第88話 最後の巫女じゃなかった
祭りの翌朝。
ヒムカの宿は、いつもより静かだった。
誰かが大声で俺を責めに来たわけではない。石を直したことも、「いただきます」が広がったことも、昨日のうちに全部話した。倒れた子供も朝には元気になり、熱も吐き気もないと聞いている。
だからこそ、余計に落ち着かなかった。
厨房ではナギが普通に朝飯を作っている。米が炊ける。ミソ汁の湯気が上がる。宿泊客はいつも通り食べる。
昨日、田んぼ全部が光ったとは思えない。
俺は卓の端で、祭りの記録を読み直していた。
石の配置を変えた時点では、変化なし。
供物は以前から同じようなものが使われていた。
「いただきます」が十数人へ広がった直後、鏡石が発光。
ただし、そこだけを原因と断定することはできない。
石の配置。
供物。
言葉。
人数。
それらが組み合わさった可能性もある。
サヨが向かいで、同じ記録を見ていた。
「……やっぱり、私の家に伝わっている形です」
「祭壇?」
「はい」
サヨは紙へ五つの印を書く。
中央。
左右。
手前。
奥。
昨日、俺が直してしまった配置。
「ただ、意味は教わっていません」
「お母さんも?」
「母も知りませんでした。祖母も、たぶん」
それでも守った。
なぜ置くのか分からない。
誰に供えるのか分からない。
それでも。
「最後の巫女だから、残さなきゃいけないって?」
俺が聞くと、サヨは頷いた。
「そう教わりました」
その言葉を言う時だけ、彼女の声には昔から少し重さがある。
最後。
自分が失敗すれば終わる。
自分が忘れれば消える。
俺も似た感覚を持っていた時期がある。
日本を覚えているのは、自分しかいないんじゃないか。
俺が忘れたら、本当に終わるんじゃないか。
だからサヨが祭りの形を見つけた時の気持ちは、少し分かる。
残っていてほしい。
でも。
昨日のようなことが起きるなら、喜んでばかりもいられない。
「今日は祭壇を調べに行く?」
俺が聞くと、サヨは少し迷った。
「行きたいです。でも、触りません」
「俺も触らない」
ナギが厨房から言った。
「絶対だからね」
「分かってるって」
「レンの『分かってる』、最近信用が低い」
痛い。
フィアまで頷くな。
朝食を終えた頃。
宿の前で、馬の鈴が鳴った。
商人ではない。
荷車もない。
一頭の小さな灰色馬と、その横を歩く老婆。
年は七十くらいだろうか。
白髪を後ろで束ね、濃紺の長衣を着ている。背は曲がっているが、歩き方はしっかりしている。
何より目を引いたのは。
腰に下げたものだった。
小さな玉。
緑がかった石。
形は違う。
でも。
サヨの勾玉に、よく似ている。
サヨが立ち上がった。
老婆も止まる。
二人はしばらく。
何も言わなかった。
「……誰?」
ナギが小声で言う。
宿の主人が驚いた顔で出てくる。
「イヨ婆さん。山から降りてきたのか」
「昨日、田が騒いだろう」
老婆――イヨは答えた。
声は低く、よく通る。
「見に来た」
彼女の視線が、またサヨへ戻る。
白と赤の服。
胸元の勾玉。
髪の結び方。
一つずつ確認するように見ている。
「娘」
「……はい」
「その服、どこで覚えた」
サヨの指が、わずかに震えた。
「母からです」
「母は?」
「亡くなりました」
「その母は」
「祖母から」
イヨが目を細める。
「何をする家だ」
サヨは一度、息を吸った。
「巫女です」
その瞬間。
イヨの顔から、何かが消えた。
驚き。
懐かしさ。
痛み。
全部が混ざったような表情。
「……まだ、その呼び名が残っていたのか」
俺たちは誰も動けなかった。
サヨが聞く。
「知っているんですか?」
「言葉だけなら」
イヨは宿へ入らず、外の長椅子へ座った。
「昔、山の古い文書に出てきた。ミコ。神に仕える女。今じゃ使わん」
サヨの目が大きくなる。
「では、あなたは?」
