第87話 神様を起こしかけた祭り
水祝いの日。
俺たちは朝から、山側の集落へ向かった。
祭りといっても、学都で見たような大きなものではない。屋台もなければ、派手な音楽もない。田んぼの上にある小さな広場へ村人が集まり、米と酒と料理を持ち寄るだけだ。
ジンザ爺さんが言っていた通りだった。
広場の奥には、人の腰ほどの高さの古い石がある。
表面は磨かれていて、少しだけ鏡のように光を返す。
像はない。
神様の名前もない。
ただ、その前に平たい石が五つ置かれている。
「これが祭壇?」
俺が聞くと、ナギが肩をすくめた。
「そう呼ぶ人もいる。私は『置き石』って聞いた」
「何を祀ってるの?」
「知らない」
まただ。
誰も知らない。
それでも祭りだけは残っている。
サヨは朝からほとんど喋らなかった。
祭壇へ近づくと、さらに表情が硬くなる。
俺は小声で聞いた。
「似てる?」
「……かなり」
彼女は石の配置を見る。
中央。
左右。
手前。
奥。
昨日ジンザ爺さんが地面へ描いた形。
「私の家に伝わっている配置と、ほぼ同じです」
「ほぼ?」
「奥の一つだけ、向きが逆です」
俺も見る。
言われなければ気づかない。
五つの石のうち、奥だけ少し斜めを向いている。
「意味は?」
「分かりません」
サヨは首を振った。
「形だけ伝わっていましたから」
そこが怖い。
俺たちは、断片ばかり持っている。
意味のない形。
名前のない料理。
由来を忘れた言葉。
でも、それらが本当につながった時に何が起きるのか。
第八章の資料――なんて言葉はもちろん頭にない。ただ学院で読んだ旧神話災害対策局の記録が、嫌でも蘇る。
神名。
供物。
共有。
再反応。
今日は、絶対に余計なことをしない。
そう決めていた。
祭りが始まる。
村の子供たちが、むすびを運んでくる。
五つ。
昨日見たものと同じ。
中央に一つ。
左右。
奥。
手前。
ただし置き方はかなり雑だった。
一つは葉が半分開いている。
もう一つは石の端。
奥のものだけ横向き。
誰も気にしていない。
次に酒。
米から作った、濁った酒だ。
少量を石の前へ撒く。
残りは大人たちが飲む。
魚。
ミソ。
山菜。
全部が並ぶ。
俺は胸がざわついた。
昨日まで、ただの朝飯だったもの。
今は供物になっている。
それでも。
何も起きない。
鏡のような石も暗いまま。
魔力の揺れもない。
俺は少し安心した。
やっぱり、形が似ているだけなのかもしれない。
祭りは普通に進んだ。
子供が走り回る。
大人が酒を飲む。
誰かが魚を焦がして怒られる。
ナギは知り合いに捕まって、ミソ蔵の話をしている。
フィアはなぜかもう、この祭りへ商人を呼ぶ場合の宿泊数を計算していた。
いつもの日常。
俺も肩の力を抜いた。
その時。
小さな男の子が祭壇の前で転んだ。
手に持っていたむすびが一つ、石から落ちる。
「あっ」
俺は反射的に拾った。
葉には包まれている。
土もほとんどついていない。
食べるものではなく供えるものだから、そのまま戻そうとした。
そこで。
気づいた。
奥の石。
向きが違う。
