第80話 十六歳、俺の卒業研究は食堂です
十六歳の春。
八歳でアウルム学院へ入ってから、八年が過ぎた。
そして卒業研究の発表一覧を見た俺は、周囲の題目を眺めて少しだけ後悔していた。
『複合属性魔術における干渉抑制術式の改良』
『小型飛行魔導具の姿勢制御』
『北方大型魔獣に対する拘束魔術の最適化』
『広域魔力通信の中継効率』
強そう。
賢そう。
卒業研究っぽい。
その中に俺の題目がある。
**『少ない資源で、安全な温かい食事を多数へ継続供給する方法』**
要するに。
「食堂じゃん」
後ろからフィアに言われた。
「言うな」
「八年間やって、最後も食堂なんだな」
レオルまで笑う。
「俺も今ちょっと思ってるから!」
トーマだけは俺の設計図を見ながら、
「でも、この厨房かなり面白いよ」
と言ってくれた。
友よ。
お前だけが救いだ。
卒業研究は、論文を提出して終わりではない。
高等科では、実際に成果を示す必要がある。
だから俺は学院へ頼んだ。
卒業研究の日だけ、学院食堂の運営を丸ごと任せてほしい、と。
審査員の一人には、
「君は研究発表で昼食を作るつもりなのか?」
と聞かれた。
「はい」
「千人近くいるぞ」
「だからやるんです」
八歳の頃なら、たぶん勢いだけで言っていた。
今は違う。
人数を数えた。
食材を確認した。
厨房の人数も。
魔石の消費量も。
一食あたりの費用も。
そして、過去八年で失敗したことまで全部入れた。
発表当日の朝。
学院食堂の壁には、大きな工程表が貼られた。
下処理。
加熱。
保温。
配膳。
洗浄。
誰が、いつ、何をするか。
隣には温度記録。
生肉用と加熱済み食材用の器具は分け、印も変えてある。
倉庫では古い材料から先に出す。
骨や野菜の端は出汁へ。
大鍋には蓋と断熱。
肉の一部は加圧鍋で処理。
乳製品は決められた条件で加熱。
手洗い場所には洗浄剤。
料理が完成した後も、提供まで温度を記録する。
厨房を見学していた軍の補給官が、途中で足を止めた。
「これは……料理研究なのか?」
俺は答えた。
「料理研究です」
「衛生管理に見える」
「それも料理です」
商人が言う。
「在庫管理も入っている」
「それも料理」
生活魔術研究者が断熱構造を見る。
「魔力効率まで?」
「料理です」
後ろでレオルが吹き出した。
「お前、料理の範囲広げすぎだろ」
「人が食べるまでに必要なら料理!」
我ながら強引だ。
でも、本気でそう思っている。
料理は、鍋の中だけで始まって終わるものじゃない。
食材が届く。
保存する。
人が触る。
火を通す。
配る。
食べる。
片付ける。
その全部がつながって、初めて一食になる。
最初の問題が起きたのは、配膳開始直前だった。
加圧鍋の一つが予定より遅れている。
肉が間に合わない。
昔の俺なら、火力を上げていた。
今は違う。
「予定変更。第二鍋の豆煮込みを先に出す」
フィアが確認する。
「肉料理待ちの札は?」
「別列にする。待てない人には豆へ変更できるように」
レオルが厨房の魔石残量を見る。
「加圧鍋へ回せる魔力はある」
「でも急激に上げないで。安全優先」
トーマが弁を確認する。
「こっちは問題なし」
誰も慌てない。
問題が起きない仕組みじゃない。
問題が起きても、全体が止まらない仕組み。
それを作りたかった。
昼。
学院中から生徒が来た。
最初の百人。
二百。
三百。
札を渡す。
列を分ける。
盛る。
渡す。
戻ってきた食器は別方向へ流す。
人と皿が逆流しない。
「次、肉四!」
「豆六!」
「パン補充!」
声が飛ぶ。
でも混乱しない。
八年前、村の屋台で一人ずつ料理を作っていた俺からすると、別世界だった。
五百人を越えた頃、見学していた審査員の一人が時計を見る。
「この速度で品質は落ちないのか?」
「確認してください」
完成した料理を無作為に何皿か取る。
温度。
塩分。
肉の柔らかさ。
大きな差はない。
料理長が横で腕を組んでいる。
「俺の厨房で八年も好き勝手やって、ようやくここまで来たか」
「好き勝手は言いすぎじゃない?」
「卵焼いて授業変えた奴が言うな」
何も言い返せない。
そして最後の一食が出た。
九百八十七食。
予定時間内。
食中毒事故なし。
大きな配膳遅延なし。
食材廃棄は、従来運営より少ない。
魔石使用量も低い。
一食あたりの費用も予算内。
フィアが最終集計を見せる。
「終わったよ」
俺は厨房の壁へ背を預けた。
「……終わった?」
「終わった」
実感がなかった。
その時、審査主任が俺を呼んだ。
食堂の前には、研究者、商人、料理人、軍人、教師が並んでいる。
「レン・ガルド」
「はい」
「君の研究について、一つ質問する」
嫌な汗が出る。
「この成果の中心は何だ?」
温度計?
