第81話 卒業――東へ
十六歳の春。
アウルム学院の正門に、八年前と同じ花が咲いていた。
薄い青色の、小さな花。
入学した時には名前すら知らなかった。今では春になるたび学院の坂道を埋める花だと知っているし、乾燥させれば弱い香草茶にもなることを知っている。
知らなかったことを、ずいぶん知った。
それでも。
「……卒業か」
口にすると、不思議なくらい実感がなかった。
制服の襟を直していると、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「兄ちゃん!」
振り向く。
俺より頭一つ低い少女が、坂道を駆け上がってくる。
「リナ、走ったら――」
言い終わる前に飛びつかれた。
八歳で学院へ来た頃、三歳だった妹。
今は十一歳。
もう抱き上げるような年齢じゃないのに、本人は昔と同じ勢いで突っ込んでくる。
「卒業おめでとう!」
「ありがとう。重くなったな」
「女の子に言っちゃ駄目って母さん言ってた」
「先に教えて」
その後ろから、母さんと父さんが歩いてくる。
母さんは俺の顔を見るなり目元を押さえた。
「大きくなったねえ」
「手紙でも毎回言ってたよ」
「実物を見るのとは違うの」
父さんは何も言わず、俺の肩を叩いた。
力が強い。
昔はその手がものすごく大きく見えた。
今は、俺の肩幅も少し近づいている。
「よくやった」
短い一言。
それだけで、胸が詰まりそうになった。
さらに後ろにはサヨもいた。
白と赤を基調にした服は昔と同じだが、今では「最後の巫女」という寂しさより、村で何かを教える人の顔をしている。
「おめでとうございます、レン」
「ありがとう。田んぼは?」
「卒業式より稲が気になります?」
「両方気になる」
サヨが笑った。
「順調です。今年はまた区画を増やします」
それを聞いて安心する。
昔、食べることさえ惜しかった一粒が。
俺の知らないところで、今も増えている。
卒業式は、思っていたより静かだった。
大講堂。
壇上の学院長。
八年間見慣れた先生たち。
名前を呼ばれ、一人ずつ卒業証を受け取る。
レオル。
フィア。
トーマ。
そして。
「レン・ガルド」
前へ出る。
学院長から証書を受け取った。
「卒業後も学び続けなさい」
「はい」
それだけ。
派手な光もない。
歓声もない。
でも席へ戻る途中、アルノー先生と目が合った。
先生は小さく頷いた。
入学試験で火を五つ並べた日。
火と熱の違いを聞いた日。
卵を焼いた日。
冷却箱を壊しかけた日。
全部、急に思い出した。
八年。
長かった。
短かった。
式が終わると、今度は別れの時間になった。
トーマは学都に残る。
生活魔術工房から正式な採用が決まっていた。
「圧力鍋、もっと小さくする」
「安全装置は絶対削るなよ」
「分かってるって」
「あと冷却箱も」
「注文多いな」
笑いながら握手する。
トーマの手は硬かった。
八歳の頃から工作が得意だった少年は、もう本物の職人の手をしている。
「ヒムカで変なもの見つけたら送って」
「変なもの限定?」
「レンが送るなら、大体変なものだろ」
ひどい。
でも否定できない。
レオルは学院の魔術研究を続けることになっている。
ただし、東方調査に学院から研究補助員を出す話があり、その候補にも入っていた。
「つまり?」
俺が聞く。
「少し遅れて東へ行く可能性が高い」
「結局来るのかよ」
「お前一人で古代資料と魔術現象を調べさせる方が怖い」
「信用ないな」
「八年分の実績がある」
これも否定できない。
そしてフィア。
彼女は卒業証を筒へしまいながら、何でもないことのように言った。
「私も東へ行くよ」
「……え?」
知っていたはずなのに、改めて聞くと変な声が出た。
「ノルン商会がヒムカ方面の交易路を調べるから。学院卒業後は、その調査に参加する」
「そうなんだ」
「そうなんだ、って前にも話したでしょ」
「いや、聞いてたけど」
「忘れてた?」
「忘れてない」
むしろ覚えていた。
たぶん、覚えすぎていた。
「偶然だね」
フィアが笑う。
「絶対偶然じゃないだろ」
言ってから止まった。
フィアも一瞬止まる。
「……商会としてはちゃんと理由があるよ?」
「分かってる」
「じゃあいいけど」
何となく二人とも目を逸らした。
少し離れたところで、母さんが全部見ていた。
