第84話 これは味噌じゃない――たぶん
翌朝。
俺は、匂いで目を覚ました。
米を炊く匂い。
焼いた魚。
それから、もう一つ。
鼻の奥へ引っかかる、懐かしいような発酵の香り。
布団から起き上がった瞬間、頭が完全に覚醒した。
「……まさか」
階段を降りる。
食堂では、ナギが大鍋をかき混ぜていた。
湯気の向こうに見える汁は、茶色い。
昨日の夕飯にも出ていたものだ。
その時は白米に意識を全部持っていかれて、よく味わっていなかった。
俺は鍋へ近づく。
「ナギ」
「なに」
「それ、何?」
「朝飯」
「そうじゃなくて」
鍋を指す。
「その汁」
ナギが変な顔をした。
「ミソ汁だけど」
止まった。
完全に。
「……今、何て?」
「ミソ汁」
「もう一回」
「ミ・ソ・汁」
聞き間違いじゃない。
俺の頭の中で何かが爆発した。
**「来た……! ついに来た……!」**
「何が?」
声に出ていたらしい。
フィアが階段を降りながら怪訝そうに俺を見る。
「いや、何でもない」
何でもある。
ありすぎる。
米。
むす――いや、まだそこまでは見ていない。
そしてミソ。
単なる似た発酵食品ではなく、名前まで近い。
俺は椀を一つ取った。
「食べていい?」
「朝飯なんだから食べれば」
ナギに呆れられながら、汁をよそう。
具は山菜と小さな芋。
表面には油がほとんど浮いていない。
匂いを嗅ぐ。
豆。
塩。
発酵。
でも、前世で慣れ親しんだ味噌より香りが鋭い。
一口。
「…………」
違う。
思っていたものとは違う。
塩気が強い。
酸味も少しある。
豆だけじゃない。何か穀物っぽい甘さと、わずかな苦味も感じる。
それでも。
方向は、間違いなく近い。
「どう?」
ナギが聞く。
「味噌だ……」
「だからミソだって言ってるでしょ」
そうじゃない。
でも説明できない。
俺はもう一口飲んだ。
前世の朝。
急いで作った味噌汁。
妹が寝ぼけながら飲んでいた。
具が豆腐だけの日。
わかめを入れた日。
余った野菜を全部放り込んだ日。
思い出してしまう。
胸の奥が熱くなった。
でも昨日の米ほど、泣きそうにはならなかった。
代わりに料理人の方が先に動いた。
「これ、何から作る?」
ナギが鍋を混ぜながら答える。
「豆とサラ。あと塩」
「サラ?」
「黄色い小粒の穀物。山の方でよく採れる」
聞いたことがない。
「発酵させる?」
ナギの手が止まった。
「その言葉、西にもあるんだ」
「パンとか酒で」
「ああ。じゃあ分かるか」
ナギは少しだけ警戒を解いた。
「蒸した豆とサラを潰して、塩と混ぜて桶に詰める。あとは蔵で置く」
「どれくらい?」
「ものによる」
「温度は?」
「ものによる」
「塩の量は?」
「ものによる」
「……全部ものによるじゃん」
「そういうものだから」
強い。
ナギは腕を組んだ。
「夏仕込みと冬仕込みで違うし、桶でも違う。豆でも違う。蔵の奥と入口でも違う。古い家ほど癖がある」
完全に職人の世界だ。
俺は頭の中で、自分の知識と照らす。
前世の味噌なら、麹。
大豆。
塩。
種類によって米麹や麦麹。
発酵と熟成。
でも俺は、味噌作りを最初から最後までやったことはない。
家庭科か何かで仕組みを見た程度だ。
麹菌のことも、大雑把にしか知らない。
ここで「知ってる」と言い切るのは危険だ。
「俺、これ自分では作れない」
ナギが意外そうな顔をした。
「さっきから詳しそうなのに?」
「似たものを知ってる。でも、作り方まではちゃんと知らない」
「似たもの?」
「昔、聞いたことがある」
便利な言葉だ。
そして、これ以上は掘られたくない。
幸いナギはそこに興味を持たず、桶の話を続けた。
「失敗すると臭くなる」
「どんな感じ?」
「腐ったみたいな臭い。表面が変な色になったり、汁が浮きすぎたり」
「毎回同じ味になる?」
「ならない」
即答だった。
「同じ家でも年で変わる。上手い蔵は安定するけど」
俺の中で、学院でやってきたことが動き始める。
温度。
記録。
比較。
条件を揃える。
「ナギ」
「何?」
「ミソ蔵、見せてもらえる?」
今度こそ警戒された。
「何する気?」
「壊さない」
「先にそれ言う奴ほど怪しいんだけど」
信用がない。
なぜだ。
フィアが横で小さく笑っている。
朝食の後。
ナギの母親に許可を取り、宿の裏にある蔵へ入った。
中はひんやりしている。
木桶が並んでいる。
大きいもの。
小さいもの。
表面に仕込み日らしい印があるものもあれば、ないものもある。
香りがすごい。
豆。
塩。
木。
発酵。
湿気。
俺は一つずつ見ていく。
ナギが言う。
「その桶は去年の冬。その隣は夏」
「違いは?」
「夏の方が早い。でも暴れやすい」
「暴れる?」
「香りが強くなりすぎる。酸っぱくなることもある」
温度の影響。
たぶん大きい。
「測っていい?」
「何を?」
俺は荷物から、学院で使っていた簡易温度計を出した。
細い管の中で液体が動くもの。
