたかも分からない。
けれど年代は、学院で追っていた根のない樹の資料が大量に処理された時期と近い。
サヨは、その一行を長い間見つめていた。
「消えたんじゃなくて……変えられた」
レオルが言う。
「可能性は高い。ただし、この一冊だけで誰が変えたかまでは断定できない」
そこは変わらない。
証拠が一つ増えた。
それだけだ。
でもサヨにとっては大きかった。
自分の家では残った「巫女」という呼び名が、ヒムカでは意図的に別の言葉へ置き換えられた可能性がある。
それでも役目そのものは残った。
人間、しぶとい。
俺は少し嬉しくなった。
その一方で。
俺たちを山まで案内してくれたナギは、帳面より隣の蔵を気にしていた。
「イヨ婆さん、この桶まだ開けてない?」
「秋まで待つ」
「去年の夏仕込み?」
「そうだ」
俺も見る。
大きなミソ桶。
そして。
レオルを見る。
レオルも俺を見る。
嫌な予感を察知したらしい。
「何だ」
「ちょうど魔術師が来た」
「嫌な言い方をするな」
「温度測れる?」
「測れるが」
「蔵ごとの温度差も?」
「できる」
ナギが俺を見る。
俺はナギを見る。
数秒後。
レオルはため息をついた。
「……何を始める気だ」
俺とナギは同時に答えた。
「ミソ」
その日の午後には、研究場所が谷の宿のミソ蔵へ移っていた。
レオルは最初こそ呆れていたが、過去の仕込み記録を見せると顔つきが変わった。
入口近くの桶は、夏に失敗しやすい。
奥は比較的安定。
冬は逆に、場所によって熟成が極端に遅くなる。
材料の差もある。
塩の量も違う。
さらに、ナギ一家は毎年「いい桶」の一部を次の仕込みへ混ぜることがあるらしい。
「それ、重要じゃない?」
俺が聞くと、ナギは首を傾げた。
「そう?」
「いい年のミソを次にも入れるんだろ?」
「香りが落ち着くから」
前世の俺なら、種菌とか酵母とか、そういう言葉を思い浮かべる。
でも、このミソで何が働いているのかは分からない。
菌なのか。
複数なのか。
魔力まで関係しているのか。
だから断言はしない。
「少なくとも、条件の一つとして記録しよう」
レオルが紙へ項目を増やした。
材料。
塩。
仕込み日。
桶。
蔵の位置。
過去のミソを混ぜたか。
そして温度。
ここで、魔術師の出番だった。
レオルは小さな測定石を蔵の三か所へ設置し、一定時間ごとに温度変化を記録できるようにした。
ナギが感心する。
「ずっと見てなくていいの?」
「簡単な記録術式だ。研究室では普通に使う」
俺はちょっと胸を張る。
「すごいだろ」
「なんでレンが威張るの」
そうだった。
さらにレオルは蔵の壁へ手を当てた。
「この壁、昼と夜でかなり熱が出入りしてるな」
「じゃあ保温の魔法をかければ?」
ナギが言う。
レオルも頷きかけた。
俺は止めた。
「待って」
二人が見る。
「魔法で一定の温度を維持するの、ずっと魔力食わない?」
レオルが少し考える。
「食う」
「だったら、まず外の暑さ寒さが入ってこないようにした方が安くない?」
学院で散々やった。
断熱。
大鍋。
冷却箱。
倉庫。
熱は、勝手に移動する。
だったら力ずくで戻し続けるより、逃げにくくする。
「壁を二重にして、間に乾いた藁か布を入れるとか」
トーマがいれば、たぶん十分で試作まで終わっていた。
いないのが惜しい。
でも宿の主人と村の大工がいる。
試験用に、小さな発酵棚だけ二重壁で囲うことになった。
フィアは横から別の数字を出す。
「魔石を一年使う費用と、壁を改修する費用を比べよう」
レオルが言う。
「お前たち、本当に何でも金と燃料へ戻すな」
フィアは平然としている。
「続かなかったら意味ないでしょ」
それだ。
学院で何度も学んだ。
一回成功するだけじゃ駄目。
普通の人が、何年も使える方法にする。
数日後。
小さな試験桶を三つ仕込んだ。
同じ豆。
同じサラ。
同じ塩。
同じ量。
ナギが材料を混ぜる。
俺が重量を確認。
フィアが費用と作業時間を記録。
レオルが温度を記録する。
一つは従来の蔵入口。
一つは蔵奥。
一つは断熱した試験棚。
「これで全部同じ味になる?」
ナギが聞く。
「ならないと思う」
俺は答えた。
「即答?」