やめて。
その顔やめて。
卒業式の後、学院食堂の一角を借りて、小さな祝いの食卓を作った。
料理長が厨房を貸してくれた。
「最後くらい客として食え」
と言われたが、それは断った。
卒業の日くらい、自分で作りたい。
村から届いたものがある。
米。
まだ大量ではない。
学院中へ配れるほどでもない。
でも今日ここにいる人たちなら、一膳ずつ食べられる。
釜へ入れる。
水を量る。
火をつける。
昔なら、炊き上がるまで鍋から離れなかった。
今は火力も時間も分かる。
それでも最後だけは蓋を開ける瞬間まで緊張した。
白い湯気。
米の匂い。
「兄ちゃん、これ好き」
リナがすぐ隣から覗く。
「知ってる」
「いっぱい食べていい?」
「今日は一人一杯」
「けち」
「まだ貴重なんだよ」
横で料理長が米を見ている。
レオルも。
トーマも。
フィアも。
アルノー先生。
マレーナ先生。
サヨ。
父さん。
母さん。
みんなが同じ卓を囲む。
八年前にはあり得なかった景色だった。
俺は席へ着いた。
いつもの癖で、言おうとする。
「それじゃ――」
その前だった。
レオルが手を合わせた。
「いただきます」
止まった。
トーマも続く。
「いただきます」
フィアも。
料理長も。
母さんも。
父さんは少し照れくさそうに。
リナは一番大きな声で。
「いただきます!」
俺だけが、言えなかった。
喉が詰まったから。
俺が教えた。
最初はそうだった。
意味を説明した。
食べ物への感謝。
作った人への感謝。
命をもらうこと。
でも今。
誰も俺を見ていない。
「レンが言うから真似する」んじゃない。
みんな、自分の言葉として言った。
俺がいなくても。
たぶん、明日も。
「兄ちゃん?」
リナが不思議そうに見る。
俺は笑って、手を合わせた。
「いただきます」
米を一口。
うまい。
昔の日本で食べていた米とは違う。
品種も。
水も。
炊き方も。
何もかも同じではない。
それでも。
白い飯を囲み。
手を合わせ。
誰かと一緒に食べる。
その景色は、間違いなく俺が知っていたものにつながっていた。
日本は消された。
そのはずだった。
でも。
ここにある。
ほんの少し。
食卓の上に。
俺一人の頭の中ではなく。
誰かの習慣として。
食事が終わった後、サヨが小さく言った。
「残りましたね」
俺を見る。
サヨだけには、その言葉の意味が分かった。
「うん」
残った。
いや。
違う。
もう、増え始めている。
夕方。
学院の正門に立った。
八歳の春、俺はこの門を見上げた。
大きいと思った。
知らない世界への入口だった。
今は、同じ門を反対側から見る。
荷物は少ない。
包丁。
サヨから預かった資料。
卒業研究の写し。
着替え。
そして、これまで書き溜めた料理の記録。
父さんたちは一度村へ帰る。
俺は準備を整えた後、東へ向かう。
ヒムカ。
米が残った土地。
古い祭祀が生活へ溶け込んでいる土地。
日本を消そうとした者たちが、「処理未完」と残した場所。
母さんが最後に何度も言う。
「無茶しないこと」
「うん」
「ちゃんと食べること」
「それは大丈夫」
「手紙」
「書く」
父さんはまた肩を叩いた。
リナは俺の袖を掴む。
昔と同じ。
でも今度は泣かなかった。
「兄ちゃん」
「ん?」
「また帰ってくる?」
その質問に、胸が少し痛んだ。
前世。
最後に言えなかった「行ってきます」。
この世界へ生まれてから、ずっと心のどこかに残っている。
今度は言える。
帰る場所がある。
「帰ってくるよ」
リナが笑った。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「うん」
フィアが少し先で待っている。
商会の馬車が東へ向かう準備をしていた。
レオルは学院に残り、後から来る。
トーマは工房。
全員が同じ道を行くわけじゃない。
それでいい。
八年間で教わった。
誰かと一緒にいるというのは、ずっと隣を歩くことだけじゃない。
別の場所で、それぞれが覚えたことを続けることもできる。
俺は門をくぐった。
その時。
空から、鳥の声がした。
見上げる。
黒い鳥。
高い。
普通なら脚なんて見えない距離なのに。
なぜか分かった。
一つ。
二つ。
三つ。
三本の脚。
八咫烏。
黒い影は学院の上を一度だけ旋回した。
そして。
