第85話 だしは、一つじゃない
ヒムカへ来て五日目。
俺は、ナギに勝負を挑まれた。
理由は簡単だった。
「レンって、本当に料理人なの?」
朝食の片付けをしていたナギが、突然そんなことを言ったのだ。
「ひどくない?」
「だって、来てから温度測って、帳面書いて、蔵で匂い嗅いでるだけじゃん」
「ミソの研究も料理だよ!」
「でも料理してない」
言われてみれば、その通りだった。
旅の途中では商隊の飯を作っていたが、ヒムカに着いてからは宿の厨房を借りる必要がなかった。ナギとその家族が普通にうまい飯を出してくれるからだ。
俺としては食べる方に忙しかった。
「じゃあ作るよ」
「何を?」
「何がいい?」
ナギは少し考え、厨房の棚から一つの壺を持ってきた。
中には、昨日飲んだ淡い色のミソ。
「これで汁」
「ミソ汁?」
「そう。同じミソを使って、どっちが美味しくできるか」
なるほど。
条件を揃えた勝負か。
面白い。
「いいよ」
「負けた方が?」
「何か賭けるの?」
「一週間、朝の水汲み」
地味に重い。
宿の井戸は少し離れている。
「受けた」
後ろで聞いていたフィアがため息をついた。
「なんで料理人って、すぐ勝負したがるの」
「俺だけじゃないよ」
「カイルさんもそうだった」
ぐうの音も出ない。
昼前。
厨房の作業台に材料が並んだ。
共通なのは、水とミソ。
それ以外は、宿にある保存食や山菜を自由に使っていい。
ナギが選んだのは、小さな乾燥魚。
山で採れる葉物。
細い根菜。
それだけ。
俺は棚を見て回った。
乾燥魚は同じものがある。
茸。
それから、昨日市場で見つけた黒緑色の乾物。
水で戻すと薄く広がる。
食べてみたところ、かなり海藻に近い。
「これ使っていい?」
ナギが見る。
「シオバ?」
「そういう名前なんだ」
「いいけど、汁に入れるの?」
「入れる」
ナギは少し怪訝そうだった。
ヒムカではシオバを刻んで和え物にすることが多く、汁の材料にはあまりしないらしい。
俺は乾燥魚とシオバを見る。
前世。
鰹節。
昆布。
もちろん、同じものじゃない。
魚の種類も違う。
海藻も違う。
でも。
もし。
旨味の重ね方が使えるなら。
俺の中の料理人が、久しぶりに思いきり笑った気がした。
まず水へシオバを入れる。
火はまだつけない。
ナギが隣から覗く。
「煮ないの?」
「最初は」
「なんで?」
「……たぶん、その方がいい」
「たぶん?」
「試したことない材料だから」
ここで知ったかぶりはしない。
前世の昆布なら、水から入れてゆっくり温める。
沸騰させすぎると雑味が出る。
でもシオバが同じとは限らない。
だから、小鍋を三つ用意した。
一つは水に浸してから低温。
一つは最初から煮る。
一つは短時間だけ加熱。
ナギが腕を組む。
「勝負の途中で実験始めた」
「初めての材料で一発勝負する方が怖いだろ」
「料理人らしくない」
「料理人だからだよ」
三つを味見する。
煮立てたものは、少し苦い。
短時間は薄い。
最初に水へ浸して、沸騰直前で取り出したものが一番すっきりしている。
「これ」
次に乾燥魚。
そのまま入れず、軽く炙る。
香りが立つ。
頭と腹の部分は少し苦味が出そうなので、半分は除いた。
湯へ入れる。
今度は少しだけ煮る。
魚の香り。
シオバの柔らかい旨味。
それぞれ単独でも味見した。
そして合わせる。
「……お」
思った以上だ。
一足す一が、二より濃く感じる。
フィアにも味見してもらう。
最初にシオバだけ。
次に魚だけ。
最後に両方。
「最後だけ、急に味が広がる」
「だろ?」
ナギも飲む。
表情が変わった。
「何これ」
来た。
この顔。
何年料理をしても、人が予想していなかった味を食べた瞬間の顔は嬉しい。
「魚だけじゃないの?」
「シオバも入ってる」
「でも、シオバの味が強いわけじゃない」
「二つを一緒に使うと、味の土台が厚くなるんだと思う」
前世なら旨味成分の話を少しくらいできる。
昆布のグルタミン酸。
魚や肉のイノシン酸。
組み合わせると強く感じる。
でも俺は、正確な比率も仕組みも知らない。
この世界の食材に同じ成分がある保証もない。
だから言えるのは、ここまでだ。
「種類の違う『美味しい味』が重なると、強く感じることがある」
ナギが首を傾げる。
「甘いと塩辛いを混ぜるみたいな?」
「ちょっと違う。味そのものが前に出る感じ」
「分かりにくい」
「俺も説明下手なんだよ」
学院の先生がいたら、ここから研究が始まるのに。
今、レオルはいない。
ちょっと惜しい。
でも料理なら、理屈が全部分からなくても確かめられる。
ミソを溶く。
沸騰させすぎないよう火を落とす。
具には薄切りの茸と山菜。
最後に香りを確認。
完成。
俺は一口飲んだ。
うまい。
かなり。
前世の味噌汁とは違う。
でも、白飯を呼ぶ味だ。
**「勝ったな」**
声に出た。
ナギが隣で笑う。
「まだ私の飲んでないのに?」
「雰囲気」
「料理で一番信用できないやつ」
そしてナギの番。
やっていることは、驚くほど地味だった。
乾燥魚を水へ入れる。
ただし、俺よりずっと少ない。
根菜を薄く切る。
山菜は茎と葉を分ける。
茎を先に煮る。
葉は最後。
ミソを溶く前に、鍋を一度火から外す。
