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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第九章 ヒムカ――消せなかった国の味

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第88話 最後の巫女じゃなかった

祭りの翌朝。


ヒムカの宿は、いつもより静かだった。


誰かが大声で俺を責めに来たわけではない。石を直したことも、「いただきます」が広がったことも、昨日のうちに全部話した。倒れた子供も朝には元気になり、熱も吐き気もないと聞いている。


だからこそ、余計に落ち着かなかった。


厨房ではナギが普通に朝飯を作っている。米が炊ける。ミソ汁の湯気が上がる。宿泊客はいつも通り食べる。


昨日、田んぼ全部が光ったとは思えない。


俺は卓の端で、祭りの記録を読み直していた。


石の配置を変えた時点では、変化なし。


供物は以前から同じようなものが使われていた。


「いただきます」が十数人へ広がった直後、鏡石が発光。


ただし、そこだけを原因と断定することはできない。


石の配置。


供物。


言葉。


人数。


それらが組み合わさった可能性もある。


サヨが向かいで、同じ記録を見ていた。


「……やっぱり、私の家に伝わっている形です」


「祭壇?」


「はい」


サヨは紙へ五つの印を書く。


中央。


左右。


手前。


奥。


昨日、俺が直してしまった配置。


「ただ、意味は教わっていません」


「お母さんも?」


「母も知りませんでした。祖母も、たぶん」


それでも守った。


なぜ置くのか分からない。


誰に供えるのか分からない。


それでも。


「最後の巫女だから、残さなきゃいけないって?」


俺が聞くと、サヨは頷いた。


「そう教わりました」


その言葉を言う時だけ、彼女の声には昔から少し重さがある。


最後。


自分が失敗すれば終わる。


自分が忘れれば消える。


俺も似た感覚を持っていた時期がある。


日本を覚えているのは、自分しかいないんじゃないか。


俺が忘れたら、本当に終わるんじゃないか。


だからサヨが祭りの形を見つけた時の気持ちは、少し分かる。


残っていてほしい。


でも。


昨日のようなことが起きるなら、喜んでばかりもいられない。


「今日は祭壇を調べに行く?」


俺が聞くと、サヨは少し迷った。


「行きたいです。でも、触りません」


「俺も触らない」


ナギが厨房から言った。


「絶対だからね」


「分かってるって」


「レンの『分かってる』、最近信用が低い」


痛い。


フィアまで頷くな。


朝食を終えた頃。


宿の前で、馬の鈴が鳴った。


商人ではない。


荷車もない。


一頭の小さな灰色馬と、その横を歩く老婆。


年は七十くらいだろうか。


白髪を後ろで束ね、濃紺の長衣を着ている。背は曲がっているが、歩き方はしっかりしている。


何より目を引いたのは。


腰に下げたものだった。


小さな玉。


緑がかった石。


形は違う。


でも。


サヨの勾玉に、よく似ている。


サヨが立ち上がった。


老婆も止まる。


二人はしばらく。


何も言わなかった。


「……誰?」


ナギが小声で言う。


宿の主人が驚いた顔で出てくる。


「イヨ婆さん。山から降りてきたのか」


「昨日、田が騒いだろう」


老婆――イヨは答えた。


声は低く、よく通る。


「見に来た」


彼女の視線が、またサヨへ戻る。


白と赤の服。


胸元の勾玉。


髪の結び方。


一つずつ確認するように見ている。


「娘」


「……はい」


「その服、どこで覚えた」


サヨの指が、わずかに震えた。


「母からです」


「母は?」


「亡くなりました」


「その母は」


「祖母から」


イヨが目を細める。


「何をする家だ」


サヨは一度、息を吸った。


「巫女です」


その瞬間。


イヨの顔から、何かが消えた。


驚き。


懐かしさ。


痛み。


全部が混ざったような表情。


「……まだ、その呼び名が残っていたのか」


俺たちは誰も動けなかった。


サヨが聞く。


「知っているんですか?」