サヨが言っていた。
彼女の家に伝わっている形では、こちらを向く。
一瞬。
本当に、一瞬だった。
これくらいなら。
神の名前を呼ぶわけじゃない。
新しい供物を増やすわけでもない。
ただ、石を少し直すだけ。
「レン」
サヨが俺の名前を呼んだ。
止める声だったのかもしれない。
でも。
俺の手は先に動いていた。
石を回す。
ほんの少し。
五つの置き石が、サヨの記憶にある形へ揃った。
むすびを戻す。
何も起きない。
俺は息を吐いた。
「……ほら、大丈夫」
言ってから。
嫌な言葉だと思った。
こういう時に「大丈夫」と言うと、大体大丈夫じゃない。
**「嫌な予感しかしないんだけど……」**
小さく呟いた。
その直後。
祭りの長老が手を叩いた。
「じゃあ、食うか!」
村人たちが供物とは別に用意されていた飯を取る。
むすび。
魚。
汁。
酒。
みんな一斉に食べ始める。
俺も座った。
フィアが隣。
サヨが向かい。
ナギが汁を配る。
いつもの癖だった。
本当に。
何の意図もなかった。
俺は手を合わせた。
「いただきます」
フィアも。
「いただきます」
サヨも。
ナギは一瞬遅れて、
「いただきます」
と言った。
近くの子供が真似する。
「いただきます!」
その母親も笑って言う。
隣の家族。
さらに隣。
学院では八年かけて、少しずつ広がった言葉。
でもここでは、音が面白かったのだろう。
意味を聞いた人が、
「食べ物と作った人に礼を言う言葉」
と説明する。
それならいいな、と。
十人。
二十人。
もっと。
広場のあちこちから同じ言葉が聞こえた。
「いただきます」
「いただきます!」
「いただきます」
ぞくり。
俺の手から、むすびが落ちそうになった。
まずい。
なぜそう思ったのか分からない。
ただ。
鏡の石が。
光った。
最初は、朝日が反射しただけに見えた。
白い光。
細い線。
次の瞬間。
祭壇の五つの石が同時に震えた。
「え?」
誰かが言う。
田んぼの水面が。
一斉に波立った。
風はない。
上の田。
下の田。
見える範囲、全部。
水面から淡い光が立ち上がる。
「サヨ!」
「分かっています!」
彼女が立つ。
勾玉が白く光っている。
強い。
村で見た時より、ずっと強い。
広場の端にあった農具用の魔石が火花を散らした。
水を汲み上げる小型魔導具が勝手に動き出す。
「止めろ!」
誰かが叫ぶ。
水が噴き出した。
次に。
子供が一人、倒れた。
「ミナト!」
母親が駆け寄る。
俺の頭が真っ白になった。
俺が。
石を。
「レン!」
フィアに腕を掴まれた。
「今は考えない!」
その一言で戻った。
そうだ。
後悔は後。
今は止める。
「魔石を全部外して! 動いてる道具から離れて!」
俺は叫ぶ。
ナギがすぐ動いた。
「聞いた!? 水車側も止めて!」
村人たちが走る。
サヨは祭壇へ近づこうとした。
俺が止める。
「触るな!」
「でも――」
「何が反応してるか分からない!」
学院で学んだ。
分からない現象へ、さらに条件を足すな。
俺は祭壇を見る。
供物。
石。
酒。
人。
言葉。
何が引き金だった?