イヨは自分の胸を指した。
「祭守だ」
「まつりもり?」
「田の祭り。山の祭り。生まれた子の祝い。死んだ者を送る時。昔から決まってる形を守る」
サヨが立ったまま動かない。
「それは……」
声がうまく出ない。
イヨは彼女を見上げる。
「お前さんも、似たことをしてきたんだろ」
「私は」
サヨの手が勾玉を握る。
「最後の巫女だと、教わりました」
静かだった。
俺はその言葉の続きを待った。
イヨも。
そして。
老婆は小さく笑った。
「誰の最後だい」
サヨが固まる。
「……え?」
「この世全部の最後だと、誰が確かめた?」
誰も答えられない。
イヨは腰の石を外した。
机へ置く。
サヨの勾玉ほど滑らかではない。
欠けている。
紐も何度も交換された跡がある。
それでも。
中央の曲線。
穴の位置。
似ている。
「うちの山には、これを持つ家が三つある」
サヨの息が止まった。
「三つ……?」
「昔はもっとあった」
イヨは淡々と言う。
「今は祭守をやってるのが三家。男もいる。女もいる。神の名なんぞ知らん。昔の言葉もほとんど分からん。ただ、形だけ残してる」
サヨが椅子へ座った。
力が抜けたようだった。
「……私」
声が震える。
「最後じゃ、なかったんですか」
イヨが首を傾げる。
「少なくとも、似た枝は残ってる」
その言い方が。
俺には妙に優しく聞こえた。
最後じゃない。
全部を一人で背負わなくていい。
それは、サヨがずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
でも。
彼女はすぐには笑わなかった。
「じゃあ」
サヨの目から、涙が落ちた。
「母は……何のために」
誰も口を挟めなかった。
「母は、私に全部覚えろって。忘れるなって。私が最後だからって」
次の涙。
「ずっと」
胸が痛くなった。
最後ではなかった。
良い知らせだ。
でも。
それまで背負ってきた重さが、急に消えるわけじゃない。
むしろ。
「じゃあ、あの苦労は何だったの」
そう思うのも当然だ。
イヨは慰めるようなことを言わなかった。
「お前さんの母親は、嘘をついたんじゃないだろ」
サヨが顔を上げる。
「知ってる範囲では、最後だった」
老婆は自分の石を撫でる。
「こっちも同じだ。山の外に、似た祭りが残ってるなんて知らなかった」
サヨが黙る。
「昔、道が切れた。人が来なくなった。呼び方も変わった。互いに死んだと思った」
イヨは言う。
「でも、死んでなかった」
その一言で。
サヨが泣いた。
声を上げるわけではない。
顔を両手で覆って。
静かに。
俺は横に座った。
何を言えばいいか分からない。
だから、言わなかった。
フィアも。
ナギも。
ただ、そこにいた。
しばらくして。
サヨは顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
俺が言う。
イヨは鼻を鳴らした。
「泣くなら飯食ってからにしな。腹減るぞ」
ナギが反応した。
「ミソ汁温め直す」
強い。
こういう時。
食事って便利だ。
言葉がなくても、時間を進めてくれる。
卓へ米と汁を出す。
イヨは一口飲むと、
「塩が少し弱い」
と言った。
ナギがむっとする。
「この辺はこれくらい」
「山は濃い」
「山と谷は違う」
早速文化が違う。
俺はちょっと安心した。
同じ系統かもしれないからって、全部同じじゃない。
それでいい。
食後。
サヨとイヨは、持っている作法を比べ始めた。
まず。
礼の仕方。
違う。
サヨは二度頭を下げる。
イヨの家では一度。
手の合わせ方も違う。
供え物の順番。
サヨは米、塩、魚。
イヨは米、酒、山菜。
ただし。
五つの置き場所だけは同じ。
「これ」
サヨが紙へ描く。
「昨日の祭壇と同じです」
イヨが見る。
「山でも同じだ」