「味を決めるもの、温度だけじゃないから」
桶も違う。
空気も。
見えない何かも。
それに職人の仕事もある。
「でも、失敗する理由を一つずつ減らせるかもしれない」
ナギは少し考えて。
「それなら分かる」
数値化は、職人を消すためじゃない。
職人が毎年戦っている「分からない」を、一つずつ減らすためだ。
それから一週間。
大きな味の変化が出るには早すぎる。
それでも、差は見え始めた。
入口の桶は、昼になると温度が大きく上がる。
夜に下がる。
奥は低いが安定。
断熱棚は、その中間。
何より。
変化が小さい。
レオルが記録を見せた。
「外気が六上下しても、棚の中は二程度だ」
ナギの父親が目を丸くした。
「魔法なしで?」
「なし」
俺が答える。
「壁だけ」
父親は二重にした板を叩く。
何度も。
「……ただの藁だぞ」
「そのただの藁が仕事してる」
こういう瞬間が好きだ。
派手な魔法がない。
光らない。
音もしない。
でも。
ちゃんと効いている。
**「見たか。こいつの戦闘力は藁だ」**
レオルが俺を見る。
「戦闘力が藁とは何だ」
「強いってこと」
「一番弱そうな表現だぞ」
ナギが笑った。
ただ、ここからが彼女の領域だった。
数日目の朝。
ナギが試験桶の蓋を開け、匂いを嗅いだ。
一つ。
二つ。
三つ。
そして入口の桶で止まる。
「これ、嫌な感じ」
俺はすぐ帳面を見る。
「またそれ?」
「嫌なものは嫌」
でも。
今回は数字がある。
入口の桶だけ、前日に温度が大きく跳ねていた。
レオルが気づく。
「一致してる」
ナギも見る。
「私の鼻と?」
「今のところは」
俺はちょっと興奮した。
「じゃあ次から、ナギが嫌だと思った時の温度変化も全部残そう」
ナギが眉を寄せる。
「私の鼻を数字にする気?」
「鼻は残す」
「でも数字も?」
「残す」
少し考えて、俺は言った。
「ナギがいなくても数字は見られる。でも数字だけじゃ、いいミソかどうかは分からない」
彼女の目を見る。
「両方あった方が強い」
ナギはしばらく黙っていた。
やがて。
「……それならいい」
許可が出た。
その夜。
ナギの父親が去年の失敗桶を出してきた。
食べられないほどではない。
でも酸味が強く、香りが荒い。
今年の若いミソと少量ずつ合わせ、汁にして比べる。
ナギが調整。
俺がだし。
レオルが温度。
フィアは一食あたりの値段。
完成。
宿の客へ小さな椀で試食してもらった。
「いつもより丸いな」
「香りがいい」
「去年のやつ入ってるのか? 分からんな」
ナギの父親が驚いている。
捨てる予定だった桶が。
全部ではないにしても、使える。
しかも、今年の仕込みは失敗を減らせる可能性がある。
フィアの計算では、廃棄が少し減るだけでも宿の利益はかなり違う。
その数字を見たナギが呟く。
「……これ、他の蔵も欲しがるかも」
フィアが笑った。
「話、聞こうか?」
「その顔怖い」
「商売の顔」
俺とナギは同時に一歩下がった。
その晩。
俺たちは試験桶の横で、簡単な夕食を食べた。
白い飯。
焼き魚。
ミソ汁。
たったそれだけ。
でも、この一杯の裏には。
ナギの鼻。
父親の経験。
ヒムカの豆。
サラ。
桶。
蔵。
俺の知っていた発酵の考え方。
学院で作った温度の物差し。
レオルの魔術。
フィアの計算。
いろんなものが入っている。
一人の天才が作った味じゃない。
それが、なんだか嬉しかった。
レオルが汁を飲みながら言う。
「しかし、東方の異常魔力を調査しに来たはずなんだが」
「してるだろ?」
「今日は一日中ミソ蔵にいた」
「ヒムカ文化の調査」
「温度測ってただけだ」
「重要だぞ」
ナギが口を挟む。
「重要」
レオルが黙った。
二対一。
勝った。
フィアがさらに言う。
「交易品としても重要」
三対一。
完全勝利。
レオルは諦めて白飯を食べた。
俺も汁を飲む。
日本の味噌じゃない。
ヒムカのミソ。
でも。
その違いを、前よりずっと好きになっていた。
昔の形をそのまま復活させることだけが、残すことじゃない。
今あるものを。
今生きている人たちと一緒に、もっと良くする。
たぶん。
俺がヒムカでやるべきことは。
そっちなのだと思い始めていた。