東へ飛ぶ。
フィアも空を見る。
「鳥?」
「うん」
「知ってる鳥?」
少しだけ迷って。
俺は笑った。
「昔から、道案内が得意な鳥なんだ」
もちろん、フィアには意味が分からない。
「変なの」
「俺もそう思う」
黒い鳥は遠ざかる。
東へ。
ヒムカへ。
俺は学院を振り返った。
ここで学んだ。
失敗した。
友達ができた。
誰かを少しだけ特別に思うようにもなった。
そして。
一人で抱えていた日本の欠片を、ほんの少しだけ誰かへ渡すことができた。
八歳の俺は、知らないことを学ぶため、この門をくぐった。
十六歳の俺は。
学んだものを持って、世界へ出る。
俺は前を向いた。
「行こう」
東へ。
消された国の残り火を探しに。
そして。
その火を、もう一度食卓へ戻すために。
## 第八章あとがき
第八章「消されたものを、残ったものから探す」、ここまでお読みいただきありがとうございました。
この章では、十三歳から十六歳まで。
レンたちの学園生活、その最後の四年間を描きました。
第七章までのレンは、前世の知識を持ち込み、それを料理や魔法へ応用することで、少しずつ学院の中へ新しい考え方を広げてきました。
温度を測る。
条件を揃える。
比較する。
手順を残す。
断熱する。
大量調理を仕組みにする。
そうしたものが、第八章ではもう「レンだけの発想」ではなくなっています。
レオルが理論へつなぐ。
フィアが費用や運用を見る。
トーマが実物へ落とし込む。
料理人や教師や研究者が、自分たちの専門分野へ持ち帰って発展させる。
レンが何かを言った後、
「すごい! そんな方法が!」
だけで終わるのではなく、
**「じゃあ、そこから先は俺たちが考える」**
という人間が増えました。
学園編で一番描きたかった成長の一つです。
第72話から追い始めたのは、日本そのものではなく、
**「日本を消した痕跡」**
でした。
本がない。
文字が削られている。
資料が移動している。
修繕されたことになっているのに、その費用が残っていない。
レンたちは本文の中から答えを探すだけではなく、目録、移動記録、支払記録、人事記録といった「周辺の情報」を比べることで、意図的な処理が行われていた可能性へ近づいていきます。
ここで見つかったヴァル・ヘイム。
そして、王都史料庁。
さらに、
**根のない銀の樹。**
これまで「日本は何らかの力によって消された」という大きな謎だったものが、少しずつ、
「実際に記録を削った人間がいる」
「資料を移動させた組織がある」
という、人間社会の歴史へ降りてきました。
ただし。
第77話でセヴァンを登場させたことで、単純な秘密結社との戦いにはしていません。
彼らは彼らで、
**「危険な神話を封じることが、人を守る」**
と考えている。
実際、古い神名や祭祀が復活した地域では、魔力異常や死者まで出た記録がある。
だから封じた。
消した。
忘れさせた。
レンからすれば許せない。
でも、セヴァンたちからすれば「危険物を管理した」という意識です。
このすれ違いは、今後かなり大きくなっていきます。
そして第73話では、レンが一つの答えを出しました。
**「一か所にしかないから、消されたら終わる」**
だったら。
複数の場所へ残す。
誰が見たかを残す。
いつ変更したかを残す。
原本だけではなく、「そこに何があったのか」を別の場所へ残す。
前世なら、データの複製や変更履歴として当たり前に存在していた考え方です。
でも、この作品ではそれがそのまま大きなテーマにつながっています。
日本という国を一つ消しても。
日本文化の全部が、一つの箱の中に入っていたわけではない。
料理に残る。
言葉に残る。
祭りに残る。
神話に残る。
作物に残る。
人の記憶に残る。
だから、完全には消せなかった。
第73話の「記録を分散して残す」という発想は、そのまま日本そのものの構造でもあります。
第74話では少し謎から離れ、圧力鍋を扱いました。
ここでもレンは完成した技術を知っているわけではありません。
「圧力鍋というものがあった」
「普通より短時間で肉を柔らかくできた」
「蒸気を完全に閉じ込めるのは危険だった気がする」
その程度です。
だから一号機は危ない。
そして怒られる。
そこから専門家が加わり、安全装置を考える。
