第82話 東へ――料理人、旅に出る
学院を卒業して三週間後。
俺は、東へ向かう商隊の荷馬車に揺られていた。
荷台には小麦、塩、乾燥肉、薬草、布、鉄製品。それから交易用の魔石が積まれている。俺の荷物は、その隙間に押し込まれた包丁箱と着替えと料理記録、それにサヨから預かった古い資料だけだ。
隣の馬車にはフィア。
さらに後ろにはサヨ。
ノルン商会が組んだ東方交易路の調査隊に、俺たちはそれぞれ別の理由で参加していた。
フィアは正式な商会員として、交易路と現地商品の調査。
サヨはヒムカに残る祭祀や古い伝承を調べるため。
そして俺は――
「食料管理兼、調理担当」
御者台からフィアが振り返った。
「格好つけて言ってるけど、料理人だよね」
「いいだろ。希望通りの就職だよ」
「無給だけど」
「そこを言うな」
卒業早々、世知辛い。
とはいえ旅費と食費は商会持ちだ。ヒムカへ向かえる上に、現地の料理まで調べられる。
俺としては十分すぎる条件だった。
アウルムからヒムカまでは、順調でも二十日以上かかる。
王都方面の整備された街道と違い、東へ行くほど道は細くなる。途中には峠もあり、大きな川も越える。宿がない区間では野営になる。
つまり、飯が重要だ。
出発前。
俺は食料担当から渡された帳簿を見て、最初に首を傾げた。
「これ、どういう順番で食べる予定?」
「順番?」
担当の商人は不思議そうな顔をした。
「一日ごとに麦、干し肉、豆を割り当ててある。なるべく均等になるようにな」
確かに量は計算されている。
一人一日何グラム――なんて細かい単位ではないが、袋と樽ごとの配分はある。
問題は。
「干し肉、一番最初から同じ量で使うの?」
「そうだ」
「途中の村で肉が買える予定なのに?」
「……あ」
フィアが横から帳簿を取った。
そして俺より先に気づく。
「野菜も同じ。最初の補給地までは生の根菜を持つのに、その前から乾燥野菜を使ってる」
俺たちは顔を見合わせた。
食料が足りないわけじゃない。
でも使い方がもったいない。
そこで、荷物を全部並べ直した。
まず、傷みやすいもの。
次に、途中で補給しやすいもの。
最後まで残すべき保存食。
さらに、重さ。
乾燥肉は長持ちするが重い。
豆も重い。
逆に乾燥野菜は軽い。
塩は減らせない。
燃料も忘れてはいけない。
「これ、食べ物だけ見ても駄目だな」
俺が言うと、フィアが頷いた。
「煮込みばっかりにすると薪を使う」
「水もいる」
「山道だと補給できない区間がある」
いつの間にか、地面に三枚の紙が広がっていた。
旅程。
食料。
水と燃料。
全部を重ねる。
最初の五日間は生の根菜と買い足しやすい麦を優先。
川沿いでは水を多く使う料理もできる。
山へ入る前に保存食を補充。
峠越えの二日間は、短時間で作れるものを中心にする。
干し肉は全部同じ量ずつ食べるのではなく、補給が途切れた時の予備を残す。
フィアが指で計算しながら言った。
「これなら、予定より三日分くらい余裕を持てる」
「三日?」
商隊長が驚いた。
「食料を増やしてないぞ?」
「増やしてないです」
俺は答えた。
「食べる順番を変えただけ」
商隊長が帳簿と荷物を交互に見る。
「……学院ってのは、こんなことまで教えるのか?」
俺とフィアは同時に答えた。
「教えてないです」
先生たち、ごめんなさい。
でも、多分こういうのも勉強ってことでいいと思う。
旅が始まって四日目。
早速その計画が役に立った。
予定していた村で、肉が買えなかったのだ。
家畜の病気が出て、外へ売る分を止めていた。
以前の計画なら、そこで干し肉を多めに開けるところだった。
でも俺たちは、その村で安く手に入った豆と玉葱を買った。
夕食は豆の煮込み。
干し肉は細かく刻んで、味を出す程度。
骨付きの燻製肉を一つ鍋へ入れるだけで、汁全体に旨味が回る。
「肉少なくない?」
若い護衛が鍋を覗き込む。
「食べてから言って」
豆を潰して少しとろみをつける。
