第83話 米の海
峠を越えてから、俺は何度も立ち止まりそうになった。
右を見ても田んぼ。左を見ても田んぼ。谷底にも、山の斜面にも、水を張った小さな田が段々に続いている。一本の太い水路から枝分かれした細い溝が、それぞれの田へ水を運び、さらに下の段へ落としていた。
村で初めて稲を育てた時は、一株ごとに祈るような気持ちだった。
ここでは、その稲が景色になっている。
「レン、口開いてる」
フィアに言われて閉じた。
「だって……これ全部、米だぞ」
「見れば分かるよ」
「そういう意味じゃなくて!」
サヨも足を止めていた。
彼女は俺とは違う顔で田を見ている。懐かしいのか、怖いのか、それとも自分でも分からないのか。勾玉へ手を添えたまま、しばらく動かなかった。
商隊を案内していたヒムカの男が振り返る。
「そんなに珍しいか?」
「珍しいです」
俺は即答した。
男は首を傾げた。
「西じゃ米を食わんのか」
「ほとんど見ない」
「変な土地だな」
その言葉に、ちょっと笑ってしまった。
この世界では、こっちが普通なのだ。
道を下っていくと、田の中で何人もの農民が働いていた。
水路の板を上げる者。
泥へ足を入れて苗を見ている者。
畦を補修している者。
俺はつい、水へ目が行く。
流れ。
日当たり。
水温。
学院で学んだことが頭に浮かんだ。
「あの、水の温度って――」
近くにいた老人が顔を上げた。
「今日は上の田で朝が十四、昼前で十八。下は二つほど高い」
俺は黙った。
老人は続ける。
「夕方には逆に上の方が冷えやすい。谷風が落ちるからな」
「……測ってるんですか?」
「去年から棒で見るようになった」
棒。
温度計だ。
しかも使ってる。
俺は思わず畦へ近づいた。
「じゃあ、田ごとに記録を?」
「全部は無理だ。代表で六枚。水の入り口と出口を比べる」
強い。
俺は、何か教えられることがあるかもしれないと思っていた。
でも、この土地の人たちは、米を何十年も、何百年も育てている。
俺が知っているのは「稲作というものがある」という大きな形だけ。
田ごとの癖。
風。
土。
虫。
水。
それを知っているのは、この人たちだ。
老人が俺を見る。
「兄ちゃん、米作りを知ってるのか?」
「少しだけ」
「どこの田だ?」
「……西です」
「西で?」
「小さい田を作ったことがあります」
嘘ではない。
老人の目つきが少し変わった。
「なら、苗の根を見てみろ」
一本、抜いた苗を渡される。
白い根。
一部が茶色い。
「これは?」
「水が多すぎる?」
「半分。当たりだ」
半分。
老人は笑う。
「この田は水を冷やすために多く流してる。根が弱いのは水そのものより、昨日から曇って地温が上がってないせいだ」
分からない。
面白い。
「もう一回教えてください」
フィアが後ろで小さく笑った。
「ヒムカに来て最初にすること、それなんだ」
「だって気になるだろ!」
日本の痕跡を探しに来た。
神々のことも。
消された歴史も。
でも目の前に知らない米作りがあったら、それはそれで気になる。
俺は料理人なのだ。
食べ物の入口から無視できるわけがない。
商隊が泊まることになったのは、谷の中央にある大きな宿だった。
木造二階建て。
一階は食堂を兼ねている。
裏には倉庫。
そして。
軒先に吊るされていたものを見て、俺はまた止まった。
藁。
編まれている。
束ね方に見覚えがある。
でも、形は知らない。
見慣れているようで、知らない。
ヒムカに入ってからずっとそれだ。
俺の記憶を指でなぞられているみたいなのに、最後のところだけ形が違う。
「泊まり?」
声をかけてきたのは、俺たちとそう年の変わらない少女だった。
濃い茶色の髪を後ろで一つにまとめ、袖を肘までまくっている。細身なのに、大きな米袋を平然と引きずっていた。
「ノルン商会です」
フィアが前へ出る。
「予約をお願いしていたフィア・ノルンです」
「ああ、西の商会ね。聞いてる」
少女は俺、サヨ、荷馬車を順番に見る。
「三人と護衛十二、御者四。馬六。荷物は裏の倉庫。刃物と魔石は申告して」
早い。
フィアが少し嬉しそうな顔になった。
こういう段取りのいい人間が好きなのだ。
「あなたが?」
「ナギ。ここの娘」
そう言って、少女――ナギは俺の腰の包丁箱を見る。
「料理人?」
「分かる?」
「その箱、料理人が使うやつでしょ」
西と形が少し違うらしい。
「レンです」
「へえ」
俺の顔を見る。
「米、炊ける?」
挑戦的だった。
「炊ける」
「ふうん」
鼻で笑われた。
なんだその反応。
「何?」
「西の人、米を鍋いっぱいの水で煮て捨てるって聞いたから」
「誰だそんなことした奴!」
思わず声が大きくなった。
ナギが少し驚く。
「……怒るところ?」
「怒る」
米を煮て、水を捨てる。
料理法として存在するのは知っている。
でも今の俺には無理だ。
ここまで来て。
目の前に米があって。
最初の一杯がそれだったら、泣く。
「変な料理人」
ナギは笑って厨房へ消えた。
夕食の時間。
俺は朝から落ち着かなかった。
炊事場の方から、ずっと匂いがしていたからだ。
米。
間違えようがない。
炊き上がる時の、甘い湯気。
前世では当たり前すぎて、意識もしなかった匂い。
それが今は。
胸の奥を直接掴んでくる。
膳が運ばれてきた。
焼いた川魚。
山菜の和え物に似たもの。
茶色い汁。
漬けた根菜。
そして。
中央に。
白い飯。
俺はしばらく動かなかった。
「レン?」
フィアが心配そうに見る。
「……大丈夫」
箸ではない。
二本の細い木の棒が置かれている。
持ち方も、少し違う。
でも俺には使える。
白い米を一口取る。
食べる。
柔らかい。
少し粘りが弱い。
香りも、前世の米より強い。
水分はやや少なめ。
違う。
俺が知っていた日本の米とは違う。
なのに。
「……うまい」
声が震えた。
ナギが近くの卓を片付けながらこちらを見る。
「そんな珍しいものみたいに食べる?」
「珍しいんだよ」
「米が?」
「うん」
「毎日あるよ」
その一言で、危うく泣きそうになった。
毎日。
ここでは米が、特別じゃない。
神秘でもない。
失われた作物でもない。
ただの夕飯だ。
それが。
どうしようもなく嬉しかった。
サヨも静かに米を食べている。
彼女の目も少し赤い。
フィアだけが、俺たち二人を見比べていた。
何かを聞きたそうだった。
でも聞かなかった。
代わりに自分も一口食べる。
「……美味しい」
「だろ?」
なぜか俺が誇らしくなる。
そこへナギが戻ってきた。
「何であんたが得意そうなの」
「分からない」
自分でも本当に分からない。
ナギは俺たちの椀を見る。
「足りなければ、おかわりあるよ」
俺は反射的に立ち上がりかけた。
「ください」
「早いな!」
フィアに笑われる。
いい。
今日はいいだろ。
二杯目の飯を受け取る。
白い湯気。
山ほどの田んぼ。
米を知っている農民たち。
米を毎日炊く料理人。
ここには俺が教える前から、全部あった。
日本そのものではない。
でも。
消されたはずの何かが。
確かに、生活の中で息をしていた。




