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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第九章 ヒムカ――消せなかった国の味

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第86話 「むすび」と呼ばれる飯

ヒムカへ来て一週間。


俺は、朝から米を丸めているナギを見つけた。


宿の厨房では、まだ湯気の立つ飯が大きな木桶に広げられている。ナギは手元に水と塩を置き、少し冷ました米を取り、手早く形を整えていた。


丸いもの。


三角に近いもの。


平たく潰したもの。


中には昨日の焼き魚をほぐしたものや、ミソを甘辛く焼いたものが入るらしい。


俺は厨房の入口で固まった。


「……おにぎり」


ナギが振り返る。


「何それ」


しまった。


「いや。なんでもない」


「朝から変なの」


最近、毎日のように言われている。


俺は作業台へ近づいた。


「これ、何て呼ぶの?」


「握り飯」


ですよね。


そこまで都合よく全部残っているわけでは――


「山の方じゃ、むすびって言うけど」


俺の思考が止まった。


「……今、なんて?」


ナギの目が細くなる。


「またそれ?」


「お願い。もう一回」


「むすび」


来た。


今度こそ聞き間違いじゃない。


むすび。


おむすび。


言葉が、そのままではないにしても残っている。


胸の奥が騒ぐ。


でも前回ミソで学んだ。


似ているからといって、すぐ「日本のものだ」と決めつけるな。


「この辺では言わないの?」


「年寄りがたまに言うくらい。村によって違うよ。握り、結び飯、山飯って呼ぶところもあるし」


「意味は?」


「持っていく飯ってだけじゃない?」


ナギ自身は知らないらしい。


それが余計に気になった。


前世で「おむすび」の語源を真面目に調べたことなんてない。神様や縁を結ぶ意味があるとか、山の形だとか、聞いた覚えはある。でも確かなことは知らない。


ここで知ったかぶりは危険だ。


だから。


まず食べる。


「一個もらっていい?」


「これから田に持っていく分だから、一個だけ」


「誰の?」


「父さんたち」


今日は上の棚田で水路の補修があるらしい。昼に戻ってくる時間がないため、朝のうちに飯を持っていく。


つまり弁当だ。


俺は塩だけのものを一つ受け取った。


一口。


少し固めに炊いた米。


塩。


それだけ。


うまい。


「……強いな」


「何が?」


「米と塩」


余計なものがない。


だから米の香りがよく分かる。


前世で、コンビニのおにぎりを何度食べたか分からない。でも今この世界で、山の水を吸った米を塩だけで食べていると、あれとは全然違う食べ物に思えた。


「レンも行く?」


「田んぼ?」


「食べてばっかりじゃ料理人になれないでしょ」


「もう料理人なんだけど」


「じゃあ米がどこから来るか見てきたら」


正論だった。


昼前。


俺、フィア、サヨはナギと一緒に棚田の上まで登った。


フィアは商会の商品調査。


サヨは周辺の古い祭祀跡を見るため。


俺は――荷物持ち。


「料理人って便利に使われてない?」


「体力あるんだからいいでしょ」


ナギに言われた。


俺の背中には、水筒と昼飯。


農民たちの分まで入っている。


まあいい。


飯を運ぶのも料理のうちだ。


水路補修は想像以上に大変だった。


石を動かす。


泥を掻き出す。


板を調整する。


少しでも水の流れが変われば、下の田まで影響する。


俺が「ここ広げたら流れ良くなるんじゃ」と言ったら、昨日会った老人に、


「良くなりすぎると下が干上がる」


と即座に止められた。


また負けた。


農業、難しい。


昼。


日陰に集まり、持ってきた握り飯を配る。


農民たちは座るとすぐ食べ始めた。


手が泥だらけの人もいる。


もちろん、水路の水で軽く洗ってはいる。


でも。


俺は少し気になった。


「ナギ」


「何?」


「これ、朝に握ったんだよね」


「そう」


「夕方まで持つこともある?」


「あるよ」


「夏も?」


「ある」


うーん。


前世の知識が警報を鳴らす。


炊いた米。


手で握る。


常温。


暑い日。


具によっては、かなり危ない。


もちろんヒムカには昔からの経験則があるはずだ。


実際、塩を強めにする。


傷みやすい具を避ける。


笹に似た葉で包む。


そういう工夫はすでにあった。


だから「全部間違い」ではない。


でも改善できる。


「ナギ、握る時って、熱いまま?」


「手で触れるくらいになってから」


「それをすぐ包む?」


「うん」


俺は朝の厨房を思い出す。


まだかなり湯気が出ていた。


温かいまま葉で包めば、中に水滴がつく。


湿った状態は、たぶん良くない。


「一回、ちゃんと冷ましてから包んだ方がいいかもしれない」


ナギが眉をひそめる。


「冷ますと硬くなるよ」


「完全に冷え切る前。湯気がこもらないくらい」


さらに。


大量に握るなら素手じゃなく、清潔な布を使う方法もある。


もちろん、握りにくくなるかもしれない。


そこで試した。


宿へ戻ってから。


米を同じように炊く。


三種類。


素手で握る。


塩水で濡らした手。


