第86話 「むすび」と呼ばれる飯
ヒムカへ来て一週間。
俺は、朝から米を丸めているナギを見つけた。
宿の厨房では、まだ湯気の立つ飯が大きな木桶に広げられている。ナギは手元に水と塩を置き、少し冷ました米を取り、手早く形を整えていた。
丸いもの。
三角に近いもの。
平たく潰したもの。
中には昨日の焼き魚をほぐしたものや、ミソを甘辛く焼いたものが入るらしい。
俺は厨房の入口で固まった。
「……おにぎり」
ナギが振り返る。
「何それ」
しまった。
「いや。なんでもない」
「朝から変なの」
最近、毎日のように言われている。
俺は作業台へ近づいた。
「これ、何て呼ぶの?」
「握り飯」
ですよね。
そこまで都合よく全部残っているわけでは――
「山の方じゃ、むすびって言うけど」
俺の思考が止まった。
「……今、なんて?」
ナギの目が細くなる。
「またそれ?」
「お願い。もう一回」
「むすび」
来た。
今度こそ聞き間違いじゃない。
むすび。
おむすび。
言葉が、そのままではないにしても残っている。
胸の奥が騒ぐ。
でも前回ミソで学んだ。
似ているからといって、すぐ「日本のものだ」と決めつけるな。
「この辺では言わないの?」
「年寄りがたまに言うくらい。村によって違うよ。握り、結び飯、山飯って呼ぶところもあるし」
「意味は?」
「持っていく飯ってだけじゃない?」
ナギ自身は知らないらしい。
それが余計に気になった。
前世で「おむすび」の語源を真面目に調べたことなんてない。神様や縁を結ぶ意味があるとか、山の形だとか、聞いた覚えはある。でも確かなことは知らない。
ここで知ったかぶりは危険だ。
だから。
まず食べる。
「一個もらっていい?」
「これから田に持っていく分だから、一個だけ」
「誰の?」
「父さんたち」
今日は上の棚田で水路の補修があるらしい。昼に戻ってくる時間がないため、朝のうちに飯を持っていく。
つまり弁当だ。
俺は塩だけのものを一つ受け取った。
一口。
少し固めに炊いた米。
塩。
それだけ。
うまい。
「……強いな」
「何が?」
「米と塩」
余計なものがない。
だから米の香りがよく分かる。
前世で、コンビニのおにぎりを何度食べたか分からない。でも今この世界で、山の水を吸った米を塩だけで食べていると、あれとは全然違う食べ物に思えた。
「レンも行く?」
「田んぼ?」
「食べてばっかりじゃ料理人になれないでしょ」
「もう料理人なんだけど」
「じゃあ米がどこから来るか見てきたら」
正論だった。
昼前。
俺、フィア、サヨはナギと一緒に棚田の上まで登った。
フィアは商会の商品調査。
サヨは周辺の古い祭祀跡を見るため。
俺は――荷物持ち。
「料理人って便利に使われてない?」
「体力あるんだからいいでしょ」
ナギに言われた。
俺の背中には、水筒と昼飯。
農民たちの分まで入っている。
まあいい。
飯を運ぶのも料理のうちだ。
水路補修は想像以上に大変だった。
石を動かす。
泥を掻き出す。
板を調整する。
少しでも水の流れが変われば、下の田まで影響する。
俺が「ここ広げたら流れ良くなるんじゃ」と言ったら、昨日会った老人に、
「良くなりすぎると下が干上がる」
と即座に止められた。
また負けた。
農業、難しい。
昼。
日陰に集まり、持ってきた握り飯を配る。
農民たちは座るとすぐ食べ始めた。
手が泥だらけの人もいる。
もちろん、水路の水で軽く洗ってはいる。
でも。
俺は少し気になった。
「ナギ」
「何?」
「これ、朝に握ったんだよね」
「そう」
「夕方まで持つこともある?」
「あるよ」
「夏も?」
「ある」
うーん。
前世の知識が警報を鳴らす。
炊いた米。
手で握る。
常温。
暑い日。
具によっては、かなり危ない。
もちろんヒムカには昔からの経験則があるはずだ。
実際、塩を強めにする。
傷みやすい具を避ける。
笹に似た葉で包む。
そういう工夫はすでにあった。
だから「全部間違い」ではない。
でも改善できる。
「ナギ、握る時って、熱いまま?」
「手で触れるくらいになってから」
「それをすぐ包む?」
「うん」
俺は朝の厨房を思い出す。
まだかなり湯気が出ていた。
温かいまま葉で包めば、中に水滴がつく。
湿った状態は、たぶん良くない。
「一回、ちゃんと冷ましてから包んだ方がいいかもしれない」
ナギが眉をひそめる。
「冷ますと硬くなるよ」
「完全に冷え切る前。湯気がこもらないくらい」
さらに。
大量に握るなら素手じゃなく、清潔な布を使う方法もある。
もちろん、握りにくくなるかもしれない。
そこで試した。
宿へ戻ってから。
米を同じように炊く。
三種類。
素手で握る。
塩水で濡らした手。
煮沸して乾かした薄布を使う。
フィアが見ながら言った。
「また食べ物で実験してる」