「言葉だけなら」


イヨは宿へ入らず、外の長椅子へ座った。


「昔、山の古い文書に出てきた。ミコ。神に仕える女。今じゃ使わん」


サヨの目が大きくなる。


「では、あなたは?」


イヨは自分の胸を指した。


「祭守だ」


「まつりもり?」


「田の祭り。山の祭り。生まれた子の祝い。死んだ者を送る時。昔から決まってる形を守る」


サヨが立ったまま動かない。


「それは……」


声がうまく出ない。


イヨは彼女を見上げる。


「お前さんも、似たことをしてきたんだろ」


「私は」


サヨの手が勾玉を握る。


「最後の巫女だと、教わりました」


静かだった。


俺はその言葉の続きを待った。


イヨも。


そして。


老婆は小さく笑った。


「誰の最後だい」


サヨが固まる。


「……え?」


「この世全部の最後だと、誰が確かめた?」


誰も答えられない。


イヨは腰の石を外した。


机へ置く。


サヨの勾玉ほど滑らかではない。


欠けている。


紐も何度も交換された跡がある。


それでも。


中央の曲線。


穴の位置。


似ている。


「うちの山には、これを持つ家が三つある」


サヨの息が止まった。


「三つ……?」


「昔はもっとあった」


イヨは淡々と言う。


「今は祭守をやってるのが三家。男もいる。女もいる。神の名なんぞ知らん。昔の言葉もほとんど分からん。ただ、形だけ残してる」


サヨが椅子へ座った。


力が抜けたようだった。


「……私」


声が震える。


「最後じゃ、なかったんですか」


イヨが首を傾げる。


「少なくとも、似た枝は残ってる」


その言い方が。


俺には妙に優しく聞こえた。


最後じゃない。


全部を一人で背負わなくていい。


それは、サヨがずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。


でも。


彼女はすぐには笑わなかった。


「じゃあ」


サヨの目から、涙が落ちた。


「母は……何のために」


誰も口を挟めなかった。


「母は、私に全部覚えろって。忘れるなって。私が最後だからって」


次の涙。


「ずっと」


胸が痛くなった。


最後ではなかった。


良い知らせだ。


でも。


それまで背負ってきた重さが、急に消えるわけじゃない。


むしろ。


「じゃあ、あの苦労は何だったの」


そう思うのも当然だ。


イヨは慰めるようなことを言わなかった。


「お前さんの母親は、嘘をついたんじゃないだろ」


サヨが顔を上げる。


「知ってる範囲では、最後だった」


老婆は自分の石を撫でる。


「こっちも同じだ。山の外に、似た祭りが残ってるなんて知らなかった」


サヨが黙る。


「昔、道が切れた。人が来なくなった。呼び方も変わった。互いに死んだと思った」


イヨは言う。


「でも、死んでなかった」


その一言で。


サヨが泣いた。


声を上げるわけではない。


顔を両手で覆って。


静かに。


俺は横に座った。


何を言えばいいか分からない。


だから、言わなかった。


フィアも。


ナギも。


ただ、そこにいた。


しばらくして。


サヨは顔を上げた。


目が真っ赤だった。


「……すみません」


「謝らなくていいよ」


俺が言う。


イヨは鼻を鳴らした。


「泣くなら飯食ってからにしな。腹減るぞ」


ナギが反応した。


「ミソ汁温め直す」


強い。


こういう時。


食事って便利だ。


言葉がなくても、時間を進めてくれる。


卓へ米と汁を出す。


イヨは一口飲むと、


「塩が少し弱い」


と言った。


ナギがむっとする。


「この辺はこれくらい」


「山は濃い」


「山と谷は違う」


早速文化が違う。


俺はちょっと安心した。


同じ系統かもしれないからって、全部同じじゃない。


それでいい。


食後。


サヨとイヨは、持っている作法を比べ始めた。


まず。


礼の仕方。


違う。


サヨは二度頭を下げる。


イヨの家では一度。


手の合わせ方も違う。


供え物の順番。


サヨは米、塩、魚。


イヨは米、酒、山菜。


ただし。


五つの置き場所だけは同じ。


「これ」


サヨが紙へ描く。


「昨日の祭壇と同じです」


イヨが見る。