ナギの目が少し変わる。
「それが温度を見る棒?」
「知ってる?」
「田んぼで見た」
ヒムカにも少し入ってきているらしい。
俺は蔵の入口。
中央。
奥。
それぞれ測る。
差がある。
思ったより大きい。
「奥の方が低い」
「そりゃそうでしょ」
「知ってるの?」
「体で分かる」
負けた。
でも数字にすると別の意味がある。
俺は紙へ書く。
場所。
温度。
桶の仕込み時期。
材料。
ナギが覗き込む。
「何してるの?」
「記録」
「そんなの覚えてる」
「ナギはね」
彼女が黙った。
「でも、ナギがいなくなったら?」
少し強い言い方だったかもしれない。
すぐ言い直す。
「例えば弟子に教える時。『このくらいの涼しさ』って言っても、人によって感じ方違うだろ?」
ナギは温度計を見る。
「……数字なら同じ?」
「少なくとも、近づけやすい」
完全ではない。
温度だけで味は決まらない。
菌の種類も。
材料も。
塩も。
桶も。
蔵も。
でも一つずつ条件を残せば、何が違ったかを後から比べられる。
フィアも帳面を取り出した。
「塩の量は?」
ナギが答える。
「桶ごとに違う」
「量ってる?」
「手で」
「……レン」
「うん」
二人で目が合った。
量ろう。
ナギが嫌そうな顔をした。
「私の仕事、全部数字にする気?」
「違う」
俺は即答した。
「ナギの鼻とか舌は、絶対必要」
それは本気だ。
俺には、このミソが「いつ食べ頃か」なんて分からない。
表面の色も。
香りの変化も。
ナギの方が圧倒的に上だ。
「でも」
温度計を持ち上げる。
「鼻で分かったことを、数字でも残す」
「なんで?」
「次の人が、ナギのところまで早く来られるから」
ナギはしばらく黙った。
やがて、木桶の一つを叩く。
「じゃあ、この桶からやってみる」
「いいの?」
「ただし」
睨まれる。
「不味くしたら追い出す」
「重い!」
研究の責任が宿泊権に直結した。
数日間、俺たちは宿の仕事を手伝いながら、ミソ蔵の記録を始めた。
温度。
塩。
豆とサラの割合。
仕込み日。
桶の位置。
香り。
色。
ナギの評価。
最後の項目だけ妙に雑だった。
「良い」
「普通」
「嫌な感じ」
「嫌な感じって何?」
「嫌な感じは嫌な感じ」
職人語。
強い。
でも、これも大事だ。
俺は勝手に「数値化できないものは無意味」なんて思わない。
むしろ、ナギの「嫌な感じ」と温度や塩分の変化が何度も一致するなら、その感覚自体が重要な観測になる。
三日目。
去年の記録を聞き取りながら整理していると、一つ面白いことが見えてきた。
失敗した桶は、夏場に蔵の入口近くへ置いたものが多い。
逆に、奥に置いたものは比較的安定。
ナギの父親も記憶を辿りながら頷いた。
「言われてみりゃ、そうかもしれんな」
ナギが温度計を見た。
「入口が暑いから?」
「可能性は高い。でも決めつけない」
学院で嫌というほど学んだ。
一回一致しただけでは証明にならない。
「次の仕込みで、材料と塩をなるべく揃えて、置く場所だけ変えてみたい」
ナギの目が細くなる。
「ミソで実験するの?」
「食べ物だから実験する」
失敗すれば飯が減る。
だから小さな桶で。
三つ。
入口。
中央。
奥。
それぞれ同じ材料。
同じ重量。
同じ仕込み日。
「温度も毎日見る」
「毎日?」
「毎日」
ナギは嫌そうだった。
フィアはもっと現実的だった。
「これ、安定したら売り物の品質揃えやすくなるよ」
ナギが振り向く。
「急に怖い話し始めた」
「商売の話」
「やっぱり怖い」
俺は笑った。
その日の夕食。
昨日とは別のミソを使った汁が出た。
色が少し淡い。
一口。
甘い。
「これ違う」
「分かる?」
ナギが少し嬉しそうだった。
「こっちはサラ多め。冬仕込み」
なるほど。
俺はもう一口飲む。
味噌じゃない。
少なくとも、俺が知っていた日本の味噌そのものではない。
でも。
ミソだ。
名前が残って。
技術が残って。
何世代も誰かが桶を混ぜ。
失敗して。
覚えて。
また作った。
だから今、俺の前にある。
日本のものだ、と言ってしまいたい気持ちがあった。
でも、それは違う気がした。
この味をここまで育てたのは、俺じゃない。
前世の日本人でもない。
ヒムカで暮らしてきた人たちだ。
俺は汁を飲みながら思う。
消されなかったものは。
そのまま凍って残ったんじゃない。
生きていたから。
変わった。
変わりながら、残った。
ナギが向かいから聞く。
「で、どう?」
「うまい」
「それだけ?」
少し考える。
「俺が知ってるのとは違う」
「何が?」
また聞かれた。
俺は椀を見る。
「でも、違うから面白い」
ナギは一瞬きょとんとして。
それから笑った。
「変な料理人」
また言われた。
まあいい。
たぶん、しばらくこの呼び名は消えない。
でも。
この土地で最初に見つけたものが、俺の記憶と同じ味じゃなくて。
今は少し、良かったと思っていた。




