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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第九章 ヒムカ――消せなかった国の味

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第83話 米の海

峠を越えてから、俺は何度も立ち止まりそうになった。


右を見ても田んぼ。左を見ても田んぼ。谷底にも、山の斜面にも、水を張った小さな田が段々に続いている。一本の太い水路から枝分かれした細い溝が、それぞれの田へ水を運び、さらに下の段へ落としていた。


村で初めて稲を育てた時は、一株ごとに祈るような気持ちだった。


ここでは、その稲が景色になっている。


「レン、口開いてる」


フィアに言われて閉じた。


「だって……これ全部、米だぞ」


「見れば分かるよ」


「そういう意味じゃなくて!」


サヨも足を止めていた。


彼女は俺とは違う顔で田を見ている。懐かしいのか、怖いのか、それとも自分でも分からないのか。勾玉へ手を添えたまま、しばらく動かなかった。


商隊を案内していたヒムカの男が振り返る。


「そんなに珍しいか?」


「珍しいです」


俺は即答した。


男は首を傾げた。


「西じゃ米を食わんのか」


「ほとんど見ない」


「変な土地だな」


その言葉に、ちょっと笑ってしまった。


この世界では、こっちが普通なのだ。


道を下っていくと、田の中で何人もの農民が働いていた。


水路の板を上げる者。


泥へ足を入れて苗を見ている者。


畦を補修している者。


俺はつい、水へ目が行く。


流れ。


日当たり。


水温。


学院で学んだことが頭に浮かんだ。


「あの、水の温度って――」


近くにいた老人が顔を上げた。


「今日は上の田で朝が十四、昼前で十八。下は二つほど高い」


俺は黙った。


老人は続ける。


「夕方には逆に上の方が冷えやすい。谷風が落ちるからな」


「……測ってるんですか?」


「去年から棒で見るようになった」


棒。


温度計だ。


しかも使ってる。


俺は思わず畦へ近づいた。


「じゃあ、田ごとに記録を?」


「全部は無理だ。代表で六枚。水の入り口と出口を比べる」


強い。


俺は、何か教えられることがあるかもしれないと思っていた。


でも、この土地の人たちは、米を何十年も、何百年も育てている。


俺が知っているのは「稲作というものがある」という大きな形だけ。


田ごとの癖。


風。


土。


虫。


水。


それを知っているのは、この人たちだ。


老人が俺を見る。


「兄ちゃん、米作りを知ってるのか?」


「少しだけ」


「どこの田だ?」


「……西です」


「西で?」


「小さい田を作ったことがあります」


嘘ではない。


老人の目つきが少し変わった。


「なら、苗の根を見てみろ」


一本、抜いた苗を渡される。


白い根。


一部が茶色い。


「これは?」


「水が多すぎる?」


「半分。当たりだ」


半分。


老人は笑う。


「この田は水を冷やすために多く流してる。根が弱いのは水そのものより、昨日から曇って地温が上がってないせいだ」


分からない。


面白い。


「もう一回教えてください」


フィアが後ろで小さく笑った。


「ヒムカに来て最初にすること、それなんだ」


「だって気になるだろ!」


日本の痕跡を探しに来た。


神々のことも。


消された歴史も。


でも目の前に知らない米作りがあったら、それはそれで気になる。


俺は料理人なのだ。


食べ物の入口から無視できるわけがない。


商隊が泊まることになったのは、谷の中央にある大きな宿だった。


木造二階建て。


一階は食堂を兼ねている。


裏には倉庫。


そして。


軒先に吊るされていたものを見て、俺はまた止まった。


藁。


編まれている。


束ね方に見覚えがある。


でも、形は知らない。


見慣れているようで、知らない。


ヒムカに入ってからずっとそれだ。


俺の記憶を指でなぞられているみたいなのに、最後のところだけ形が違う。


「泊まり?」


声をかけてきたのは、俺たちとそう年の変わらない少女だった。


濃い茶色の髪を後ろで一つにまとめ、袖を肘までまくっている。細身なのに、大きな米袋を平然と引きずっていた。


「ノルン商会です」


フィアが前へ出る。


「予約をお願いしていたフィア・ノルンです」


「ああ、西の商会ね。聞いてる」


少女は俺、サヨ、荷馬車を順番に見る。


「三人と護衛十二、御者四。馬六。荷物は裏の倉庫。刃物と魔石は申告して」


早い。


フィアが少し嬉しそうな顔になった。


こういう段取りのいい人間が好きなのだ。


「あなたが?」


「ナギ。ここの娘」


そう言って、少女――ナギは俺の腰の包丁箱を見る。


「料理人?」


「分かる?」


「その箱、料理人が使うやつでしょ」


西と形が少し違うらしい。


「レンです」


「へえ」


俺の顔を見る。


「米、炊ける?」


挑戦的だった。


「炊ける」


「ふうん」


鼻で笑われた。


なんだその反応。


「何?」


「西の人、米を鍋いっぱいの水で煮て捨てるって聞いたから」


「誰だそんなことした奴!」


思わず声が大きくなった。


ナギが少し驚く。


「……怒るところ?」


「怒る」


米を煮て、水を捨てる。


料理法として存在するのは知っている。


でも今の俺には無理だ。


ここまで来て。


目の前に米があって。


最初の一杯がそれだったら、泣く。


「変な料理人」


ナギは笑って厨房へ消えた。


夕食の時間。


俺は朝から落ち着かなかった。


炊事場の方から、ずっと匂いがしていたからだ。


米。


間違えようがない。


炊き上がる時の、甘い湯気。


前世では当たり前すぎて、意識もしなかった匂い。


それが今は。


胸の奥を直接掴んでくる。


膳が運ばれてきた。


焼いた川魚。


山菜の和え物に似たもの。


茶色い汁。


漬けた根菜。


そして。


中央に。


白い飯。


俺はしばらく動かなかった。


「レン?」


フィアが心配そうに見る。


「……大丈夫」


箸ではない。


二本の細い木の棒が置かれている。


持ち方も、少し違う。


でも俺には使える。


白い米を一口取る。


食べる。


柔らかい。


少し粘りが弱い。


香りも、前世の米より強い。


水分はやや少なめ。


違う。


俺が知っていた日本の米とは違う。


なのに。


「……うまい」


声が震えた。


ナギが近くの卓を片付けながらこちらを見る。


「そんな珍しいものみたいに食べる?」


「珍しいんだよ」


「米が?」


「うん」


「毎日あるよ」


その一言で、危うく泣きそうになった。


毎日。


ここでは米が、特別じゃない。


神秘でもない。


失われた作物でもない。


ただの夕飯だ。


それが。


どうしようもなく嬉しかった。


サヨも静かに米を食べている。


彼女の目も少し赤い。


フィアだけが、俺たち二人を見比べていた。


何かを聞きたそうだった。


でも聞かなかった。


代わりに自分も一口食べる。


「……美味しい」


「だろ?」


なぜか俺が誇らしくなる。


そこへナギが戻ってきた。


「何であんたが得意そうなの」


「分からない」


自分でも本当に分からない。


ナギは俺たちの椀を見る。


「足りなければ、おかわりあるよ」


俺は反射的に立ち上がりかけた。


「ください」


「早いな!」


フィアに笑われる。


いい。


今日はいいだろ。


二杯目の飯を受け取る。


白い湯気。


山ほどの田んぼ。


米を知っている農民たち。


米を毎日炊く料理人。


ここには俺が教える前から、全部あった。


日本そのものではない。


でも。


消されたはずの何かが。


確かに、生活の中で息をしていた。


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