「食べ物だから実験する」
最近この返しが定着してきた。
ナギは布で米を包みながら首を傾げる。
「形が作りにくい」
「そこは慣れかな」
「握るというより包んでる」
「じゃあ大量に作る時だけとか」
全部置き換える必要はない。
家庭で数個作るなら、よく洗った手で十分かもしれない。
でも祭りや商隊用に百個作るなら、何十人もの手が触れる。
そこで布や型を使えば、ばらつきも減る。
フィアの目が光った。
嫌な予感がした。
「これ、売れる」
「ほら来た」
「何?」
「絶対言うと思った」
「だって商隊向けにいいでしょ。器がいらない。歩きながら食べられる。具を変えれば商品も分けられる」
ナギが呆れる。
「食べ物見て最初に金の話するの?」
俺は肩をすくめる。
「この人ずっとこうだから」
「レンだって料理見たらすぐ温度測るでしょ」
反撃された。
確かに。
その日の午後。
フィアはもう商売として考え始めていた。
「文字が読めない人でも中身が分かるようにできないかな」
「夏市で使ったみたいに形を変える?」
「それでもいいけど、運ぶと崩れる」
ナギが葉を三種類出した。
「包み方変えたら?」
一折り。
二折り。
紐を横。
斜め。
なるほど。
商人と料理人と現地人が集まると話が早い。
鮭――ではなく塩漬け川魚。
ミソ。
山菜。
それぞれ包み方を変える。
読み書きできなくても判別可能。
さらに食べる順番も決める。
傷みやすい具から先。
塩の強いものは後。
「商隊の飯にちょうどいいな」
俺が言う。
「朝に作って昼。保存食ばっかりよりずっといい」
フィアが頷く。
「ヒムカから西へ売る米料理の入口にもなる」
ナギは腕を組んだ。
「西の人、米ちゃんと食べられる?」
「そこから?」
「水いっぱいで煮て捨てるんでしょ」
「その話まだ引っ張るの?」
いつか犯人を探したい。
夕方。
試作した握り飯を持って、俺たちは山側の小さな集落へ行った。
水路の補修を手伝ってくれた老人が住んでいる。
名前はジンザというらしい。
俺たちが握り飯を広げると、老人は笑った。
「随分きれいな山飯だな」
「この辺だと、むすびって呼ぶって聞いたんですけど」
俺はできるだけ何でもないように聞いた。
ジンザの手が止まった。
「若いのに、その言葉知ってるのか」
「ナギから」
「そうか」
老人は一つ取る。
三角でも丸でもない。
少し平たい形。
「昔はな、祭りに持っていく飯をそう呼んだ」
俺とサヨが同時に顔を上げた。
「祭り?」
サヨが聞く。
ジンザは頷く。
「山と田の境に、古い石がある。田植えと収穫の時に飯を置くんだ。今は普通の握り飯だが、爺さんの頃までは『むすびを供える』って言ってた」
胸がざわつく。
「どうして、むすび?」
「知らん」
あっさり。
「昔からだ」
まただ。
意味は消えた。
形は残った。
サヨが静かに聞く。
「置き方は決まっていますか?」
「あるぞ」
ジンザは指で地面に形を描いた。
中央。
左右。
奥。
手前。
五つ。
サヨの顔色が変わった。
「……同じです」
「何が?」
俺が聞く。
彼女はすぐには答えなかった。
勾玉へ触れる。
「私の家に伝わっている、穀物を供える時の配置です」
空気が静かになる。
老人はサヨの服を今さらじっと見た。
白。
赤。
ヒムカでは少し珍しい形。
「嬢ちゃん、東の人間か?」
「祖先が、そうだったと伝えられています」
ジンザはしばらく考える。
「なら、明後日の祭りを見るといい」
「祭り?」
ナギが聞き返す。
「もうそんな時期?」
「ああ。上の田の水祝いだ」
老人は握り飯を一口食べる。
「大したもんじゃない。米を置いて、酒を撒いて、みんなで食うだけだ」
俺の背中に冷たいものが走った。
米。
酒。
供物。
皆で食べる。
第七航路の資料。
旧神話災害対策局。
名を呼ぶ。
食を供える。
意味を共有する。
神格反応。
そこまで考えて、俺は自分を止めた。
まだ何も起きていない。
普通の農村の祭りだ。
怖がりすぎるな。
でも。
気をつけろ。
俺はサヨを見る。
サヨも同じことを考えているらしい。
目が合った。
「見に行こう」
彼女が言う。
「うん」
今度は。
勝手に手を加えない。
知らない儀式なら、まず見る。
聞く。
記録する。
学院で八年かけて、ようやく覚えたことだ。
その帰り道。
俺は余った「むすび」を一つ食べた。
塩だけ。
ただの米。
でも。
百年以上前の誰かも。
同じようなものを手にして、田んぼのそばを歩いていたのかもしれない。
名前の意味を忘れても。
神様の名前を忘れても。
腹は減る。
だから作る。
握る。
持っていく。
誰かと食べる。
その習慣だけは、消えなかった。
俺は手の中の小さな飯を見る。
本や石碑より。
もしかすると。
こういうものの方が、ずっとしぶといのかもしれなかった。