全部かもしれない。
「食べるの止めて!」
俺は叫んだ。
「祭壇から離れて! 供え物も触らない!」
祭りが止まる。
「いただきます」の声も消える。
人が広場の端へ下がる。
数秒。
十数秒。
鏡の石の光が、少し弱くなる。
「下がって!」
サヨが声を張る。
彼女は勾玉を両手で包み、目を閉じた。
祈りではない。
魔力を流すのでもない。
むしろ、自分の白い魔力を外へ出さないよう抑えているように見えた。
「呼ばない」
サヨが呟く。
「名を知りません。だから、呼びません」
鏡の光が揺れる。
一度。
強く。
田の水が跳ねた。
そして。
消えた。
静寂。
水面も戻る。
魔導具の音も止まる。
誰も動かなかった。
倒れた子供へ駆け寄る。
息はある。
熱もない。
マレーナ先生はいない。
でも旅用の応急処置は教わっている。
呼吸。
脈。
意識。
しばらくすると、子供が目を開けた。
「……母ちゃん?」
母親が泣いた。
俺はその場に座り込みそうになった。
助かった。
でも。
それで終わりじゃない。
村人たちの視線が、祭壇へ集まっている。
怖がっている。
当然だ。
毎年やっていた祭りで、こんなことは起きたことがない。
ジンザ爺さんが俺を見る。
「兄ちゃん」
逃げられない。
「何をした?」
俺は祭壇を見た。
奥の石。
俺が直した石。
「……俺が、石の向きを変えました」
ざわめく。
サヨが横から言う。
「私の家に伝わる古い祭祀の配置と同じ形です」
「それから」
俺は続ける。
喉が乾いた。
「俺が『いただきます』って言った。それが広がった」
ナギが眉を寄せる。
「でも、そんなので?」
「分からない」
そこは誤魔化さない。
「石だけかもしれない。言葉だけかもしれない。供え物と一緒だったからかもしれない」
学院の記録。
古い命令。
頭の中で何度も浮かぶ。
名を呼ぶな。
供物を再現するな。
意味を共有するな。
「でも、似たことが昔にもあった記録はある」
村人たちが静かになる。
俺は頭を下げた。
深く。
「ごめんなさい」
フィアも。
サヨも。
誰も俺を庇わなかった。
それでいい。
石に触ったのは俺だ。
ただ懐かしかった。
嬉しかった。
日本につながる形を見つけて。
少しだけ完成させたくなった。
それだけ。
でも。
**「それだけ」で、人が倒れた。**
夕方。
祭りは中止になった。
怪我人はいなかった。
倒れた子供も、自分で歩いて帰った。
だから幸運だった。
本当に幸運だった。
俺は宿へ戻ってからも、ほとんど喋れなかった。
厨房の隅に座っていると、ナギが水を置いた。
「飲んで」
「……ありがとう」
「反省するのは勝手だけど、明日の調査はするからね」
俺は顔を上げた。
怒っている。
でも追い出すとは言わない。
「怖くない?」
「怖いよ」
即答だった。
「だから調べるんでしょ」
その言葉が、胸へ刺さった。
危ないから消す。
危ないから忘れる。
旧神話災害対策局が選んだ道。
今日の俺には、その気持ちが少し分かってしまった。
何も知らなければ。
石を直さなければ。
「いただきます」を教えなければ。
子供は倒れなかった。
だったら。
知らない方がいいのか?
日本なんて。
戻さない方がいいのか?
そこまで考えた時。
フィアが俺の額を指で弾いた。
痛い。
「何するんだよ」
「レン、また一人で答え出そうとしてる」
言葉に詰まった。
「危なかった。レンが失敗した。それは本当」
容赦ない。
「でも、だから全部消そうって決めるのも早い」
フィアは祭りで使った記録帳を机へ置いた。
「何を置いたか。誰が何をしたか。いつ光ったか。全部思い出して書く」
ナギも椅子を引く。
サヨも座る。
「次は?」
俺が聞く。
サヨが答えた。
「同じことを起こさないために、調べます」
俺は三人を見る。
そうだった。
学院で覚えた。
失敗した時。
隠さない。
条件を残す。
原因を分ける。
次に同じ失敗をしないようにする。
神様相手でも。
たぶん、それは変わらない。
俺は紙を取った。
祭壇の配置。
むすび。
ミソ。
魚。
酒。
人数。
言葉。
光。
水。
魔導具。
子供が倒れた時刻。
全部。
書く。
日本の痕跡を見つけるたび、俺は嬉しかった。
米も。
ミソも。
むすびも。
でも今日、初めてはっきり理解した。
俺が探しているものは。
懐かしい料理だけじゃない。
その向こうには。
本当に何かがいる。
忘れられて。
名を失って。
それでも。
人間がもう一度思い出すのを待っている何かが。
そして。
それを起こすことが。
必ずしも、良いことだとは限らなかった。