「意味は?」
二人同時に。
「知らない」
俺とフィアは顔を見合わせた。
思わず笑いそうになった。
でも。
面白い。
違う場所で。
違う名前になって。
違う供え物になって。
それでも一部だけ同じ。
これは、偶然と言い切るには少し強い。
「昔はミコって呼んでたの?」
フィアが聞く。
イヨは首を振った。
「私の祖母の頃にはもう祭守だ」
「いつ変わったか分かる?」
「古い帳面が山にある」
来た。
俺は身を乗り出した。
「見せてもらえますか?」
ナギがすぐ俺の襟を掴んだ。
「行くなら明日」
「まだ何も言ってない!」
「今から山登りそうな顔してた」
正しい。
悔しい。
イヨが笑った。
「変な若いのだな」
「最近ずっと言われます」
「でも明日、来るといい」
サヨを見る。
「お前さんも」
「はい」
「持ってるもの、全部見せ合おう」
サヨは勾玉を握った。
今度は。
少しだけ笑った。
「お願いします」
夕方。
イヨが山へ戻った後。
サヨは宿の裏庭に一人でいた。
俺は少し迷ってから、隣へ行く。
「大丈夫?」
「分かりません」
正直だった。
「嬉しいです」
サヨは笑う。
「すごく」
それから。
「でも、少し悔しいです」
「悔しい?」
「私だけが守ってきたと思っていました」
その言葉に、嫌な感じはなかった。
むしろ自然だと思った。
「それが、私だけじゃなかった」
サヨは空を見る。
「本当なら、喜ぶべきなのに」
「両方でいいんじゃない?」
俺が言うと、サヨが見る。
「嬉しいし、悔しい。それで」
少し考える。
「あと、安心してもいい」
サヨの目が揺れた。
俺は続ける。
「一人じゃなくなったんだから」
しばらく。
彼女は何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
その時。
宿の表から、馬の蹄の音がした。
かなり速い。
一頭。
いや、二頭。
フィアの声。
「レン!」
俺たちは顔を見合わせて走った。
宿の前。
土埃の中で、馬から降りた少年がいる。
いや。
もう少年というより、青年に近い。
赤い髪。
旅装。
眼鏡。
片手には、学院の紋章が入った書類筒。
俺は笑った。
「遅い」
レオル・アルディスは、息を整えながら俺を睨んだ。
「誰のせいで予定を早めたと思ってる」
「俺?」
「お前だ!」
第一声から怒られた。
安心する。
レオルは荷物を降ろしながら続ける。
「田一帯で異常魔力。学院に報告が届いた。東方調査の補助員を前倒しで出すことになった」
俺は目を逸らした。
「……ちょっと光っただけ」
「子供が倒れたと書いてあったぞ」
「その日のうちに起きた」
「そういう問題じゃない!」
フィアが笑っている。
ナギも。
サヨまで少し笑った。
レオルが周囲を見回す。
「何だ?」
俺は答えた。
「いや」
いろいろあった。
祭りで失敗した。
神様みたいな何かを起こしかけた。
サヨは、自分が最後じゃなかったと知った。
そして。
ようやくレオルも来た。
「ちょうどよかった」
「何が」
俺は山の方を見る。
明日。
イヨの集落へ行く。
古い帳面。
祭守。
ミコという言葉。
違う場所へ分かれた作法。
調べたいことが、一気に増えた。
「仕事が山ほどある」
レオルの顔が引きつる。
「着いたばかりなんだが」
「大丈夫」
「お前がそれを言うと不安なんだよ!」
その通りだった。
でも。
今度は一人で走らない。
サヨがいる。
フィアがいる。
ナギがいる。
イヨがいる。
そして。
レオルも来た。
最後だと思っていたものが。
実は別の場所でも残っていた。
だったら。
日本だって。
俺が思っているよりずっと多くの場所に、欠片を残しているのかもしれない。
そう思うと。
昨日まで少し怖かったヒムカの山が。
今は、巨大な本棚みたいに見え始めていた。