焼いた玉葱。
香草。
最後に塩。
大鍋から湯気が上がった。
護衛は一杯食べて。
もう一杯取りに来た。
「肉、少なくてもいけるな」
「だろ?」
こういう時は気持ちいい。
**「戦闘力は肉の量だけじゃないのだよ」**
「何の戦闘だ?」
「夕飯」
誰も分かってくれなかった。
旅の十日目。
景色が変わった。
平地が減り、山が近くなる。
街道の脇を流れる川は細く、速い。
そしてサヨは、日に日に口数が少なくなっていた。
野営の夜。
俺は焚き火のそばで、乾燥した靴を裏返しているサヨへ聞いた。
「緊張してる?」
「……少し」
火の向こうで、彼女は微笑んだ。
「私の家に伝わっていた話では、祖先は東から来たとされています。でも、何代前なのかさえ曖昧なんです」
「ヒムカへ行ったことは?」
「ありません」
やっぱり。
俺はずっと、サヨならヒムカのことを知っているような気がしていた。
でも違う。
彼女も、残された断片を受け取った一人だ。
「私は『最後の巫女』だと教わりました」
サヨは自分の勾玉へ触れる。
「だから、東へ行って何もなかったら……少し怖いです」
俺には、その気持ちが分かる気がした。
日本を探している俺と似ている。
期待して。
見つけたくて。
でも、本当に見つけてしまうのも怖い。
「何もなくても、サヨが受け継いだものまで消えるわけじゃないよ」
「レンに言われると、不思議と重みがありますね」
「なんで?」
「秘密です」
少し意地悪そうに笑われた。
俺の方が秘密を抱えているのに。
その後、火の番を交代して、フィアと二人になった。
山の夜は寒い。
俺は温めた香草茶を二つ作る。
一つには蜂蜜を多め。
フィアへ渡す。
彼女が一口飲んでから俺を見る。
「私の方、甘くした?」
「うん」
「やっぱり」
「嫌だった?」
「逆」
それだけ言って、また茶を飲む。
俺も自分の杯を見る。
なんか。
最近こういうの多いな。
好きな味を覚えている。
覚えているから変える。
特別なことをしているつもりはない。
でもフィアが気づくと、妙に落ち着かなくなる。
「レン」
「何?」
「ヒムカ、楽しみ?」
少し考えた。
「楽しみ」
それは本当。
「怖くもある」
それも本当。
フィアは焚き火へ小枝を一本落とした。
「私は楽しみ」
「商売?」
「それも」
少し間がある。
「レンがずっと探してたものが、何なのか見てみたい」
胸が妙に跳ねた。
フィアは、日本のことを全部は知らない。
俺がどこから来たかも知らない。
それでも、ずっと隣で見ていた。
米を見つけた時も。
消された地図を追った時も。
ヒムカを目指すと決めた時も。
「……ありがとう」
「急に素直」
「たまにはいいだろ」
「気持ち悪い」
「返せ、蜂蜜」
「もう飲んだ」
強い。
さらに六日。
東へ。
山道は険しくなった。
荷馬車を降り、歩いて押す区間も増える。
そして十六日目の昼。
長い峠を登り切った。
「もうすぐだ!」
先頭の案内人が叫ぶ。
俺は息を切らしながら顔を上げた。
道の向こう。
山と山の間が開けている。
まず見えたのは空。
その次。
光。
水面。
一枚。
二枚。
いや。
違う。
何十。
何百。
斜面に沿って、無数の水面が並んでいる。
階段のように。
空を映しながら。
その中には、まだ背の低い緑の苗が整然と植えられていた。
風が吹く。
水面が一斉に揺れる。
俺は動けなかった。
村で最初の稲が芽を出した日を思い出す。
一粒を食べるのも惜しかった。
増やして。
失敗して。
また植えて。
そうやって大事に大事に守った米。
それが。
ここでは。
山一つを覆っている。
「レン?」
フィアの声が遠く聞こえた。
俺は一歩前へ出る。
知っている景色だった。
完全に同じではない。
山の形も。
家も。
水路も。
前世で見たものとは違う。
それでも。
分かる。
喉の奥から、勝手に言葉が出た。
「……田んぼだ」
東の山肌いっぱいに。
稲が育っていた。