「山でも同じだ」


「意味は?」


二人同時に。


「知らない」


俺とフィアは顔を見合わせた。


思わず笑いそうになった。


でも。


面白い。


違う場所で。


違う名前になって。


違う供え物になって。


それでも一部だけ同じ。


これは、偶然と言い切るには少し強い。


「昔はミコって呼んでたの?」


フィアが聞く。


イヨは首を振った。


「私の祖母の頃にはもう祭守だ」


「いつ変わったか分かる?」


「古い帳面が山にある」


来た。


俺は身を乗り出した。


「見せてもらえますか?」


ナギがすぐ俺の襟を掴んだ。


「行くなら明日」


「まだ何も言ってない!」


「今から山登りそうな顔してた」


正しい。


悔しい。


イヨが笑った。


「変な若いのだな」


「最近ずっと言われます」


「でも明日、来るといい」


サヨを見る。


「お前さんも」


「はい」


「持ってるもの、全部見せ合おう」


サヨは勾玉を握った。


今度は。


少しだけ笑った。


「お願いします」


夕方。


イヨが山へ戻った後。


サヨは宿の裏庭に一人でいた。


俺は少し迷ってから、隣へ行く。


「大丈夫?」


「分かりません」


正直だった。


「嬉しいです」


サヨは笑う。


「すごく」


それから。


「でも、少し悔しいです」


「悔しい?」


「私だけが守ってきたと思っていました」


その言葉に、嫌な感じはなかった。


むしろ自然だと思った。


「それが、私だけじゃなかった」


サヨは空を見る。


「本当なら、喜ぶべきなのに」


「両方でいいんじゃない?」


俺が言うと、サヨが見る。


「嬉しいし、悔しい。それで」


少し考える。


「あと、安心してもいい」


サヨの目が揺れた。


俺は続ける。


「一人じゃなくなったんだから」


しばらく。


彼女は何も言わなかった。


やがて、小さく頷く。


「……はい」


その時。


宿の表から、馬の蹄の音がした。


かなり速い。


一頭。


いや、二頭。


フィアの声。


「レン!」


俺たちは顔を見合わせて走った。


宿の前。


土埃の中で、馬から降りた少年がいる。


いや。


もう少年というより、青年に近い。


赤い髪。


旅装。


眼鏡。


片手には、学院の紋章が入った書類筒。


俺は笑った。


「遅い」


レオル・アルディスは、息を整えながら俺を睨んだ。


「誰のせいで予定を早めたと思ってる」


「俺?」


「お前だ!」


第一声から怒られた。


安心する。


レオルは荷物を降ろしながら続ける。


「田一帯で異常魔力。学院に報告が届いた。東方調査の補助員を前倒しで出すことになった」


俺は目を逸らした。


「……ちょっと光っただけ」


「子供が倒れたと書いてあったぞ」


「その日のうちに起きた」


「そういう問題じゃない!」


フィアが笑っている。


ナギも。


サヨまで少し笑った。


レオルが周囲を見回す。


「何だ?」


俺は答えた。


「いや」


いろいろあった。


祭りで失敗した。


神様みたいな何かを起こしかけた。


サヨは、自分が最後じゃなかったと知った。


そして。


ようやくレオルも来た。


「ちょうどよかった」


「何が」


俺は山の方を見る。


明日。


イヨの集落へ行く。


古い帳面。


祭守。


ミコという言葉。


違う場所へ分かれた作法。


調べたいことが、一気に増えた。


「仕事が山ほどある」


レオルの顔が引きつる。


「着いたばかりなんだが」


「大丈夫」


「お前がそれを言うと不安なんだよ!」


その通りだった。


でも。


今度は一人で走らない。


サヨがいる。


フィアがいる。


ナギがいる。


イヨがいる。


そして。


レオルも来た。


最後だと思っていたものが。


実は別の場所でも残っていた。


だったら。


日本だって。


俺が思っているよりずっと多くの場所に、欠片を残しているのかもしれない。


そう思うと。


昨日まで少し怖かったヒムカの山が。


今は、巨大な本棚みたいに見え始めていた。


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