衛生?
断熱?
在庫?
工程表?
全部違う気がした。
俺は少し考えた。
そして、厨房を見る。
レオル。
フィア。
トーマ。
料理長。
マレーナ先生。
アルノー先生。
俺一人で作ったものなんて、ほとんどない。
「誰でも続けられることです」
審査員が目を細める。
「続ける?」
「俺がいなくても、同じ仕組みを使えるようにする」
レシピがある。
数字がある。
記録がある。
役割がある。
失敗した時の手順も残した。
「一人のすごい料理人が千人分を作るんじゃなくて、普通の人たちが協力して、毎日安全な飯を出せるようにする。それが一番大事だと思います」
静かだった。
やがて軍の補給官が言った。
「戦地でも使える」
マレーナ先生が続ける。
「避難所や療養施設にも」
商人は、
「大規模宿泊施設でも」
と言う。
審査主任が笑った。
「なるほど。確かに厨房だけの研究ではない」
俺は反射的に言った。
「でも料理です」
今度は全員が笑った。
卒業研究の評価は、最高等級だった。
結果を聞いた瞬間、俺は思わず天井を見上げた。
八歳。
五つの火を出して周囲を驚かせた。
あの頃は、自分がすごいことを見せるのが楽しかった。
今も楽しい。
それは否定しない。
でも今日、嬉しかったのは別のことだった。
俺が厨房を離れても、料理が出続けていた。
俺が指示しなくても、みんなが動けた。
俺の知っていたことが、もう俺だけのものじゃない。
「レン」
アルノー先生が一冊の卒業研究報告書を渡してきた。
表紙を開く。
執筆者欄。
俺の名前。
その下に、共同研究協力者。
レオル。
フィア。
トーマ。
料理長。
マレーナ。
生活魔術研究室。
厨房職員。
他にもたくさん。
俺がそうしてほしいと頼んだ。
先生が聞く。
「自分一人の成果にしておけば、将来もっと評価されたかもしれないぞ」
「嘘になるから」
俺は答えた。
それに。
一人の名前しか書かれていない知識は、その一人が消えれば弱い。
今の俺は、それをよく知っている。
だから、残すなら。
たくさんの名前と一緒がいい。
夕方。
食堂には余った材料で作った簡単なまかないが出た。
四人で同じ机を囲む。
レオルが匙を置いた。
「八年前から最後まで飯だったな」
「まだ言う?」
「褒めてる」
フィアが笑う。
「研究院の人、最後にまた勧誘してたよ」
「聞こえない」
「料理人になるんでしょ?」
「なる」
迷いはなかった。
トーマが聞く。
「卒業したら、ヒムカ?」
一瞬だけ空気が変わる。
俺は頷いた。
「うん」
そこで何が待っているのか、まだ分からない。
日本の痕跡。
古い祭祀。
消そうとされた文化。
戻ろうとしている神々。
怖くないわけじゃない。
でも。
八年前とは違う。
知らないことだらけでも、俺には学び方がある。
調べ方がある。
頼れる人がいる。
そして何より。
腹が減ったら、飯を作れる。
それは案外、強い。
俺は最後の一口を食べた。
卒業研究は終わった。
でも。
**まだだ。まだ終わらない。**
俺が料理人として、本当にこの世界へ出ていくのは。
ここからだった。