料理を目的として始まったものが、高温蒸気による医療器具の処理へつながる。
この、
**料理から始まって、別の技術へ枝が伸びる**
という流れも、今後さらに増えていきます。
第75話では十四歳になり、レン自身の進路を決めました。
研究院への推薦。
魔術研究者としての評価。
それを受けた上で、
**「料理人になりたいです」**
と言う。
ここは、かなり大事な場面でした。
レンは研究を嫌いになったわけではありません。
魔法も好き。
実験も好き。
新しいことを知るのも好き。
でも、最終的にそれらを何のために使いたいかと問われれば、
**「誰かに飯を食べさせるため」**
なのだと思います。
料理か研究か。
料理か魔法か。
どちらかを捨てるのではなく。
全部を料理へ持っていく。
最終的にこの物語が神々の話になっても、レンは「神殺しの英雄」になるために歩いているわけではありません。
彼は最後まで、料理人として答えを出す人間です。
その軸を、十四歳で一度はっきり言葉にしました。
第76話では、名前を伏せた食べ比べをしました。
レンの料理が一番ではない。
ここも大切にしています。
現代知識を持っているから、どんな料理人にも勝てるわけではない。
ラウラの方が料理そのものの完成度は高かった。
でもレンには、
安い材料を使う。
大量に作る。
再現する。
限られた予算でも美味しくする。
そういう強みがあります。
前世で家族のために安い材料から美味しい料理を作ろうとし続けた経験が、十四歳になっても彼の武器です。
そして。
この回では、フィアとの距離も少し進めました。
八歳で出会った二人が。
十二歳で相手を少し違って見るようになり。
十四歳では、別の異性と話している相手を見て、少し落ち着かなくなる。
まだ告白もしません。
「好き」とも言いません。
ただ、相手の好みを覚えている。
その人だけに味を変える。
大勢に一番評価される味より、
**「フィアが好きな味」**
を作った時の方が、レンは嬉しかった。
料理が恋愛の言葉にもなり始めています。
そして第78話。
十五歳の冬。
この回では、レンを一度かなり明確に失敗させました。
食料が足りなくなる。
だから配給を減らす。
判断そのものには理由がある。
でも、伝え方まで考えなかった。
結果、学院生が市場へ殺到し、街の人まで不安になり、買い占めが始まりかける。
レンの弱点である、
**「答えが見えると、そこへ先に走ってしまう」**
が、年齢と影響力の増加によって、以前より大きな問題を生むようになりました。
八歳なら、失敗して自分が困るだけだった。
十五歳になると。
レンの発言で何百人が動く。
だから、
**正しいことを知っているだけでは足りない。**
どう伝えるか。
誰がどう受け取るか。
そこまで考えなければいけない。
フィアがここで非常に重要な役割をしています。
そして立て直しでは、これまで学んできたことを全部使いました。
在庫。
古いものから使う。
消費量。
廃棄。
出汁。
断熱。
大量調理。
燃料。
情報公開。
誰かを剣で救うのではなく。
倉庫と厨房で、何百人の「明日の飯」を守る。
レンが料理人として強くなったことを示す回でした。
そして第79話。
ここで、今までの謎が一気につながります。
名を呼ぶ。
供物を作る。
古い穀物を育てる。
その意味を、人々が共有する。
すると。
**消失した神格が、再び反応する。**
日本の神々は、ただ力を失って眠っているわけではない。
人間に忘れられたから。
名前を消されたから。
文化を切られたから。
この世界から遠ざけられている。
逆に言えば。
人間が思い出す。
名前を呼ぶ。
料理を作る。
誰かへ教える。
食卓を囲む。
それだけでも、失われた神々は少しずつ戻ってくる。
ここで、第一話から積み上げてきた「料理」と「神話」が、ようやく同じ一本の線になりました。
そしてヒムカ。
旧神話災害対策局が、
**「処理未完」**
と残した地域です。
神社だけが残っているからでもない。
神名が一冊の本に残っているからでもない。
もっと厄介だった。
食。
祭り。
作物。
言葉。
生活習慣。
暮らしそのものへ古い文化が混ざっていた。
これを完全に消そうと思えば、生活そのものを消さなくてはいけない。