「それ、なんで?」
「香り飛ぶから」
「どのくらいで?」
「匂いで分かる」
強い。
俺が温度計を取ろうとすると、
「今は駄目」
と手を叩かれた。
「勝負中だから」
「研究者泣くぞ」
「私は料理人」
格好いい。
完成した汁を飲む。
「…………」
悔しい。
派手さはない。
俺の方が一口目の旨味は強い。
でも二口。
三口。
白飯。
また汁。
全然疲れない。
ミソの香りがちゃんと残っている。
山菜の苦味も少し。
根菜の甘さ。
乾燥魚は前に出ないのに、全体を支えている。
「どう?」
ナギが聞く。
「うまい」
「どっちが?」
嫌な質問だ。
俺は自分の椀とナギの椀を交互に飲む。
俺の方。
美味い。
分かりやすい。
料理人が集まる試食会なら、こっちに票が入るかもしれない。
でも。
これを毎朝飲むなら。
「……ナギ」
「よし」
「まだ最後まで言ってない!」
「顔で分かった」
悔しい。
かなり悔しい。
でも。
面白い。
俺はもう一度、ナギの汁を飲む。
「なんで重くならないんだろ」
ナギは少し考えて答えた。
「毎日食べるから」
「それだけ?」
「それが大事でしょ」
簡単に言う。
でも、その一言が妙に残った。
「祭りの日とか、客が来た時はもっと濃くするよ。でも朝から毎日そんなの飲んだら飽きる」
俺は黙った。
前世でもそうだった。
ご馳走と家庭料理は違う。
一口で驚かせる料理。
毎日帰ってきて食べたくなる料理。
どちらが上という話ではない。
目的が違う。
俺は、学院で名前を隠して食べ比べた時のことを思い出した。
料理は順位一つで決まらない。
誰が。
いつ。
いくらで。
どれくらいの頻度で食べるか。
そこまで含めて料理になる。
「じゃあ引き分け?」
俺が言う。
「私の勝ち」
「なんで!」
「レンが私の方を毎朝向きって言ったから」
「俺のは特別な日に強い!」
「今日は普通の日」
くそ。
理屈が強い。
結局、水汲みについてはフィアの仲裁で「一日だけ俺が担当」ということになった。
納得はしていない。
午後。
俺たちは残った二つの汁を、小さな器に分けてサヨへ持っていった。
彼女は宿の裏庭で、古い記録を整理していた。
「料理勝負ですか?」
「俺の方が豪華な味」
「ナギの方が美味しい」
「フィアは黙ってて」
サヨが笑う。
まず俺の汁。
「美味しいです」
次。
ナギの汁。
一口。
そこで。
サヨの動きが止まった。
「……サヨ?」
返事がない。
もう一口。
今度はゆっくり。
そして、椀を持つ指が震えた。
「どうしたの?」
俺が聞くと、サヨはしばらく答えなかった。
やがて、汁の表面を見たまま呟く。
「似ています」
「何に?」
「私の家に伝わっていた、供え物の汁に」
空気が変わった。
ナギも表情を引き締める。
「供え物?」
サヨは頷いた。
「もちろん、材料も名前も完全には残っていませんでした。私が教わった頃には、豆を潰した塩味の汁、としか」
俺はナギの椀を見る。
乾燥魚。
山菜。
根菜。
ミソ。
どれも、ヒムカでは普通の材料だ。
「味まで伝わってたの?」
「いいえ」
サヨは首を振る。
「作り方の断片です」
そして指を一本ずつ折る。
「乾かした魚を少量。苦味のある山の菜。豆を発酵させた塩辛いもの。最後に香りを残すため、強く煮立てない」
俺とナギは顔を見合わせた。
ほぼ同じだ。
「誰に習ったの?」
ナギが聞く。
「母から。その母も、さらに前の人から」
「ヒムカの料理だって聞いた?」
「いいえ。私たちは意味の分からない祭祀の作法として受け継いでいました」
サヨは少し笑った。
でも目は濡れていた。
「美味しいものだとは、知りませんでした」
その言葉が胸に刺さった。
遠く離れた場所では。
味を忘れたまま、形だけが残った。
ヒムカでは。
意味を忘れたまま、毎日の朝飯として残った。
同じものだったかは、まだ分からない。
偶然かもしれない。
人が豆を発酵させ、魚で汁を取れば、似た料理へ辿り着く可能性だってある。
決めつけるな。
俺は自分に言い聞かせる。
それでも。
サヨは椀を両手で包んだ。
「母にも食べさせたかった」
小さな声だった。
誰もすぐには返せなかった。
ナギがしばらく考えてから、立ち上がる。
「作り方、書く?」
サヨが顔を上げる。
「え?」
「その家の作り方と、うちの作り方。違うところ比べたらいいんでしょ」
俺は思わずナギを見る。
「それ、俺が言おうと思った」
「遅い」
また負けた。
でも今度は、ちっとも悔しくなかった。
その夜。
ナギの汁の作り方と、サヨの家に伝わる供物の記録を並べた。
似ている部分。
違う部分。
分からない部分。
全部書く。
俺は途中で気づいた。
今日、俺は「だしを重ねれば味が強くなる」ことを見せた。
ナギは「毎日食べる料理は強ければいいわけじゃない」と教えてくれた。
サヨは、料理が味だけでなく記憶まで運ぶことを見せてくれた。
だしは一つじゃない。
料理の正解も、一つじゃない。
そして。
同じ料理が残る方法も。
たぶん、一つじゃない。
本に書かれる。
儀式として受け継がれる。
毎日の朝飯になる。
名前だけ残る。
味だけ残る。
そうやって別々の場所に散らばった欠片が。
今。
一つの食卓で、少しずつ重なり始めていた。