煮沸して乾かした薄布を使う。


フィアが見ながら言った。


「また食べ物で実験してる」


「食べ物だから実験する」


最近この返しが定着してきた。


ナギは布で米を包みながら首を傾げる。


「形が作りにくい」


「そこは慣れかな」


「握るというより包んでる」


「じゃあ大量に作る時だけとか」


全部置き換える必要はない。


家庭で数個作るなら、よく洗った手で十分かもしれない。


でも祭りや商隊用に百個作るなら、何十人もの手が触れる。


そこで布や型を使えば、ばらつきも減る。


フィアの目が光った。


嫌な予感がした。


「これ、売れる」


「ほら来た」


「何?」


「絶対言うと思った」


「だって商隊向けにいいでしょ。器がいらない。歩きながら食べられる。具を変えれば商品も分けられる」


ナギが呆れる。


「食べ物見て最初に金の話するの?」


俺は肩をすくめる。


「この人ずっとこうだから」


「レンだって料理見たらすぐ温度測るでしょ」


反撃された。


確かに。


その日の午後。


フィアはもう商売として考え始めていた。


「文字が読めない人でも中身が分かるようにできないかな」


「夏市で使ったみたいに形を変える?」


「それでもいいけど、運ぶと崩れる」


ナギが葉を三種類出した。


「包み方変えたら?」


一折り。


二折り。


紐を横。


斜め。


なるほど。


商人と料理人と現地人が集まると話が早い。


鮭――ではなく塩漬け川魚。


ミソ。


山菜。


それぞれ包み方を変える。


読み書きできなくても判別可能。


さらに食べる順番も決める。


傷みやすい具から先。


塩の強いものは後。


「商隊の飯にちょうどいいな」


俺が言う。


「朝に作って昼。保存食ばっかりよりずっといい」


フィアが頷く。


「ヒムカから西へ売る米料理の入口にもなる」


ナギは腕を組んだ。


「西の人、米ちゃんと食べられる?」


「そこから?」


「水いっぱいで煮て捨てるんでしょ」


「その話まだ引っ張るの?」


いつか犯人を探したい。


夕方。


試作した握り飯を持って、俺たちは山側の小さな集落へ行った。


水路の補修を手伝ってくれた老人が住んでいる。


名前はジンザというらしい。


俺たちが握り飯を広げると、老人は笑った。


「随分きれいな山飯だな」


「この辺だと、むすびって呼ぶって聞いたんですけど」


俺はできるだけ何でもないように聞いた。


ジンザの手が止まった。


「若いのに、その言葉知ってるのか」


「ナギから」


「そうか」


老人は一つ取る。


三角でも丸でもない。


少し平たい形。


「昔はな、祭りに持っていく飯をそう呼んだ」


俺とサヨが同時に顔を上げた。


「祭り?」


サヨが聞く。


ジンザは頷く。


「山と田の境に、古い石がある。田植えと収穫の時に飯を置くんだ。今は普通の握り飯だが、爺さんの頃までは『むすびを供える』って言ってた」


胸がざわつく。


「どうして、むすび?」


「知らん」


あっさり。


「昔からだ」


まただ。


意味は消えた。


形は残った。


サヨが静かに聞く。


「置き方は決まっていますか?」


「あるぞ」


ジンザは指で地面に形を描いた。


中央。


左右。


奥。


手前。


五つ。


サヨの顔色が変わった。


「……同じです」


「何が?」


俺が聞く。


彼女はすぐには答えなかった。


勾玉へ触れる。


「私の家に伝わっている、穀物を供える時の配置です」


空気が静かになる。


老人はサヨの服を今さらじっと見た。


白。


赤。


ヒムカでは少し珍しい形。


「嬢ちゃん、東の人間か?」


「祖先が、そうだったと伝えられています」


ジンザはしばらく考える。


「なら、明後日の祭りを見るといい」


「祭り?」


ナギが聞き返す。


「もうそんな時期?」


「ああ。上の田の水祝いだ」


老人は握り飯を一口食べる。


「大したもんじゃない。米を置いて、酒を撒いて、みんなで食うだけだ」


俺の背中に冷たいものが走った。


米。


酒。


供物。


皆で食べる。


第七航路の資料。


旧神話災害対策局。


名を呼ぶ。


食を供える。


意味を共有する。


神格反応。


そこまで考えて、俺は自分を止めた。


まだ何も起きていない。


普通の農村の祭りだ。


怖がりすぎるな。


でも。


気をつけろ。


俺はサヨを見る。


サヨも同じことを考えているらしい。


目が合った。


「見に行こう」


彼女が言う。


「うん」


今度は。


勝手に手を加えない。


知らない儀式なら、まず見る。


聞く。


記録する。


学院で八年かけて、ようやく覚えたことだ。


その帰り道。


俺は余った「むすび」を一つ食べた。


塩だけ。


ただの米。


でも。


百年以上前の誰かも。


同じようなものを手にして、田んぼのそばを歩いていたのかもしれない。


名前の意味を忘れても。


神様の名前を忘れても。


腹は減る。


だから作る。


握る。


持っていく。


誰かと食べる。


その習慣だけは、消えなかった。


俺は手の中の小さな飯を見る。


本や石碑より。


もしかすると。


こういうものの方が、ずっとしぶといのかもしれなかった。


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