ここは、この作品の核に近い部分です。
文化というのは、博物館に保存された時だけ生きているものではない。
毎日の食卓にある。
親が子へ作る料理にある。
意味も考えずに言っている言葉にある。
それが結果として、神を生かす。
だからレンがやってきたことは。
自分でも気づかないまま、
**日本の神々へ「戻ってこられる場所」を作る行為**
でもありました。
そして第80話。
卒業研究です。
温度。
衛生。
乳の加熱。
発酵。
断熱。
加圧。
在庫。
工程。
大量調理。
八年間で覚えたものを全部使う。
でも、完成したものは新しい巨大魔導兵器でも、伝説級の魔法でもない。
**食堂。**
最後まで飯です。
でも、その食堂は千人近い人間へ、安全で温かい食事を継続して出せる。
軍にも。
避難所にも。
療養施設にも。
街にも。
使える。
八歳の頃、入学試験で「料理です」と答えて周囲を驚かせたレンが。
十六歳になり、
**「料理だからこそ価値がある」**
と学院に認めさせる。
ここは学園編の一つの到達点でした。
そして第81話。
卒業。
派手な事件は起こしませんでした。
むしろ、ここで一番描きたかったのは食卓です。
八年前。
「いただきます」は、レンの言葉でした。
日本から持ってきた。
意味を説明しなければ、誰も知らなかった。
それが卒業の日。
レンが言う前に。
レオルが言う。
トーマが言う。
フィアが言う。
家族が言う。
料理長も言う。
誰も、
「レンが言うから真似をする」
とは思っていない。
もう、それぞれの習慣になっている。
ここで、レン自身も気づきます。
**日本文化は、もう自分の頭の中だけにはない。**
誰かへ渡った。
そして、その人がまた別の人へ渡せる。
それは、この物語における一つの勝利です。
国はまだ戻っていない。
神々も完全には戻っていない。
日本という名前さえ、ほとんど誰も知らない。
それでも。
食卓には残り始めている。
第八章では「消されたもの」を追ってきました。
でも最後に見つけたのは、
**消されなかったもの。**
そして、
**もう一度、増やすことができるもの。**
でした。
八歳で学都へ来たレンは。
十六歳になりました。
もう幼い子供ではありません。
前世で高校生だった頃の年齢にも、ほぼ追いついています。
これからは、前世の自分と今世の自分を簡単に分けることもできなくなっていきます。
日本で過ごした十七年。
この世界で過ごした十六年。
父と母。
前世の両親。
前世の妹。
リナ。
もし本当に日本へ帰れる道が見つかった時。
レンは、もっと難しい問いに向き合うことになります。
でも、それはまだ少し先。
今は。
東です。
八咫烏が飛んだ方角。
米が残った土地。
祭祀が生活へ溶け込んだ土地。
日本を消そうとした者たちが、最後まで消しきれなかった場所。
**ヒムカ。**
学園編は、ここで終わります。
ここからは旅です。
学院という守られた場所を離れ。
教科書にないものを見る。
教師の答えがない問題へ向き合う。
知らない土地の人間と出会う。
そして。
レンがずっと探してきた「日本」が、少しずつ具体的な形を持ち始めます。
ただし。
ヒムカにそのまま日本が残っているわけではありません。
百年以上。
あるいは、それ以上の時間。
別の世界として生きてきた人々がいる。
日本の欠片が残っていたとしても、それは変化し、混ざり、別の文化として生きています。
レンが、
「これは日本のものだから正しい」
と押し付ければ。
今度はレン自身が、他人の文化を消す側になってしまう。
その問題も、これから避けて通れません。
日本を取り戻すとは何なのか。
昔の姿へ戻すことなのか。
名前を復活させることなのか。
記憶を残すことなのか。
それとも。
今生きている人たちと一緒に、もう一度育て直すことなのか。
その答えを、レンはこれから探していきます。
第八章までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次章から、物語は新しい段階へ入ります。
学院を卒業した十六歳の料理人。
フィア。
サヨ。
そして少し遅れて東方調査へ加わるレオル。
それぞれの目的を抱えて。
東へ。
次章――
## 第九章 ヒムカ――消せなかった国の味
へ続きます。




